灰色の恋人は蝋に眠る

@MahoutsukaiSairyu

人形館の夜

山裾の道が途切れ、濡れた杉の葉が車体を撫でる音が消えたとき、和美はスマホを伏せた。画面のツアー案内にはこうある——閉館後、特別見学・定員4名。だが到着した洋館の玄関前に、人影はない。

鐘の鳴らない塔、曇天の反射を吸い込むアーチ窓。ドアが音もなく開き、女主人が現れた。


「ようこそ。あおいと申します」


黒瑪瑙のような瞳。四十代半ばの落ち着いた美貌。襟元は深い紺、袖口だけ葡萄酒のように赤い。指先には薄い手袋、糸の目が光を拾っては消える。


「本日は“女性の一生”をご案内します」


柔らかな声に導かれ、柔毛の絨毯を踏みながら展示室へ入る。湿度は低いのに、空気は妙に肌にまとわりつく。蝋の匂いだ、と気づいたのは数歩あとのことだ。


最初の列。少女の人形が立っている。白いセーラー服、襟の三本線は薄い群青。スカートの折り目は真っすぐで、膝の少し上で止まっている。足首まで真新しい白。彼女は斜め下へ視線を落とし、唇を堅く結ぶ。その頬にだけ、薄桃色が刷かれていた。

次に新入OL。名札には架空の会社名、紺のジャケットの裏地は小さな格子で、ボタンの縁が銀色に鈍く光る。シャツの布地が照明を受けて淡く透け、白とピンクの細いストライプが、規律の中の遊び心のように浮かぶ。

そして花嫁。半透明のヴェールは霧のようで、呼吸を吸い込むたび、布が肺の奥へ入り込んでくる錯覚がする。ウェディングドレスの層のした、薄い影——深紅。色だけがこちらを見返すように濃い。

新妻は薄灰のエプロンに小麦の粉を散らし、胸元にラベンダーをひと筆置いたような色の気配。布擦れの音が、もう少しで聞こえそうだと錯覚させるほどに、質感が精密だ。

浴衣の女は水縹(みはなだ)色。衿がわずかにずれたうなじの白さは、寒暁前の川面のようだ。帯がわずかに甘く結ばれ、結び目の影に薄いピンクが灯っている。

列の奥へ進むと、空気がほんの少し、冷たくなる。未亡人の黒が、光を吸っていた。喪服の裾はレースで、模様は蔦。黒は黒のままに濃淡を持ち、足もとで影が二重になる。

熟れた女はアンティーク調のドレス。布地はクリームがかった灰色で、膝の横に深いスリットがある。立ち姿は緩やかに弧を描き、その裂け目の奥に、禁忌の印のような空隙がちらりと覗く。衣裳部は「通気のための意匠」と説明したというが、それはただの嘘のように見えた。

最後に——老嬢。薄い小紋の着物。布は光に痩せて、ところどころ針の跡が星座のように残る。腰には鎖。観覧者が悪戯しないため、と言われればそうかもしれないが、鎖は妙にあたらしい。金属光沢が、生地の古さと噛み合っていない。杖の先が床板に触れていないのに、耳の奥で「コツ」と音がした気がして、和美は肩をすくめた。


——彼女たちは皆、同じ方向を見ている。


気づいたとき、背骨がひやりとした。

女たちの視線の先、ただ一体だけ別枠に置かれた男性像——灰色のスリーピース、濃紺のネクタイ。髪の分け目、眉間の皺、口元の僅かな癖。

和美の時間が、止まる。


健太。


喉の奥で名前が砕けた。三年前、音もなく彼女の生活から落ちていった元恋人。写真で見飽きたはずの横顔が、ここではわずかな湿り気と温度を持って直立している。蝋はもっと鈍いものだと思っていた——だが頰は柔く、耳介には薄い血色があり、首筋には微細なしわが寄っている。


