花天月地【第70話 徒花】

七海ポルカ

第1話



 陶器の割れる音がした。


 書庫で書物を読んでいた荀攸じゅんゆうは、ふと響いたその音に気付き顔を上げた。


 この書庫は中庭に面していて、四面に部屋がある。

 音は向かいの部屋の方から聞こえた。


 書を閉じ荀攸は立ち上がると、外套を持って書庫を出て行った。


 冬の寂しい庭を抜け、向かいの回廊に乗り、対面の部屋に入る。

 すぐに、床に割れた陶器をしゃがみ込んで拾っている後ろ姿があって、呼び止めた。


文若ぶんじゃく殿」


 驚かさないように声を掛けてから、荀攸は部屋に入っていった。


公達こうたつ殿。申し訳ありません。手が滑ってしまい」


「お気になさらず。単なる安物です。

 そんなことは貴方がなさってはいけない。

 さぁ、こちらへ。怪我はありませんか」


 荀彧じゅんいくを助け起こし、慎重に足下を促して、破片の中から連れ出した。

 回廊に出ると、丁度向こうから使用人がやって来た。


「すまないが割れた破片を綺麗にしておいてくれ」

「すぐにいたします」

 使用人が一礼し、急いで去って行った。

 庭に出る。


「文若殿が皿を落とすとは、お珍しい」


 そう言って荀攸は少しからかった。

 荀彧も意味を汲んで、笑っている。

「いえ。本当に失礼しました。考え事をして少し気を抜いていた」

 

 使用人が人を連れて、すぐに荀彧の滞在する部屋に入って行った。


「さすがは荀攸殿。許都きょとに来て間もないのにすでに気心の知れた屋敷になさっておいでですね。とはいえ、いつまでも優秀なこちらの方々に甘えて置いていただくわけにもいかない。私も早く家を整えねばならぬのですが」


 ここに来た時の状況が状況だったので、普通は主が到着するまでに屋敷などは整えられているものだが、荀彧じゅんいくは曹操に長安での仕事を罷免されたままやって来たので、手筈が整っていなかったのである。

 荀彧は長安ちょうあん洛陽らくように屋敷を持っているが、そこに妻子を伴っていない。妻子は潁川せいせんの実家におり、公私を厳格に切り離すことを望む彼の気質から、ずっとそうだった。

 その代わり季節の折に休みを取り、きちんと実家に戻り、自分の目で家族の様子を把握している。

 そういう生活を普段からしていたので許都に来た時、屋敷が用意されるまでその辺りの民家でも借りると言ったのでギョッとした荀攸がそんなことはいけませんどうか準備が整うまで我が家にお越し下さいと、半ば無理に引っ張って来た。

 いえ、衣食住を私一人分用意してくれる人と場所、それに筆と書くものがあれば私は生きていける習性なのでなどと言っていたが、とんでもないことである。


 魏において荀文若じゅんぶんじゃくの名を知らぬ者はいない。

 

 自分はたかだか長安ちょうあんの都と、昔滞在していた洛陽に少し知り合いがいる程度だが、荀彧は魏のどんな都でも、街でも、名は知られている。町人だって知っているはずだ。


 曹丕そうひに挨拶を済ませた後、正式に任官が叶ったら屋敷を初めて用意しようと思う、それまでは簡単に間借りするなどと言われて、最後には土下座までして荀攸は荀彧を自分の屋敷に留まらせた。


 荀彧も、家の者も、どちらもが互いを気にして気を遣うので、離れを使って貰っている。

 あの対面の部屋は客間だ。

 普段は使っていないので空いている時は庭を眺めるようなことだけに使う。


 春や夏や秋なら、庭の花や草だが。

 今は冬だ。庭に楽しむべきものはあまりない。

 荀彧と連れ立って、対面の書庫に戻った。


「まずは長安に戻った曹丕殿下が許都きょとにお戻りになるのを待ちたくて。

 正式な任官も得ていないのに、主が不在の許都に屋敷を建てるのは、どうも気が咎めます」

 

