第三話 しょっぱい涙
玄関のドアが開く音がして母が帰ってきたのがわかった。
まだ暑さの残る夜でスーツ姿の母は部屋に近づくなり大きくため息をついた。
「ただいまシュウ。……あんた起きてる?」
廊下からかけられたその声に僕は小さく「うん」とだけ返す。
やがて母が部屋の扉を開けて僕の姿を目にした瞬間。
「ちょっとシュウ、なんや、その顔」
その声は呆れとも怒りともつかない、けれど間違いなく心配がにじんでいた。
母の目が一瞬で僕の顔と体を見て何かを察したように細くなった。
「やつれすぎやろ。あんた、ちゃんと食べてたん?」
「まあ」
「嘘つくなや。目の下、クマで真っ黒やない。髪もべたべたやし顔色も悪い……」
僕は思わず視線を逸らした。母は部屋の中にずかずかと入ってきて僕の頬を軽く指でなぞった。
「熱は? まだ残ってんの?」
「いや、もうないと思う。でも、体がだるいだけやわ」
「だるいんは当たり前や。こんな生活しとったら、そら体おかしくなるわな」
母の声が一気に強くなる。
「なんで自分の体を一番に考えへんの! なんで私がいない間にそんな状態になるまで我慢するん!」
「母さんに迷惑かけたくなかっただけや」
「それが一番迷惑やって言うてるんよ!」
母の張りのある声が静謐な部屋の壁に反響した。怒ってる。確かに怒ってるんだけど、それは怒りじゃなくて、きっと——悲しみだ。
母はふっと声を落として、僕の頭に手を置いた。どこかぎこちないその仕草は、昔よくしてくれたことを思い出させる。
「あんたはまだ高校生なんやで。自分一人で全部背負うことなんかせんでええ」
その言葉が胸に響いた。
頭の先からじんわりと暖かくなる気がした。
アキラと母。言い方も性格も全然違うけど言ってくれることは同じだった。
誰かに支えられてることを僕はずっと忘れていたんだ。
「ごめん母さん」
母はため息をついて僕の頭を軽くぽんと叩いた。
「ごめんやない。まずはシャワー浴びてきや。髪、カピカピやで」
シャワーを浴びてすっかり清潔になった僕は、母と夜食を共にする。
「母さん、言いにくいんだけどすごく大事な話をしたい」
「今日はもう遅いから明日でいいかしら、予定もないから二人でゆっくり話さない?」
ついに母さんに僕の不安を打ち明けてみることにした。午後にアキラに打ち明けた時、僕は少し心が軽くなった。
母さんに言ったらもっと不安が和らぐ気がするのだ。そんな期待を抱き、替えたばっかりのシーツに顔を埋めた。
最近よく眠れていなかったせいか、目が覚めるとお昼前くらいであった。
「おそようだね、シュウ」
「あーめっちゃ寝たから気分悪いわ」
「朝…というか昼ごはん作ってあるから食べましょう?」
食卓に出されたは消化に良いおかゆや果物、ヨーグルトがあった。傍には薬が置いてある。
いただきます、と言ってそれらを口に入れる。おかゆは温かいし、果物は食感がある。ヨーグルトは冷たいと感じる。
それだけだった。やっぱり味がしない。
食べ終わった食器を流しに運んで、テーブルを拭いた。
なんとなくタイミングを見ていたけれど、母は食器を片付けながら唐突に言った。
「それで、昨日の“話”って何? 」
背中越しに言われてドキンと心臓が跳ねた。
「味がしやんねん」
「え?」
母が訝しげにこちらをみる。僕は自分の指先を見つめながら少しずつ言葉を繋いだ。
「ここ最近、何を食べても味がせん。最初は薬のせいやと思ってたけど、それとは違う気がするんや」
母は黙って僕を見ていた。たぶん、続きがあるとわかっている顔だった。
「味がしないのも不安やけど、それ以上に理由がわからんのが怖い。身体もしんどいし、いつ治るかもわからん」
言葉にすると余計に現実味を帯びて胸の奥が締め付けられる。
「正直、受験とか進路のことも考えるだけで頭が重くなる。なんでこんなに動けへんのか自分でもわからんのや」
母はしばらく無言だった。流しの蛇口から水の音が聞こえていた。
何を言うべきか思案しているのか、はたまた僕の言葉を噛み砕こうとしているのか。
不断の水を止めて母はふっとため息をついた。
「……それでシュウはどうしたいん?」
「え?」
「自分が今こんな状態やってわかってる。けど、そこからどうしたいんかがわからんかったら、私は助けようがないんよ」