「モデルに、とても似ていらっしゃるのね」


いつの間にか隣に来ていたあおいが、ささやく。息が耳殻の薄皮を撫でる。

和美は半歩、後ずさる。自分のヒールが絨毯に沈み、引き戻される感覚。

女主人は微笑んだまま、展示の由来を語る。女性の成長と変化を蝋と布で封じる実験。「生きた色」を失わない独自の保存技術。質問はひとつも頭に入ってこない。視界の端で、老嬢の鎖がわずかに揺れた気がした。


「本日は特別に、閉館後のお泊まり見学もご用意しています。照度の違いで、質感がまるで変わりますから」


あおいの言葉の末尾に、細い棘が隠れている。和美はなぜだろう、断るという選択肢を口に乗せられなかった。

部屋に案内される途中、鏡面の廊下に自分の姿が幾人も伸び、人形たちの列の間を通るとき、彼女らの視線が布と蝋の下でわずかに重心を移したように見えた。

すべて、気のせいだ。そう言い聞かせても、気のせいは胸骨の内側で脈を打ち続ける。


部屋は温かい。暖色のスタンドがベッドの木口を淡く照らし、壁の額は草花の版画。荷をほどき、コートを椅子に掛ける。薄桜色のブラウスの袖ボタンを外し、タイトスカートの皺を掌でならす。今日選んだクリーム色のランジェリーが、肌よりわずかに白く、呼吸に合わせてかすかに上下する。

——鏡越しに、背後の扉の隙間が黒くなる。

ノックはしない。ただ、気配だけが入ってくる。和美は振り返らない。振り返れば、何かが確定してしまう気がしたからだ。


床が軽く鳴った。

展示室の空気が、廊下から細い川のように流れ込んでくる。蝋の匂いと、整えられた布の糊の匂い。

耳の奥で、布が擦れる音がする。強くはない、しかし確実な、近づいてくる音。


和美はドアのほうへ歩く。廊下に顔を出した瞬間、灯りがひとつ、ふっと弱くなる。

少女が、そこに立っていた。白い襟、群青の線。その視線は和美の肩の少し上、空を見ているようでいて、こちらに合焦している。

少女の足首が、ほんの少し傾く。次いでOLが、書類の束を抱えたまま首をかしげる。シャツ地の向こうで、ストライプが静かな波紋を作る。

花嫁はベールを持ち上げ、空気に触れさせ、赤をほんの少し滲ませた。布は音を立てない。だからこそ、心臓の鼓動だけが、音として壁に跳ね返る。

新妻はポケットから小さな刷毛を出す。刷毛は清潔で、毛先が扇状に開き、ラベンダーの気配を纏う。

浴衣の女は帯を軽く整え、衿を指の腹で正す。その指の腹に、血が通っていないはずなのに、温度の記憶が光を持って立ち上る。

未亡人は黒の陰で微笑む。笑みは唇まで届かず、頬の筋だけをわずかに動かす。

熟れた女はスリットの深さを、ほんの数ミリだけ増やす。そこにある空隙は、色ではないのに色を持ち、視線をつかんで離さない。

老嬢の鎖が、ちりと鳴る。誰も触れていない。なのに、鳴る。


八体は、同じ方向を見ていた。

廊下の突き当たり、別室の暗がりの奥。そこに灰色の男が立っている——健太。

和美の喉は、乾いた。呼びかけたい、でも呼べない。名を口にすれば、戻れない。

足が勝手に歩く。八体の列のあいだを抜けるたび、布の冷気が二の腕の産毛を払う。どの顔もこちらを見ていない。なのに、見られている。

呼吸が浅くなり、視界の周囲が暗くなる。突き当たりの扉の前で、和美は立ち止まった。取っ手に触れると、金属は体温に近いぬるさを持っていた。


扉は音を立てない。

暗い室内の中央、灰色のスーツ。濃紺のネクタイ。健太の輪郭が、置物の輪郭ではなく、待っていた人の輪郭をしている。

近づくたび、蝋の匂いに、別の匂いが混ざっていく。夏の終わりのシャツ、雨上がりの電車、昼休みの階段の踊り場。記憶の匂い。

彼の瞳はガラスのはずだ。なのに、黒目の奥に薄い濡れがあるように見える。


「……どうして」


声にしない言葉が、喉に刺さる。

その瞬間、背後の暗がりで、八つの微かな衣擦れが重なった。和美は振り返らない。振り返れば、列が閉じると直感したからだ。


——ここで終わりにする? 帰る?