「貴方らしい」


 荀攸じゅんゆうは笑った。

 だが気持ちは分かる。自分も同じ立場で可能なら、曹丕にはきちんと挨拶を済ませてから許都に身を置きたいと望む。

 その自分より、荀彧は物事の正しい道筋を重んじて生きて来た。


 ましてや長年曹操そうそうの許に仕えて、形としては罷免されて来たのだ。

 荀彧を召し抱えるかどうかは、確かに曹丕の一存である。


 無論、曹丕は全ての理由を鑑みても荀彧を召し抱えるだろうが、仕える前から主の意図を勝手に汲み取ってみせるなどというのは、不遜ではある。


 荀彧の立場なら生活の準備の全てを整え、曹丕そうひの帰還を待ち、それから許都に参りましたと報告をして、呼ばれたら参殿する形でも全く礼は欠いていないが、この人はそういう人なのだ。

 

「我が家のことは本当にお構いなく。私が普段家で人と飲まないので、妻など客人の世話が出来ることが嬉しくてたまらないようで。私だけが家にいる時よりも明るい顔をしているので、逆に私が貴方にお礼を言わなければならないほどです。

 同じじゅん家でも文若殿と私の好みは違うだろうから、好きな食材を詳しく聞いて来てくれと何度も催促されていますし」


 確かに荀攸じゅんゆうは、あまり私邸には人を呼ばない。

 子供は二人生まれたのだが、不幸なことに早くに亡くなってしまって、それ以来荀攸の妻は身体を悪くしてしまい、以来十年以上子供が出来ていなかった。

 しかし非常に仲のいい夫婦で、荀攸の休みが天気に恵まれると二人で遠出に散策に出たり、街に買い物などにも出ているらしい。


荀攸は王宮で重用されているので、自分の娘や親類の女たちを彼の側室に入れたいと思っている者は随分いるらしいが、荀攸が妻を大切にし、二人が子を失った父と母なので、女遊びをしない荀攸相手に、側室を貰って欲しいなどとは、なかなか話が出来ないようだ。


 荀彧は身内として一度だけ、父親に頼まれて荀攸に側室を迎える気はあるかどうかを尋ねたことがある。


 荀攸の答えは否、だった。


 決して尋ねて来た荀彧を非難するような言い方ではなく、気遣っていただいて申し訳ないと言った上で、


『父とは、子を守るものです。

 病は天命とはいえ、私は二人の子を父として守ってやれませんでした。

 しかし妻は、私を二人の子の父にしてくれたのです。

 妻だけは最後まで大切にしないと、息子達が悲しむ』


 それを聞いて荀彧は小さく二度頷くと、それ以後二度と側室のことは口に出すまいと誓った。



「催促などしていませんわ」



 書庫を通りがかって、荀攸の妻が丁度やって来る。

 

