第35話 社会勉強② (Side:アルヴィン)
酒場の扉を開けると、一層賑やかな喧騒が耳に飛び込んで来る。
決して広くはない店内のあちこちで笑い声が響き、注文を取る店員の元気な声が飛び交う。店の奥には小さな舞台があり、隅で楽器を演奏する数名の姿が見える。奏でられる軽快な音楽に合わせて、壇上では酒の入った客たちが思い思いに身体を揺らしていた。
初めて目にする夜更けとは思えない活気にあっけに取られている間に、カルロは店員をつかまえて席を確保してくれたようだ。
導かれるままに席に着き、注文を促されてびくりと肩を震わせる。
「俺は麦酒。こいつには、アルコールがないものを」
「えっ」
僕は酒に強いという自負がある。思わず驚いてカルロを見返すが、カルロは取り合ってくれなかった。
手慣れた様子で適当に食事も一緒に頼むと、僕へと呆れた顔で向き直る。
「慣れない安酒なんか飲むな。混ぜ物の入った純度の低い酒で、明日二日酔いになっても知らねぇぞ」
「ぅ……」
確かに、旅程を考えれば、明日の始発電車に乗ることは絶対だ。
両親もカルロとシャロンの婚約を破棄することで合意したのだから、カルロの助力を正式に得られるのは社交シーズンが始まるまでだ。それまでに、彼の力を借りなければならない竜の魔法についての解明だけは終わらせておきたい。
時間を無駄に出来ないことを考えれば、庶民の酒事情をよく知らない僕が我を通すよりも、ここは大人しくカルロに従うべきだった。
やがて、貴族が赴く飲食店では考えられないような提供速度で飲み物と食事が運ばれてくる。
何もかもに驚きながら、僕は恐る恐る武骨な木製のカップを傾けて喉を潤した。
「ほら、食え。酒に合うように味付けは濃いが、悪くない」
「う、うん」
串に刺さった肉をひょいと差し出され、戸惑いながら受け取る。不躾にならないよう周囲を見渡し、串から直接食べるのだと知って驚いたが、意を決してかじりついた。
口の中にジュワッと熱い肉汁が広がる。カルロが言うように強めに塩がかかっていて、喉が渇く味だった。
「ふっ……くくっ……お前のそんな姿が見られるなんて、思ってもみなかった」
「な――!」
「いや、悪い。揶揄ってるわけじゃないんだ」
喉の奥で笑いをかみ殺しながら言われても、信憑性はない。カルロは羞恥に頬を染めた僕を見て笑いながら、次に運ばれてきた揚げ物を指でつまみ、ひょいと口に放り込んだ。
彼がここまで肩の力を抜いて、行儀という概念をすっ飛ばして食事をしているのは初めて見る。普段、旅の途中でカルロが連れて行ってくれた食事処の殆どは、気を遣った場所を選んでくれていたのだと察した。
カルロとは気安い関係だが、やはり住む世界が違うのは事実だろう。彼が僕の隣で真の意味で自然体でいることは難しいのかもしれない。
もちろん、彼はそんなことを気に掛けるような男じゃない。本当に嫌だと思うことはやらない男だ。僕に合わせた生活をすることなど、苦ではないとあっけらかんと言い放つだろう。
それに嘘はないと知っているが――なんだか、申し訳ない気持ちになる。
賑やかな酒場で酒を煽り、つまみを口に放り込んで喧騒を楽しむカルロの顔は、レーヴ領で貴族社会のごたごたに巻き込まれて憮然としていたときとは比べ物にならないくらい晴れやかだから。
そんなことを考えていると、ふいに新しい曲が流れだし、カルロがステージを振り返った。
「……お。これは、ロデスの曲だな」
「え」
「俺の母国だ。向こうじゃ有名な民謡だよ。なるほど、面白いアレンジだ」
軽快なリズムに手拍子を合わせた陽気な曲調は、開放的な性格の民が多いというお国柄を連想させる。昔読んだ本には、首都の海洋都市は、交易で様々な民族が入り乱れるため、陽気で社交的な人が多いと書いてあった。
思えばカルロも、初対面の相手に物怖じしているところを見たことがない。身分が上の相手でも気後れすることはないくらいだ。
トントンと指先で机を軽く叩いてリズムを刻むカルロの横顔は、酒が入っているせいか楽しそうだ。
人見知りで初対面の人間とは目を合わせることも出来ず、殆どまともに会話することが出来ないシャロンとは正反対の性格――よく何年も、根気強くシャロンに付き合ってくれたものだ。
「……踊ってこなくていいの?」
「は?」
「懐かしい曲なんだろう?皆も楽しそうだし……」
ステージの上では客たちが自由にステップを刻んでいる。周囲も手拍子や合いの手を入れて愉快な様子だ。
見れば、ひとりで壇上にのぼり、踊りながら周囲と笑い合う人もいる。カルロなら同様にあっという間に周囲と仲良くなれるはずだ。
「お前も行くのか?」
「ま、まさか!僕には踊れないよ。僕のことは気にしなくていいから、一人で――」
「阿呆。こんなところにお前ひとり置いて行ったら、あっという間に男に取り囲まれてどっかに連れていかれる。店に入って来た瞬間からずっと男どもに見られてるの、気づいてないのか」
「え――」
少し不愉快そうに酒を煽るカルロの言葉に驚いて周囲を見回すと、バツが悪そうに不自然に顔を反らす男たちが目に入った。
……全然、気が付かなかった。
「お前と踊りに行っても、これ幸いと一緒に壇上に上がった男たちから、混雑を口実にべたべた身体を触られるぞ。煩わしさに俺が全員をフッ飛ばして大騒動になるのは目に見えてる」
「そ、そんな……」
「お前は酒が入った男を甘く見過ぎだ。危機感を持て」
言いながら、カルロは鋭い視線を周囲に飛ばす。知らないうちにまた注目を浴びていたようだ。
少し居心地が悪くなって、視線をカップの中に落とすと――
「お待たせしました、すみませぇん!お代わりですか?」
後ろから元気な甘い声が響いて、肩が跳ねる。カルロも少し驚いたように目を瞬かせた。
顔を上げれば、口元にほくろのある色っぽさと可愛さを兼ね備えた若い女性店員が首をかしげて傍に立っている。
「あれ、違いました?お客さんたち、二人ともきょろきょろしてたからぁ」
僕とカルロが二人とも周りの男に視線を飛ばしたのを、店員を探しての仕草と勘違いしたようだ。カルロはわざわざ来てくれた店員を返すのも忍びないと思ったのか、何食わぬ顔でお代わりを注文する。
「かしこまりましたぁ!次からは、大きな声で呼んでくださぁい」
「大丈夫。君みたいな可愛い子なら、次はすぐ見つけるさ」
不意にさらりと告げられた軽薄な言葉に、店員は一瞬ぽかんとした後、さっと頬を染める。
「も、もうっ!お客さん、冗談ばっかり!こんなにきれいなお連れさんがいるのに!」
バシッと肩を叩いてどこかに行ってしまう店員を、カルロは笑いながら見送る。いつものことだが、僕は思わず半眼になった。
「ぁ?……なんだよ」
「毎度のことだけど……君のそれ、どうにかならないのかい?」
不機嫌をにじませて尋ねる僕に、カルロは悪びれもせずニッと笑うだけだ。
まったく、この軟派男はいつもこうだ――
僕は小さくため息をついて、可愛らしい制服を身に纏った店員の後ろ姿を目で追った。
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