脳のどこかが、理屈を探す。

でももう、理屈より先に願いがある。過去に置いてきたままの、やり直せるはずのない夢。

目の前の「彫像」は、その夢に形を与えて立っている。


空気が一段、重くなる。廊下の灯りがひとつ落ち、室内の暗がりが深さを増す。

和美は一歩、前へ。

その足首に、見えない布の縁が触れた気がした。


*    *   *   *   *   *   *   *

空気の層が一段深く沈み、遠くで扉の鍵が回る鈍い音がした。人が回したのではない、館そのものが呼吸して、骨格の継ぎ目を鳴らしたような音だ。


和美は健太の像の前で足を止めた。絵の具の層のように過去が重なり、視界の縁が白く霞む。三年前、駅の階段で別れた日の会話。黙って去った背中。あのとき言えなかった言葉が舌の下で硬くなり、今にも欠けそうな歯のように疼く。


背中に気配が集まる。振り返る勇気はない。かわりに、左右の壁に掛けられたガラスが、廊下を映していた。そこに、八体が整列していた。さっき見た配置と同じだが、ほんの指幅だけ前のめりになり、列の両端が扇のように広がっている。逃げ道を塞ぐ形だ。


少女が最初に動いた。革靴のつま先が床を掠め、白いプリーツの裾が柔らかく波打つ。純白は照明で青みを帯び、膝の裏の影は葡萄色に深く落ちる。彼女は片手で胸元のリボンを整え、もう片方の手で空気を撫でるように前へ差し出す。空気の肌理が変わる。和美の腕の産毛が、風に逆立った。


新入OLは、両肘で書類を抱えたまま、肩をわずかにすくめた。ジャケットの内側のシャツ地が光を返して、白とピンクの細い縞が、呼吸のように膨らんで見える。社会の規律の中に、ささやかな遊びを隠した布。彼女の目線は和美の喉元を通り、健太の顎先で止まっている。熱が喉に集まる気がした。


花嫁は片手でヴェールの裾を持ち上げ、もう片手を胸元に添える。半透明の布は霧の層を重ねるようで、下でくっきりと主張する深紅の線が、霧の密度によって濃淡を変える。歩むたび、赤がわずかに位置を変え、視線を誘導してくる。目を逸らしたいのに、逸らすと余計に赤が目に残って、まぶたの裏を染める。


新妻はエプロンのポケットから、細い刷毛を取り出した。毛先は扇形で、一本一本が均等に揃っている。彼女は試すように手首をひと振りし、毛の束が空気を梳く音が、紙をめくる気配に似た清冽さで耳に触れる。ふわ、とラベンダーの気配が鼻腔に入り、脳の奥で眠っていた記憶がひとつ息を吹き返した。休日に焼いたマフィン、エプロンの紐の結び目、笑い声。すべてが過去なのに、匂いだけが新品だ。


浴衣の女は帯の結び目に触れ、ほんのわずかに緩めた。結びが緩むと、布の重なりが呼吸しはじめ、襟元の涼しい空気が通路のように肌の内に滑り込む。足袋を履いていない素足のかかとが床板に触れ、吸い付くような乾いた音がして、和美の足裏まで同じ音が伝染する。浴衣の裾の陰で、ほんの淡い色が脈うつ。夕立の前の湿り気のような、約束のような、未遂のような色だ。


