第五話 屈託ない笑顔
スマホの画面に表示された「ごめん」の三文字は終ぞ送れなかった。
心の奥にある重く冷たい塊をどかさなければきっとこの言葉は送ることができないだろう。
虚栄心、プライド、劣等感、僕がアキラに対して思う凝り固まった気持ちはこの三年間じっくりと築いたものだろう。
(あんなこと言われたら、アキラだって傷つくに決まってる)
わかってる。だけどそれを認めるのが怖かった。
それを認めてしまえば独善的な酷い人間になってしまう気がした。
僕は静かにスマホを伏せた。すうっと息を吸い、大きく吐いた。いつか行った精神科でオススメされた精神統一法とやらだ。
所詮は想い込み、ただの気休め程度であったが幾分楽になった。
窓の外では、夏の虫たちが忙しなく鳴いている。
それなのに、部屋の中はやけに静かで、その“静けさ”が心に染み込んでくる。
(俺は、ずっと一人でやってきたつもりだった)
病気になってからも。
味覚を失ってからも。
進路のことで悩んでからも。
誰かを頼ることが弱さだと思っていた。
でも違ったのかもしれない。
アキラはきっと僕が言葉にできないものを不器用に、でも確かに受け止めようとしてくれていた。
母さんもずっと忙しいのに心配してくれていた。
僕はそんな人たちの存在にどれだけ救われていたんだろう。それにすら気づかずにいた。
「僕、めっちゃ独りよがりやったな」
呟いた言葉はそっと部屋に溶けていく。静寂に返事はないけれども、胸の奥にやわらかな熱がそっと灯った気がした。
目を閉じるとアキラの顔が浮かぶ。無理に笑おうとしていた最後の表情が。
怒って当然よな、アキラはいつでも親身に僕に寄り添ってくれていた。
どうしようもない僕を何度も救ってくれたように、僕から今度はアキラともう一度繋がり直したい。
今はまだすぐには謝れない。けどちゃんと謝りたいと思ってる。ちゃんと自分の言葉で向き合って歩き出したい。
そう思えたことが今の僕には大きかった。
『もう逃げへん、向き合いたいんや』
夏期講習の合間の休日、僕は早めに起きて台所に立ち、冷蔵庫を開ける。
冷たいヨーグルトをとり一口食べる。
無味なことに逆に安心した。
やがて、母が目をこすりながらリビングに降りてくる。
「珍しいね、シュウが朝から起きてるなんて」
「……まあ、たまにはな」
「ご飯、食べれそう?」
「ちょっとずつなら、いけるかも」
そう言うと、母は黙ってうなずいて朝食の準備を始めた。
母さんとほんの数分だけど同じ空間で、同じ時間を過ごしている。
それだけで、心は少し軽くなった。
午後、机に向かってノートを開いた。
久しぶりに小説の続きを書いてみようと思ったからだ。
書き出したのは味覚を失った少年が誰かの存在によって少しずつ感覚を取り戻していく物語。フィクションのはずなのにそれはどこか今の自分と重なっていた。その舞台は静かな夕暮れ、公園のベンチ。
公園の空気が、少しだけ冷たく感じる夕暮れ時。
ふと金木犀の香りがほのかに漂い、ベンチに座る僕の手のひらに風が通り抜けていった。
――その香りを追うように、僕の鼻先にも甘い匂いが届いた。
ペン先を止めて耳を澄ますと、遠くから自転車のブレーキ音がした。
振り向かなくてもわかる。
アキラだ。
「……来てくれたんやな」
小さく言うとアキラは自転車を止めていつものように前髪をかき上げながら隣に腰を下ろした。
「お前が会いたいって言うなんて、珍しいな。ついに雪でも降るかと思ったわ」
その軽口に笑うこともできず、でもどこか救われたような気がした。
しばらく沈黙が流れる。夕日がベンチの影を長く伸ばしていく。
「この前はごめん」
僕はようやくそう言葉を紡いだ。
「自分でも何を言ってたのかよくわからん。頭の中ぐちゃぐちゃでさ、ただ、怖かっただけやと思う」
「怖かった?」
「うん。誰かに寄りかかったら、その人まで巻き込んでしまう気がして。だから、誰も信じんようにしてた。でも、それってただ、自分が傷つきたくなかっただけやった」
アキラは何も言わない。ただ、少しだけ首をかしげて、続きを待っていた。
