第2話 強大なる纏向の勢力
纏向遺跡は現在の奈良県桜井市の三輪山北西麓、奈良盆地の東端近くに位置しています。
正にヤマトの地に存在しているわけです。
そしてこの遺跡には他の遺跡には無い、いくつもの特性があると言われています。それを以下に列記します。
1 圧倒的な規模
纏向遺跡の大きさは、少なくとも1.5㎢。3㎢に達するとも言われます。
これは、同時代の他の大規模遺跡の数倍から10倍という規模で、他を圧倒しています。この規模だけで当時において突出した巨大都市だったといってよいでしょう。
2 広範囲な地域との交流
纏向遺跡では、遠隔地から運び込まれた土器が多数見つかっています。
その搬入元は瀬戸内海沿岸部、山陰、畿内各地、北陸、伊勢湾沿岸部、量はわずかなものの、北九州や南関東にも及ぶとの事です。それらの広範な地域と交流があったと言えます。
加えて、遠隔地の特徴を持つ土器が、纏向周辺の土で作られたていた事も分かっています。つまり、遠隔地の人々が纏向にやって来て、地元の特徴がある土器を纏向で作っていた、という事です。
日本列島の相当広範囲から多くの人々が集まって来ていたと言えるでしょう。
3 農業が行われていた様子が希薄
纏向遺跡で発掘された道具について調べると、主に田畑を耕すのに使われる
つまり、纏向では農作業よりも土木作業が盛んに行われていたと考えられます。
また、イネ科植物の花粉が特定の個所に集中して見つかっているとの事です。
これは、遺跡の周辺に多くの田んぼがあったというわけではなく、倉庫のような場所に稲が運び込まれていた事を示唆しています。
4 突然現れている
纏向遺跡には、小さな集落が発展して徐々に大きくなった形跡がなく、3世紀初めに突然巨大都市として現れたとされています。
5 計画的に建設された『都市』と思われる
3と4を勘案すると、纏向遺跡は農村が発展して徐々に巨大集落となり、更に都市となったとは言えません。何者かによって意図的に建設された『計画都市』であったことが想定されます。
6 前方後円墳発祥の地
纏向遺跡には箸墓古墳という全長約290mにも及ぶ前方後円墳が存在しており、これは最古級の前方後円墳だと考えられています。
これが更に発展し、全国に広がって行くという訳です。
これらの特徴を考え合わせると、3世紀の纏向の地に相当強大な力を有する政治権力が存在したことが強く推測されます。
まず、計画的に都市が建設されたという事は、それを実現するだけの権力が存在したことを明白に証明しています。そして、その都市の規模が同時代において圧倒的に大きかったという事は、その勢力の強大さを示しています。
更に、その都市に広範囲から物や人が流入していたという事は、その政治権力の影響力が広範囲に広がっていた事をも証明しています。
要するに3世紀の纏向には、日本列島の相当広範囲に影響力を持つ強大な政治権力が存在したわけです。その規模は日本列島最大だったと言ってよいでしょう。
ヤマトの地にそのような政治権力が存在したならば、それこそがヤマト王権であると考えるのは当然のことです。
特に、ヤマト王権を象徴する建造物である前方後円墳の起源がその地にあるならば、それがヤマト王権そのものだと言い切って差し支えありません。
実際私も、纏向遺跡がヤマト王権の始まりの地だという意見には特に異存がありません。
ただ、その地が同時に邪馬台国でもあったと言われると、強烈な違和感を禁じえません。
そのように感じる理由は、纏向にあった政治勢力が強大であるという、正にそのこと自体によります。
私には、邪馬台国がそれほど強大な勢力だとは、どうしても考えられないのです。
だって、もしも邪馬台国がそんなに強大だったなら、魏に援軍を要請する必要なんてないではないですか。
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