未亡人は黒の海をまとって立つ。光を吸う布地は、黒の中に黒い紋様を浮かべ、レースの透かしから肌の影がひと筆だけ透見できる。喪服の下に整えられた下着は漆黒で、縁に沿って極細の針仕事が走る。彼女が首を傾ける動きは遅いのに、影だけが速く床を這い、和美の足首に触れた錯覚を残す。


熟れた女はアンティーク調のドレスのスリットに人差し指を添え、布の裂け目をほんのわずかに広げた。そこに、禁忌のしるしのような輪郭が現れる。穴あきのショーツ。穴という形が、形のないものを形にする。生地の周囲は古い象牙色で、縁取りだけが新しい。彼女は視線だけで問いかけてくる。見たいのか、見たことにしたいのか。答えが喉の奥に張り付く。


老嬢は薄い小紋の着物に鎖を巻かれて立つ。鎖は腰から胸元へ斜めに渡り、鎖の環が一つごとに冷光を宿す。布は古び、鎖だけが新しい。杖は床に触れていないのに、耳の奥でコツ、と音がするたび、心拍がひとつ跳ねる。彼女はわずかに顎を上げ、向かいの健太を真っ直ぐ見据えている。視線は鋭いが、どこか慈雨のような湿りがある。長い時間の端に座って、やっと来たものを見ている眼差し。


八体の女たちは、和美の存在を挟んで、健太と視線の紐を結んでいる。その紐が、和美の体を通っている。引けば、和美ごと引ける。緩めれば、和美も緩む。見られながら通り抜けるたび、体温の中心がわずかにずれる。心臓の位置が胸の少し右に移り、次の瞬間には喉ぼとけの裏に滑っていくような落ち着かなさ。


帰ればいい。今ならまだ。そう言葉にして背を向ければ、何かが救われる気がする。だが、背を向けるという行為は、二度と正面を見ないという選択と同義だ。目の前に、やり直したい夢の線が見えているのに、それを見ないふりをするのは、過去にした数々の妥協と同じだ。


あおいの靴音が、いつの間にか近づいていた。足音は硬くない。絨毯の上で音は丸くなり、しかし存在感は薄れない。気づけば彼女は和美の肩の後ろ、半歩分斜めの位置にいて、視界の端に深い紺の袖口だけが見えた。


「照度を落とすと、保存された色が、眠りから覚めるのです」


言葉の意味は、説明の体裁をとっている。だが和美の皮膚に届いたのは、宣告の形だった。照明が一段落ちた。ガラスの瞳の群れが、夜目の獣のように光を取り戻す。


少女の指先が、和美の袖口と空気の間を一往復する。触れない。だが袖口の布がひとつ呼吸し、肌にごく微細な風が当たる。脳がその刺激を「触れられた」と解釈するまでの半秒の遅延が、くすぐったいように怖い。

新入OLは、書類を抱え直す動作で、ジャケットの前を少し開く。縞がわずかにずれて、光の角度ごとに表情を変える。視覚の波形が、体内の呼吸と同期してしまい、和美は一瞬、自分が誰で、ここへ何をしに来たのかを忘れた。

花嫁はベールの端を指で弾く。布が空気を割り、深紅が揺らぐ。赤は警告色だが、同時に祝祭の色でもある。その二つの意味が、和美の心臓を交互に叩く。

新妻は刷毛をわずかに湿らせ、空中で見えない線を引く。風が細く走り、その道筋の上に肌があると仮定する感覚が生まれる。

浴衣の女は衿合わせを整える指の腹で、自分自身の喉元をさっとなでる。見ているだけなのに、喉に触れられた錯覚が和美の呼吸を攫う。

未亡人は喪の黒で部屋の温度を吸い、代わりに冷たい静けさを周囲に供給する。黒は重量だ。重量が足元に溜まり、膝が知らないうちに深く曲がる。

熟れた女はスリットを保ったまま、足を半歩前に出す。穴あきの輪郭は形を主張しないが、視線はそこに止まる。止められる。視線が止まる場所は、意識が囚われる場所だ。

老嬢の鎖が、ちいさく鳴る。鎖の環は冷たいはずなのに、耳に入る音には温度が宿る。その温度は、懐かしい誰かの体温の色をしている。不意に、和美は自分が遠い親族の家に来たときの、畳の匂いと茶托の手触りを思い出し、胸があたたかくなった。たぶん罠だと思う。けれど暖かさは、罠だとしても暖かい。


