第四話 絶望を知っている
夏休みに入る直前、学校では夏期講習を実施している。高校三年生はもちろん受験勉強がメインで、毎日七限目までみっちり教え込まれる。
今日はその初日で、もちろん僕は遅刻せずに学校に着いている。
教室の空気は少し変わっていて、みんなが受験モードになっていた。「模試」「志望校」「内申」「AO」……そんな言葉が飛び交ってる。
しばらくして教室の扉が開き、アキラが入ってきた。
「シュウ! 久しぶりやな。前より随分マシな顔になっな」
「僕はいつもこんな顔だったさ」
「よう言うわ、あの時の顔を写真にでも撮っときゃよかったな」
「やめんか性悪め」
自習をしていた手を止めて、いつもみたいな会話で盛り上がる。
ふと、僕の手元を見てアキラは言う。
「勉強、追いつけそうか? 」
そう聞かれた時、僕はなんだかアキラに舐められている様な気がした。その場は曖昧に笑って済ませたが、心の中では黒い何かがとぐろを巻いている。
昼休みになって担任から模試の結果を受け取った。
僕の成績はひどかった。
得意だったはずの国語も全体の平均を下回っていた。
ページをめくるたび、できなかった問題が次々と目に飛び込んでくる。
今の自分を突きつけられてるようで、思わず目を背けたくなった。
さっきまでアキラに対して抱いていた虚の劣等感もこの結果だけ見ると現の様に感じられて、余計に苦しくなる。
誰にも結果を知られたくなくて、午後の授業の後、忽然と教室から消えてやった。
その夜、シャーペンを手に取ろうとしてふと手が止まる。
以前までの熱がすっかり冷め切り、ノートを開いても、言葉が出てこない。
頭をぐるぐるとアキラの言葉が巡る。きっと心配しているだけの言葉や態度が胸にグサリと刺さり僕の劣等感がむき出しになった気がした。
ふとピロンと高い音を出し、僕のスマホがバイブした。
画面に映った“アキラ”の文字に指が一瞬止まる。
「今日おつかれ。久しぶりの学校どうや? いきなり模試返ってきてホンマ疲れるわな」
すぐにもう一通。
「いや俺は全然できやんかったわ! 特に英語、またシュウに教えてもらおかな笑」
しばらく間が空いてから、三通目が送られてくる。
「なんだか帰り際に元気なさそうに見えてさ。もししんどかったら話だけでも聞くぞ。ほら俺聞き上手やからさ」
アキラのメッセージを読むだけで胸の奥がぎゅっと痛む。
優しい。あいつは本当に、いつも優しすぎる。
それが、今はしんどい。もはや僕が教えられることなんてきっと何もないのに頼りにされるのがとても重くのしかかる。
返信画面を開いて「ありがとな」って打って消した。
「もうちょいしたら話すわ」って打って、また消した。
結果、既読スルーになってしまった。
返さない理由は山ほどあって、返したい理由も同じくらいあった。
返信欄に何度も文字を打っては消す。
「ありがとな」「大丈夫や」「また連絡する」
どれもしっくりこない。どの言葉も嘘になる気がした。
しんどいって言ったら、また気を遣わせる。
頑張るって言ったら、自分を裏切る。
それならいっそ何も言わない方がマシだった。
通知だけを残して画面を閉じる。
そして僕は布団の中に潜り込んだ。
そのまま三日が過ぎた。
学校へは行っていない。勉強も手につかない。
母は「自分で考えなさい」と言い残し、仕事に出かけていった。
気づけば部屋の空気が重く濁っている。
空腹も感じない。ただ、時間だけが無言で過ぎていった。
玄関のチャイムが鳴った。
(宅配かな)
そう思って無視していたらドアノブが回る音がした。
「……おるんやろ」
声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
アキラだ。
ドアが開いて、制服姿のアキラが入ってくる。
驚いたように僕の顔を見て、目を細めた。
「……マジで、何も食ってへんのかお前」
「……」
「返信こやんから、心配になったわ。メール見た?」
「見た」
「なんで返さへんの」
「返すのダルいし、返すことなんかないからや」
声が思ったよりも尖って出て自分でも驚いた。アキラは一瞬黙った後、少しだけ言葉を選ぶように話す。
「……シュウ、模試の結果、気にしてるんか?」
「そんなんちゃうわ。もっと前からずっとや」
「じゃあ何が原因なんや。ちゃんと話してくれよ」
「話したってアキラにわかるわけないやろ!」
声が弾けた。
自分でも抑えられない勢いで言葉が続く。