「僕、ずっと“絶望”に落ちたことがあるって、自分では思ってた。何にも感じられへん日が続いて、食べても味もせんくて、寝ても朝が来るのがしんどくて」
「……」
「そういう日々を越えてきた自分だけが本物やって、勝手に思ってたんやと思う。誰かの優しさにもお前は何も知らんやろって、壁を作って。自分が一番苦しいって思い込みたかった。でも、それって——ただの独善やった」
僕は膝の上で握った自分の手を見る。
その指先がわずかに震えていた。
小刻みに揺れる指先にはペンだこがあり、これまでの僕の人生を表している気がした。
「アキラ、お前にまでそんな態度とって、偉そうなこと言って最低やった。あの時、本当はずっとそばにいてくれたことが嬉しかった。感謝してた。けど、それを認めるのがなんでか怖くて」
僕は息を吐いた。その声が少しだけ揺れていた。
「許してくれへんか?」
アキラはしばらく答えなかった。
そ
の沈黙が僕には永遠のように長く感じられた。
やがてアキラがふっと笑った。
「お前、よう喋るようになったなあ」
「え?」
「前までうんかまあしか言わんかったくせに。今日だけで一年分喋ってるで」
「うるさいわ」
「でも、ありがとう。ちゃんと話してくれて」
アキラは目を細めてゆっくりと空を仰いだ。
「お前が絶望を知ってるってのはなんとなくわかってた。俺はお前みたいに深く沈んだことないからわかったような顔してんのがたぶん気に障ったんやろ?」
「まあそうかも」
「でもな絶望って誰かと比べるもんちゃうやん。お前のしんどさはお前のものやし俺の痛みは俺のもんやし」
「……」
「そやから、勝手に線引きすんなや。俺の知らんを勝手にわからんにすんな。俺はずっとお前をわかりたいと思ってたし寄り添いたかった」
僕の目にじんわりと熱が差してくる。
「それってお前、バカやん」
「知ってるわ」
ふたりは同時に少しだけ笑った。
その笑いは声にならないまま風に混じってゆっくりとほどけていった。
「なあアキラ」
「ん?」
「お前みたいな友達がいてくれて、ほんまに良かったって思ってる」
「うん、俺も」
そしてふたりは黙って並んで夕陽を見ていた。
いつもよりずっと屈託ない笑顔がそこにはあった。
言葉よりも、ちゃんと繋がっているという確信を添えて。
二人はやがて高校を卒業した。
アキラは昔からの夢だったスポーツトレーナーの道へ進み、遠くの街で新しい生活を始めた。
僕は相変わらず不安定な心と向き合いながら、大学では臨床心理を学ぶことを選んだ。あの頃の自分のようにひとりで苦しむ誰かの支えになれるかもしれないと、そう思ったからだ。
どんな時も悩んで、もがいて、立ち止まって、それでももう、ひとりきりではなかった。
人は一人では生きられない。誰かの言葉、誰かの沈黙、誰かの不器用な優しさが知らぬ間に自分を支えてくれていた。
孤独に閉じこもることで守っていたものは本当は自分をもっと傷つけていた。
「助けて」って言えた時。
「ごめん」って言えた時。
「ありがとう」って思えた時。
世界はほんの少しだけ優しくなった。
僕らはみんな自分の痛みも誰かの痛みも完全にはわからない。
でも「わかりたい」と思うことが人と人とを繋げていくのだと今ならわかる。
僕は机に向かいいつものノートを開く。手に取ったペンが少しだけ重たく感じたのは、今の自分の想いをちゃんと込めようとしているからだ。
ページに浮かび上がるのは味覚を失った少年が再び「世界の味」を取り戻していく物語。
それはまるで自分自身のようだった。
窓の外では風が吹いている。
春の匂いが静かに部屋の中に入り込んできた。未来はまだ不確かだ。
けれど、もう怖くはない。
もう一度、生きていこうと思えるから。
僕はゆっくりとペンを走らせた。
これはまだ途中の物語。
でも、確かにここから続いていく。
ここからが始まりなのだ。
希望を胸にひっそりと笑った。
最後に笑えばいい 彩原 聖 @hijiri0827
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