「あの人は、あなたを見ていますよ」


あおいが囁く。耳介に到着した声は、言葉の形を保たないまま、電気のような震えに変換され、首筋を滑り落ちる。和美は、健太の像の瞳に、自分の影が微かに揺れるのを見た。ガラスの表面に映っただけだ、と理性は言う。けれど、映るには相手がわずかに呼吸していなければならない、と夢見がちな部分が反論する。


遠くで時計が鳴った。数は数えられない。鐘が鳴るたび、照明が一段ずつ落ちる。薄明の段階ごとに、保存された色が呼吸を始め、布が匂いを持ち、蝋が温度を持ち、空気が重力を持つ。和美の体は、自分ではない何者かの動作に同調していく。肩の高さが人形たちと揃い、歩幅が彼女らの無音のリズムに合う。


戻れ、と内側の誰かが言う。今ならまだ、廊下の角を曲がって外へ。スマホのライト、救急番号、タクシー。思考は正しい順路を示すが、足裏はその順路の床材を忘れてしまった。代わりに、蝋の床に紡がれた見えない導線を踏んでしまう。


少女が和美の前を横切る。純白の裾がかすかに翻り、布の内側の空気が和美の膝に触れる。膝がほどけるように力を失い、踏みとどまった足首の筋が熱を持つ。新入OLが肩越しに一瞬微笑み、視線だけで「こちら」と示す。花嫁は赤を合図にする信号機のように、止まれと進めの両方を同時に灯す。新妻の刷毛が空中で描いた見えない線が、和美の腕の内側にぴたりとはまり、そこだけ皮膚が甘く痺れる。浴衣の女が通り過ぎる風は涼しいのに、背中に残るのは温かい。未亡人が近づくと音が消える。熟れた女の穴あきの輪郭は、視界の中心で穴の形のまま、ゆっくりと拡張する。老嬢の鎖が再び鳴り、その音が「もう遅い」と言った。


健太の像が、半歩近く見えた。錯覚だ。そう断定した自分を、次の瞬間の呼気が裏切る。彼の胸元の布に、呼吸の錯覚が走った。蝋の膜の下で、空気が動いた気配。いや、照明の揺れだ。そう言い聞かせるたび、記憶の中の彼が笑う。理由のない場面で笑う人だった。怒らせても、笑ってやり過ごす人だった。その笑みが、彫られた線の上に、いま重なる。


逃げろ。層の深い理性が最後の綱を投げる。だが手は綱を掴まず、宙へ伸びる。伸ばすのは愚かかもしれない。けれど愚かさは、夢を現実へ引き寄せるために必要なときがある。今がそれかどうか、判断する余裕は、もう残っていない。


視界の四隅が暗くなり、中央だけが静かに明るい。そこに彼がいる。灰色のスーツ、濃紺のネクタイ。ネクタイの結び目に、指先の記憶がある。いつか整えてあげたときの、布の硬さと手の温度。記憶が追いつくより先に、指先が震える。空気が薄い。胸の奥にある心臓が、胸ではなく、どこか別の場所で打っている。


気づけば、あおいが目の端から消え、かわりに新妻が刷毛を持って和美の斜め前に立っていた。刷毛はまだ空気を梳くだけだ。だが梳かれる空気は形を持ち、和美の輪郭をなぞる。少女が和美の左側、浴衣の女が右側、未亡人が背後の影を深くする。熟れた女は少し離れた位置で、視線だけを送り続ける。老嬢は鎖の環を一本指でつまみ、音をひとつ鳴らす。列が閉じる。