「お前は元から何でもできるやんか。勉強も、部活も、人付き合いも。人のこと気にかけて、優しくできて……それがどんだけ眩しいか知らんやろ」
アキラの表情が曇る。
「僕は何もできへん。前に進みたいのに身体がついてこやん。頑張ろうとするほど何もかもが空回りするんや。お前にはそれがわからんのやろ!」
「わからんかもしれん。でも、わからんからって寄り添うことまで否定せんといてくれ」
「寄り添うってなんなん? 僕の気持ちもわからんまま、勝手に入ってこようとするんやろ? 優しさの押し売りやんけ、それ」
アキラの顔がほんの少しだけ強張った。
「そう思ってたんか」
声が低く沈んだ。
「……俺さ、お前が一人で潰れてくのを見てられへんかっただけや。ほっとけなかった。それだけや」
「そんならほっといてくれたらよかったわ」
突き放す態度の僕を見たアキラの瞳が一瞬だけ凍りつく。
でも、それでもまだ、僕に何かを伝えようとするとが苦しかった。
「お前のこと心配してるだけやって——」
「心配、心配って……お前に何がわかんねん!」
怒鳴る声に部屋の空気が震えた。
嵐が去った後は凪が訪れる様に部屋にも静寂が訪れた。
僕はアキラに問う。
「絶望を知ってるか?」
アキラが言葉を止める。
「本当にどうしようもないって思ったことあるんか? 何をしても届かへん、自分が壊れていくのをただ黙って見てるしかない……そんな経験あんのか?」
アキラは黙って僕を見ていた。けれど、その沈黙が僕の怒りに火を注いだ。
「人間ってな、絶望を知ってるかどうかで、その人の価値観が全然変わんねん。お前みたいに希望を持ち続けられる人間と違って、僕みたいなやつは希望がいつ裏切るかを知ってるんや」
「……」
「お前に言われたって何も響かんわ。お前は、僕のこと助けたいって思ってくれてるんやろうけど……その助けが一番しんどいねん」
アキラの顔から言葉が抜けていくのがわかった。
ただの沈黙じゃない。何も言えなくなった人間の沈黙だった。
彼は数秒、その場に立ち尽くした後、低く呟いた。
「……そうか」
それだけ言ってアキラは背を向けた。
その背中はいつもよりずっと小さく見えた。
「アキラ——」
呼び止めようとした。
でも、声が喉の奥でつっかえて出なかった。
アキラが部屋を出ていった。
その瞬間、玄関のドアが“ガチャン”と閉まる音が、壁にまで響いた。
耳に張り付くようなその音が、やけに遠く感じた。
そこは静かだった。いや、静かすぎた。
時計の秒針の音が、さっきよりも何倍にも大きくなったように聞こえる。
机の上のシャーペンが小さく揺れていた。
「……くそ」
誰にでもなくそう呟いた。
けれど、その声さえ、自分の耳に届かないくらい、感覚が鈍っていた。
僕はそっと床に座り込む。自分の膝に額を押しつけて思い出す。
さっきの驚いたような寂しそうなアキラの顔を見たことなかった。
なんであんなことを言ってしまったのか。
「絶望を知ってるかどうかでその人の価値観が全然違う」
言ってやった、と思ったはずなのに、胸の奥に残ったのは勝ち誇ったような感情ではなかった。
ただ、空虚だった。ぽっかりと穴が空いたみたいに。
「ほんま、僕、何してんねん……」
目の奥がじんと痛む。
こみ上げてきたのは、涙でも、怒りでもなく後悔だった。
アキラは悪くない。
あんなふうに心配して、何度も助けようとしてくれてた。
それを、僕は全部拒絶して、突き放した。
しかも、最も重い言葉で。
「お前には絶望なんてわからん」
まるで自分だけが特別で自分だけが一番不幸だと言ってるみたいだった。
「最低やわ」
そう呟いても誰も答えない。
アキラがいたときはすぐに何か言い返してきたのに。孤独が音を立てて部屋に戻ってくる。
アキラがくれたぬくもりを自分で追い出したのだ。
スマホを見る。さっきまでたくさん来ていたアキラからのメッセージはそれ以降、何も更新されていなかった。
指が震えながら返信の画面を開く。
『ごめん』
そう打ちかけて、手が止まる。
「……今さら、何て言えばええねん」
涙がまた滲んでくる。
言葉が出ない。
謝りたいのに、伝えたいのに、自分の中の何かがブレーキをかける。
また同じことを繰り返すかもしれない。
またアキラを傷つけるかもしれない。
そんな恐怖が指先を凍らせる。
画面を見つめたまま時間だけが過ぎていく。
気づけば、日は沈み、部屋の中はオレンジ色の光に染まっていた。
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