「ただ折角文若ぶんじゃく様がこの家に滞在して下さるのですもの。

 他人の家だから好きな料理が出なかったなんて思われたら、悲しいですわ。

 心ゆくまで我が家で寛いで頂きたいという、貴方の妻の気遣いですのよ」


 優しい声で窘められた荀攸が笑いながら、やって来た妻に頭を下げる。


「勿論、その通りです。奥方。全く以て全て貴方の仰る通り。私が言葉の選択を誤りました」


「まあ。文若様がいらっしゃると、旦那様はご機嫌が良くお世辞まで言うように」


「申し訳ありません、奥方。私がこちらの皿を割ってしまって。

 騒がしい客人で大変失礼を」


 荀攸の妻は穏やかに笑った。


「旦那様と文若様は同じ『荀』ではありませんか。

 つまり、我が家と文若様の家の大地は同じ。

 同じ大地に転がった破片を我が家の者が片付けるなど、当然のことですわ」


 お茶を淹れながらそう言われ、荀彧は声を出して微笑む。


「誠に温かなお気遣い、ありがとうございます」

「今日は特に冷えます。旦那様のものですが、文若様、こちらを……」


 彼女は畏まりながら荀彧の背に、持って来た上着を掛けた。


「これは、申し訳ない」

「ありがとう。助かります」

 荀攸も、妻に優しく声を掛ける。

 一礼し、微笑むとすぐに彼女は退出して行った。


 不運なことはあったが、この屋敷は子供がいなくても温かな空気がいつも満ちている。

 それはあの女性の生み出すものなのだろうなと荀彧は思う。


「殿下はこの冬は長安に留まられるのでしょう」


「ええ……」

 荀彧は冬の庭を見ている。

「涼州のことをお考えに?」

 荀攸の指摘に、唇で笑った。

「よくお分かりになる」

「今、長安ちょうあん洛陽らくよう許都きょとは一応の落ち着きの中にありますから。

 荀彧殿が気になさるならば、やはり西かと」


「実は出兵前に郭嘉かくか殿から文が届きまして」


 荀攸がこちらを見る。

「もしこの遠征で自分に何かあれば、異母妹の瑠璃るり殿の後見をよろしくと書かれていました」

「瑠璃殿……滎陽けいよういん氏のご息女でしたね。

 確か――文若ぶんじゃく殿が舞陽ぶよう犀昂さいこう殿の元に養女になさった……?」

「そうです。さすがは公達こうたつ殿、よく覚えておられるものです」

「懐かしい。一度菊花宴に誘っていただいた時に会いました。あれは確か……十年も前のことでは」

「ええ」

「今はもう、何歳におなりになったのですか」

「今年で十八です。美しい娘になられたと郭嘉殿が目を細めておられました」

「そうですか。もうそんなに……」

「元々瑠璃殿が犀昂さいこう殿の養女になられた所以が、いん氏の家で冷遇されていたことですから、郭嘉殿のお父上が瑠璃殿を庇護してくださらない以上、自分がいざという時の後見になりたいと望んでおられるのです。瑠璃殿は郭嘉殿が病床にあった五年、郭家で下働きの娘として働きながら、あの方のお側におられた」

「下働きの娘として?」

 荀攸が怪訝な顔をしたが、すぐに察して小さく頷く。

「そうですか……それは哀れな」

「郭嘉殿はその事情を快癒されるまで聞かされてなく、父上とそのことで今も疎遠に」


「……郭嘉殿らしい」


 少し笑んで、荀攸じゅんゆうが一つ呟いた。


「自分に何かあった場合、郭嘉殿個人の私財を瑠璃るり殿が継げるように計らって欲しいと書かれていました」


 郭嘉には弟がいるが、郭嘉が早くから郭家に寄りつかなくなったので、家督はすでに弟が継ぐことに決まっていると聞いた。

 その弟と兄弟仲は良いらしい。

 郭嘉は己の家の繁栄には無頓着だった。

 彼は曹魏の天下統一だけにしか興味を持っていない。

 私欲がないのだ。

 しかし若くして曹操に仕えていたので、正式な任官でなくとも様々な褒美を受けていて、私財は豊かだ。

 

「それほど異母妹を大切になさっているとは知りませんでした」


「郭家は男ばかりなので、特別可愛いようですよ」

「しかし異母妹に私財を全て譲るということは、郭嘉殿は妻帯は望んでおられないのでしょうか。あれだけ……、その、……特に気に入っておられる女性がいるのかと思っていましたが」