和美は、わかっている。おかしい。これは物語の外から見れば、雑誌の怪談の特集に載るような事態だ。大人なら、理性で引き返すべき瞬間だ。なのに、引き返さない。引き返せないのではなく、引き返さないほうを選ぶ。選択は衝動で、衝動は正当化の言葉を持たない。持たないからこそ正直だ。


刷毛が、止まる。空気に描かれていた見えない線が、和美の鎖骨の上で静止する。触れていないのに、鎖骨がひやりとする。次の瞬間、温かい。蝋の匂いが一段濃くなる。塗られたのだ、とどこかが理解する。直接の行為は描かれない。けれど肌の奥では、温度の波が小さな円となって広がっていく。息が合わない。吸うときに吐いて、吐くときに吸ってしまう。胸の前で風が逆流する。


視界の端に、深紅が揺れる。花嫁が合図を送る。赤は、止まれ、と進め、と、心拍を上げろ、と静かに矛盾を強いる。新入OLのストライプが、規律の鼓動のように脈打つ。少女の白が、無垢を装ったまま、和美を通過する大人の時間を照らす。未亡人の黒が、余計な音を奪い、かわりに内側の音を増幅する。浴衣の女の涼しさが、逆説的に内側の温度を上げる。熟れた女の穴は、見るという行為の重さを和美に返し、老嬢の鎖は最後の納得を音にする。


健太が、近い。声は出ない。出せば壊れる。壊したくないものが、まだあるのだろうか。ある。あるから、出せない。胸の奥がふいに軽くなり、身体がほんのわずか前へ倒れる。支えようとした足が、床を捉え損なう。膝がほどけ、視界の明るい部分がすっと上へ伸び、代わりに周囲の暗さが花びらのように閉じてくる。


あおいの声が、遠くで響いた。言葉は拾えない。音だけが、柘榴の粒のように弾けて、耳の奥に残る。刷毛がまた空中で動き、見えない線が増える。線はやがて網となり、網の目を空気が通り抜けるたび、肌の下で小さな鈴が鳴る。気持ちいい、という語彙は使いたくないのに、身体が勝手に同義語を探し始める。安堵でも、解放でも、快でもない。もっと手前にある、境界の言葉。境界にいるときだけ意味を持つ言葉。


和美は、最後の抵抗として、健太の名を心の中で呼んだ。呼び声は、喉に届かず、胸骨の内側で泡になった。泡は浮力を持つ。浮力は、意識を水面へ押し上げる力だ。だが同時に、下から網が引く。網は蝋の匂いを持ち、布の肌触りを持ち、過去の色を持ち、未来の沈黙を持つ。


遠のく。遠のくという表現は、現実から離れることだと思っていたが、実際のところは逆だ。いまいる場所が現実に近づいてくるのだ。現実が、こちらへ寄ってくる。足音を立てずに、静かに、確定しながら。


意識の縁で、健太の口元が、ほんの少しだけ、上を向いた気がした。笑った。いつもの、困ったときの笑い方。和美は、間に合わなかった言葉を持たないまま、瞼の裏で白い光が弾けるのを見た。


ここで視界がゆっくり暗転し、音と匂いだけが残った。蝋の甘い匂い、布の糊の清潔な匂い、ラベンダーの薄い気配。鎖がちいさく鳴り、遠くの鐘が、数を数えないまま、静かに止んだ。