「お好きな方はおられますよ」

 言葉を慎重に選んだ荀攸に、荀彧がくすくすと笑っている。

「ではその中からどなたかに?」

「どの女性のことも――女神のように褒め称えておられます」

 その言い方に荀攸じゅんゆうも笑ってしまって、誤魔化すように茶を飲んだ。


「男女には色々な形がある。

 それぞれに味わい深いものですね」


「恋のことばかりは私にも分かりません」


 荀彧が言った。

「妻とは許嫁で、結婚するまで顔も知りませんでしたし。

 今は連れ添って時が経ち、子も生まれ、家族となり、深い愛情で結ばれたと思っていますが、恋い焦がれたという感じではありません。

 曹操そうそう殿も普段は隙の無い方なのに、女のことで時折突拍子もないことをなさることがあった。

 君主として、政の際ではあれほど冷静でおられるのに、不思議です」


文若ぶんじゃく殿はかつて、私邸が公務の近くにあると雑念を呼び込むと言っておられました。

 家にいると父や夫に意識が戻るので、逆に公務を疎かにしているという思いになり、余計に焦ると」


「家にいると私はいつも王宮を気にしていると、妻に言われて気付きました」

「心を占有する、恋情もそれは同じです。文若殿こそ、よくそれをご存知のはず」


 ふと荀攸に言われて、

 曹操が魏公になった時、そしてそれに伴い急速に心と体が離れた時、

 何故自分があれほど空虚を感じたのか、何となく分かった気がした。


 本気の恋に破れると、人間はあれほど空虚になるのだろうか。


「それで……瑠璃るり殿のことで何か気がかりが?」


「ああ……いえ。そうではないのです。許都きょとで郭嘉殿と別れた時、少し様子がいつもと違っておられたように感じて」

「郭嘉殿ですか? ……例えばどのような」

「いえ、何がというわけではないのですが……多分私の考えすぎでしょう。

 彼にとっても私にとっても、久しぶりの出陣で、しかも病床から復帰されて初めての遠征。いつもと同じである方が不思議です」


 荀攸じゅんゆうは庭を見つめている、荀彧の横顔を見た。


 荀彧の慧眼は人間の些細な機微でも見逃さないものだった。

 直感と言えば俗的だが、荀彧の直感には実は、本人が語らなくとも根拠がある。

『見えている』のだ。

 郭嘉がかつて言っていたことがある。


 動物は獲物を狩る時、狙う群れで最も弱っているものをまず狙う本能が備わっている。

 それが子供という意味なら簡単な視覚のことだが、大人の群れでも彼らは弱っているものが分かる。

 老いて動きが遅いもの、怪我を僅かでも負っているもの、それを遠目から見抜くのだ。

 怪我を負っているものは、傷を庇って、他のものと僅かに違う動きをする。

 それを見逃さないのである。

 

 荀彧じゅんいくの慧眼もそれに似て、何かいつもと違う動きを実際に彼は捉えているのだ。

 だから荀彧の直感には根拠があり、間違いが少ないと郭嘉がそう言っていた。


 荀攸の目には郭嘉はいつも通りに映ったが、何かを荀彧は感じ取ったのだろう。

 だが荀攸は今、荀彧自身が言った通り、あの時郭嘉が表したものにさほど大きな意味は無いように思えた。

 

 それよりも丁度、思い出した。


「そういえば今、許都きょとでのことを文若ぶんじゃく殿が仰って、思い出しました。

 あの時【干将莫耶かんしょうばくや】を見たと仰っていましたね?」


「はい。あの見事な意匠、この世に二振りとないものです。

 見間違いではなかったと思います」


「私も見たことがあるので、少し気になって調べさせました。

 賈詡かく殿が、司馬懿しばい殿の副官だろうと言っていたので……」


「一目ですが非常に若い青年に見えました」


「調べさせた者の話では、陸伯言りくはくげんという二十歳ほどの青年のようです。数ヶ月前に司馬懿殿が許都に連れて来たそうですが、それ以前の詳細は分かりませんでした。

 しかし素性が怪しいわけではなく、司馬懿殿は公の場には伴わず、あくまでも遠征までは自分の身近に置かれ、王宮のことなど学ばせていた様子です」


 荀彧じゅんいくはそっと机に頬杖を突いた。


「……司馬懿殿は曹操殿に長く警戒され、遠ざけられていました。

 今でこそ曹丕そうひ殿下に重用され、多くの者が司馬懿殿と懇意になりたがっていますが、当時は彼に安易に近づくのは命取りでしたからね。


 司馬懿殿は魏において、非常に特異な経歴を持っておられる。

 名門司馬家の次男ですが、あそこは一族の結束は固いのに、仲達ちゅうたつ殿はご自分が曹操殿不興を買っている自覚があってか、家も早くに出ています。

 よって、司馬家の威光という後見があるわけでもない。


 曹丕殿下も身内との因縁で長い間苦しまれた。

 仲達殿を気に入られたのは、あの方の持つ孤高に対しての共感と才のみ。

 普通は王宮において、柵に苦しむものですが、司馬懿殿は誰とも深く通じようとなさらない。


 そうなったのが偶然か必然かは分かりませんが、持たざる者だった者が曹丕殿下という月に照らし出されただけで一気に盤上の中心になり、他の者が手を出して籠絡出来ない存在となった。