*   *   *   *   *   *   *   *

どれくらい時間が経ったのか分からない。

瞼の裏に、最初は墨のような暗さしかなかったものが、やがて白銀の粉を散らしたような光を帯び始めた。

遠くで布が擦れる音がする。柔らかく、それでいて連なって迫ってくる、あの無音の行進だ。


和美はゆっくりと瞼を開けた。

そこは展示室だった。

昨夜見たときよりも、照明は一段暗く、しかし色彩だけが生き物のように際立っている。

布も蝋も、影と光の境界で呼吸をしているように見えた。


足もとが重い。

視線を落とすと、自分の足がビロード張りの椅子に腰掛け、膝の上に置かれていた。

両腕は膝の上に組まれている。姿勢は微動だにせず、指先に至るまで静止しているのに、心臓の鼓動だけがそこに不釣り合いな速さで響いていた。


八体の女性人形が、半円を描くようにして立っていた。

少女は膝丈のスカートの裾を指でつまみ、白を覗かせたまま固まっている。

新入OLは視線を少し下げ、ジャケットの中の縞模様がわずかに光を返す。

花嫁はベールを揺らし、深紅の影を布越しに滲ませている。

新妻のエプロンからは、毛先の整った刷毛が覗いている。

浴衣の女は帯を緩めたまま、うなじの白さを見せていた。

未亡人は黒の中に沈み、布の縁から漆黒のレースが溢れている。

熟れた女はスリットをわずかに広げ、空隙を夜の目で覗かせる。

老嬢は鎖を胸元で交差させた姿勢のまま、視線を逸らさない。


そして、その半円の真正面に——健太が立っていた。

灰色のスーツは皺ひとつなく、濃紺のネクタイの結び目はきっちりと整っている。

だが、昨夜と違った。

彼の顔に、わずかな温度が宿っているように見える。

蝋の表面に覆われた頬の色が、光を受けてほのかに柔らかく、まるで皮膚の下に血が通っているようだった。


和美は立ち上がろうとした——が、体が動かない。

腕も脚も、意志の通りには動かず、わずかに首を傾けられるだけだ。

関節が蝋の膜に包まれ、動作の幅を奪われていることに気づいた瞬間、胸の奥が冷たく沈む。


あおいが静かに歩み寄る。

深い紺のドレスが波のように揺れ、赤い手袋が照明を反射する。


「お似合いですね。…やっと揃いました」


その声は、祝福とも宣告ともつかない響きを持っていた。

あおいは和美の肩に手を置き、そのまま指先で髪を耳に掛けた。

髪の間から首筋に触れた空気が、ひやりと冷たい。

だがすぐに、背後から差し出された刷毛がそこをなぞり、温もりが広がった。


健太が歩み寄ってくる。

その足取りは遅く、音もない。

距離が詰まるたび、過去の記憶が鮮やかに蘇る。

駅の階段で見送った後ろ姿。

待ち合わせ場所で遅れて現れたときの笑顔。

触れようとして届かなかった、あの日々の残像。


健太は和美の前に立ち止まり、ゆっくりと膝をついた。

視線が同じ高さになる。

蝋の瞳に、自分の姿が映っている。

それは鏡のようであり、捕えられた獲物を映す湖面のようでもあった。


あおいの声が遠くから響く。

「ここからは、永遠の展示です。あなた方は、もう離れることはありません」


八体の人形たちが、一斉に一歩踏み出した。

足音はしない。

だが空気が押し寄せ、和美と健太を囲む輪が狭まる。

色彩が近づく。

白、縞、深紅、ラベンダー、水縹、黒、淡桃、象牙色。

それぞれの布地と蝋の匂いが混ざり合い、甘く重たい空気となって肺を満たしていく。


視界の縁が霞む。

健太がわずかに微笑んだように見えた。

その瞬間、全身を覆う蝋の膜がほんのりと温まり、意識がふっと軽くなる。


最後に見たのは、向かい合ったまま並ぶ自分と健太の姿だった。

八体の女性たちの半円の中央に、二人の蝋像が並び立ち、静かに笑っていた。


翌日、開館した人形館に来た客が、その二体の前で足を止める。

「恋人同士かしら、それとも夫婦?」

誰かがそう呟く。

蝋の瞳が、その言葉に応えるように、ほんの一瞬だけ光を反射した。


――完――

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