 ――あの手際は並の人間ではない」


「そう思われますか」


 荀彧が思考を巡らせながら、少し組んだ指先を擦るような仕草を見せたので、荀攸は温かい茶を注ぎ直した。

 それに気づき荀彧が椀を軽く掲げ、一口飲んだ。


「思いますね。ああいう人間は、私も今まであまり見たことが無い」


「若くして家を出て居を構えず、各地を放蕩し、機を見て王の懐に入る……。

 私は少し聞き覚えがあるような気もしますが」


 荀彧が視線を上げ、笑った。


「郭嘉殿ですか。確かに。あの方なら、司馬仲達しばちゅうたつを理解出来るかも知れませんね」


「陸議殿には親は亡く、一人だけ姉がいるようです。【陸佳珠りくかじゅ】殿といい、こちらも司馬懿殿の私邸におられる」


 荀彧は普段他人の女のことになど興味を示さないが、今は示した。

 その理由は、荀攸もその女性に興味を持った理由と多分同じに違いなかった。


「弟君と同じ年頃ですか?」


「はい。非常にまだ若い娘のようです。あまり姿を見た者はいないのですが、司馬懿殿の私邸に美しい女性が出入りしていると噂に」


「……そうですか。姉弟には親族もいない?」

「そのようです。縁者を探しましたが出て来ませんでした」


りく氏というと……南に多い姓ですね。

 しかし寿春じゅしゅん廬江ろこうあたりは袁術えんじゅつが好き勝手したので相当荒れ果てました。

 長江ちょうこうを越えられなかった廬江とこうの民は北上して袁紹えんしょうを頼っていましたから、親がいないということはその辺りの戦災で失ったのやもしれません」


 荀攸じゅんゆうも頷く。


江東こうとうの陸氏は、廬江太守だった陸康りくこうを、孫権そんけんの兄である孫策そんさくが攻めて殺した相手です。

 本家の一族はこの廬江戦で、主立った血筋の成人男子をほとんど失ったとか。

 そのため江東の名門ですが、あまり孫権の元で一族としては重用されていないようです。

 建業けんぎょうに集う幕閣の中にも全く名を連ねていない。

 では冷遇されているのでは」


「その姉弟が呉の事情に何か通じているのだとしたら、司馬懿しばい殿が側に置くかもしれませんね。

 しかしそれにしては少し若すぎる気もしますが……。

 その陸佳珠りくかじゅという女性は司馬懿殿の身の回りのことをなさっているのですか」


「恐らく」


「……。陸氏と司馬懿殿の組み合わせはいかにも血腥ちなまぐさい気がするのですが、親族がいないというのはなかなか都合のいい話かと」

「裏があると思われますか?」

「その姉弟に会ってみないと分かりません。人柄が分かれば、自然と司馬懿しばい殿の意図も読めるでしょう」

「なるほど……。陸議りくぎ殿は司馬懿殿が涼州遠征に伴われたので、不在ですが、姉君の方は城におられるかと」


「そうですか……。

 呉蜀同盟が決裂しましたからね……江陵こうりょうは今、一触即発の場所です。

 しかし孫呉は【赤壁せきへき】の勝利によりを退け、周公瑾しゅうこうきんを失った今は、急いて攻め手に出て来る可能性は低いでしょう。孫伯符そんはくふが存命なら、戦機に乗って江陵を取りに来たかも知れませんが。


 立場が危ういのはむしろしょくです。

 戴冠の後は、もしかしたら曹丕そうひ殿は呉とは協調するやも。

 ただ陸氏が廬江ろこう太守の件で孫家との溝が深いなら、休戦申し入れの時に司馬懿殿の側にいても、殿下に怪しまれにくい。

 次なる軍政への布石の一つかもしれませんが、天涯孤独であればさほど重視することはないと思います。ですが……」


 茶を飲もうとした荀攸が手を止める。


「弟君に司馬懿殿が【干将莫耶かんしょうばくや】を持たせたなら、非常に興味深い。

 あれは古よりの王者の剣ですから。国の秘宝とも言うべきものですよ。

 呉と協調するならば、剣と一緒に弟を呉に送り込む可能性がある」


「もしや孫権そんけんに献上を?」


「もしくは、弟に贈った剣の格の高さから、姉への寵愛が深いことが窺える。

 司馬懿しばい殿は曹丕殿の腹心です。彼の婚姻には非常に深い意味がこれから出て来る。

 陸佳珠りくかじゅ殿が司馬懿殿の正妻となれば、戴冠後には意味合いが大きく変わります。

 戴冠後は今よりも、もっと司馬懿殿の元に人が集うことになる。

 曹丕殿下からすると司馬懿殿が婚姻問題で自分を煩わせないことは助かります。

 一族の結束が固い人間や強力な地盤を持っている者は同時にしがらみが多く、それにつけ込まれることがある」


 董卓とうたくの暗殺を企て、投獄されたことのある経験を持つ荀攸には、言っている意味がよく分かった。

 あの時も激しい尋問を受けたが、尋問では荀家の名を幾度も出された。

 荀攸自身、自分一人だけが投獄されて、悪臣董卓に逆らったことで処刑されるのは全く恐れも苦しみも無かった。

 しかし董卓があれ以上生き延びていたら荀攸の近しい者達から粛清が始まり、荀攸個人の苦しみに大切にする者達まで関連付けられ、拷問が始まれば耐えきれなかったと思う。


 害がその人達に及ぶ前に、自刃していたはずだ。

 牢の中では外界のことが全く分からず、董卓が相手では、荀家全体に火の粉が及ぶことも考えられ、そのことは当時荀攸は心底恐ろしかった。

 

 幼い頃から荀家の中でも特に秀でて有名だった荀彧じゅんいくはその頃まだ青年で、年に一度本家の集まりで会って成長してる姿が見れるのを楽しみにしていた。


 董卓とうたくは、人間の堕とし方を心得ている。

 親族を拷問に掛ける時は、必ず若い方から殺した。

 死や命の重さを理解する大人を残した方が、子供の死が耐えられないからだ。


 その頃はまだ荀彧とも仕事では交流は少なく、過ごす都も異なったため、まさかそこまで火の粉が及ぶことはあるまいとは思っていたが、董卓は周到で残忍で、執拗な男だった。


 もしあの混乱の中で荀彧にまで害が及んでいたらと思うと、今でも血が凍る。


 不思議なことだが当時はそういう夢は見なかったのに、荀彧と長安ちょうあんで、曹操の元で共に働くようになってから――荀攸は時々、投獄されて牢に入れられる夢の中で、幼いままの荀彧が連れて来られて自分のせいで尋問に掛けられる、そういう悪夢を見るようになった。


 牢で見た、拷問に掛けられた人々の姿や、董卓に殺された人間達の骸の姿に、重なってあまりの恐怖で飛び起きる。


 三度目の子を流産してから、二度と子を成せなくなった妻は、そのことを荀攸に対して口に出さず気に病んでいたが、彼は本当にもう子供はなくても構わないと思っていた。

 子供が生まれ、成長し、その存在の意味が大きくなり愛せば愛すほど、あの悪夢の中に子供の夢も見るようになるだろうことが分かったからだ。それは彼には苦痛だった。

 

 確かに血のしがらみが無いことは乱世においては有益なのかもしれない。

 才があり、それを君主に認められれば一族の推挙が無くとも取り立ててもらえる。

 君主に直接認められていれば、血の柵など、あとはかせだ。

 司馬懿が司馬家と距離を置いているのは賢かった。 


「それにしても……親や一族ではなく、所持する剣で格を姉弟につけるとは。

 面白い考え方です。

 無論【干将莫耶かんしょうばくや】の格はそう出来る類いのものであると私も確信はありますが。

 やはりあの方は少し変わっていますね」


 荀彧がそう言うと、荀攸は微笑んだ。

 荀彧とは同じ荀家で、昔から知っている間柄だが、実のところこうして一緒にいつも親しく会って話せたわけではない。

 荀家は朝廷に重用されたのでお互いに違う任官を受け、違う都にいることが多く意外なほど会うことは少なかった。


 しかし折々の荀家としての催しで会う機会には恵まれて、定期的には会っていた。

 年下の叔父が一年ごとに会うたびに背が伸びていて、いつしか自分を追い抜いて行ったのが荀攸には楽しかった。


 今は偶然近くにいることになり、こうして事情があって同じ家にいて、長く語らう時間さえ出来て話せば話すほど、同族の年下とはいえ荀彧じゅんいくの考えの深さには感嘆させられた。


 彼と話していると本当に時を忘れる。

 曹操が何故最後まで荀彧を手放したがらなかったのか、荀攸にはよく分かった。

 曹操は激しい性格をしていたから荀彧を側に置くことで、魂が鎮まる。


 まさにその資質が『王佐の才』なのだ。


曹丕そうひ殿下、甄宓しんふつ殿、司馬懿殿に、腹心の陸氏。

 孤独な宿命を持つ者達が、不思議と一つの場所に集まって来ている。

 早めた涼州遠征で司馬仲達しばちゅうたつが何を失い、何を持ち帰るかで、また見えて来るものがあるはず」


 荀彧が「失うもの」の中に郭嘉が入らぬよう、不安がっているのは感じられた。

 だが荀攸じゅんゆうは、不思議と郭嘉があのまま帰らない気がしなかった。

 理由は分からない。

 しかし不安がないのだ。


 大抵のことを悪い方に考えがちな自分としては、非常に珍しい心境だった。

 郭嘉かくかの死病に何度も、もう駄目かもしれないと覚悟をしたので、

 それで生きたならあの人には強い天命が付いているのだろうと、愚かなほど思い込んでしまったのかもしれない。

 だがたまには思い込んでみるのもいいものだ。


 荀彧が凡人には見えない何かを見る慧眼を持つが故に、不安を感じているのであれば、

 時には自分のように凡庸で見えないことが、心の平穏にも繋がることがあるのだと思う。


 聡すぎるということはある意味、諸刃の剣なのだ。

 荀攸は立ち上がった。


「随分窓辺で冷えてしまった。

 さあ、部屋の奥に入って火鉢の側で碁でも打ち合いませんか」


 いいですね。荀彧も笑って立ち上がる。


 庭をもう一度振り返った。

 空気が冷え、澄み切っている。



(雪が降るのだろうか)



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