母の言葉は冷たくはなかった。でも厳しかった。
「病気は仕方ない。でも、回復するために何をするかは自分次第やろ? 」
少しずつ胸に痛みが広がる。母の言葉は真っ直ぐだった。
「それに、もう受験まで半年もないんやで?」
僕は黙った。
何か言い返したい気持ちになったが、何を言っても自分が惨めになることに気づく。
「“しんどい”とか“不安”とか、それがあるのは当然。でも、それを盾にして何もしないっていうのは違うと思う」
「……」
「今しかできへんことがある。高校生の三年生、たった一回や。甘えてばかりじゃ、この先もっとつらくなるで」
言葉のひとつひとつがぐさりと胸に刺さる。
痛かった。悔しかった。でも、それ以上に苦しかった。
『しないんやなくて、できへんのや』
声に出すことはできなかった。
『母さんもこんな苦しみを知らんからそんなことが言えんねん』
頭の中ではそう叫んでいた。でも、唇は動かなかった。
言葉にする勇気がなかった。
僕の中で言葉が形になるたび、それはすぐに崩れて、何かに飲み込まれていく。
『できるならとっくにやってる』
『こんなに苦しみたくて苦しんでるわけやない』
だけど、それをどう伝えればいいのか、僕にはもうわからなかった。
母の正論が正しいのはわかってる。
でも心が、それについていかない。
だから黙った。ただ黙るしかできなかった。
母は再び言葉を紡ぎ始める。
「母さんもね、正直、ずっと働いてばっかで、ちゃんと向き合えてなかったとは思ってる。あんたのことちゃんと見れてなかったんやなって思う」
母は少しだけ表情を曇らせた。
「でもな、仕事して、家計支えて、あんたに勉強できる環境を作る。それが私の精一杯やってん。それくらいはわかってくれると思ってた」
僕は何も言えなかった。でも、ただひとつ涙を流した。
「不安なら、不安でもええ。でもそれを越えて、動く覚悟があるんかって話やわ。受験は待ってくれへんし、誰も代わってくれへん」
しんと静まった部屋で母の言葉だけが残った。
「さ、休むのはええけど、そろそろ本気で考えや。私もずっとそばにおれるわけちゃうからさ」
母はそう言い残して再び台所の洗い物に戻った。
その背中は小さくて、でも強かった。
「……わかった。いつもありがとう」
母は何も言わなかった。ただ、少しだけ動きが止まったように見えた。
それだけで僕は十分だった。僕は静かに自分の部屋に戻ろうとした。
ふと視線の先に、仏壇の上の写真立てが目に入った。そこにはスーツ姿の父が、いつもの穏やかな笑みを浮かべて写っている。
病に蝕まれていたはずなのに父は最後まで弱音を口にしなかった。苦しみを隠し、家族の前では威厳を崩さないまま逝った。
そんな父に比べて、僕はどうだろう。弱音ばかりで涙まで見せている。
涙を流す僕は父の背中からは程遠い。
もし父が生きていたなら、こんな自分をどう見ただろう。きっと失望したに違いない。
写真の中の父は何も言わない。けれど、その沈黙こそが一番重たくのしかかってくる。
自室に帰り、机の上をふと見ると、使い慣れたシャーペンが転がっていた。
隣にはぎっしりとプロットが書き込まれたノートがあり、少しページが反り返っていて、何度も開いた跡がある。
本棚には参考書や小説の書き方の本がずらりと並んでいる。
どれも僕の努力の証で、ともに歩んできた軌跡だった。
誰かに褒められなくとも、何かを成し遂げなくても、届かなくても確かに僕はここまでやってきた。
『ここで終わらせたくない』
そう思った瞬間に込み上げてきたのは、悔しさとそれを乗り越えようとする切実な想いである。
不意に涙が込み上げてきた。
頬を伝った涙は確かな熱を持っていた。以前は何も感じなかったが、確かに熱がある。
それが唇に触れて舌先まで伝わる。
ほんの一瞬だった。
——しょっぱい。
涙の、あの懐かしい塩味がした。
驚きと戸惑いと微かな希望が胸を走った。
味がした。
それはまだ完全に戻ったなんて言えないほど、かすかな感覚だったかもしれない。でも、それでも——
今、確かに何かが変わり始めていた。
『こっから逆転劇や』
僕はまだまだやれる。過程がどうあってもいい最後に笑えばいい。
受験勉強も学校生活も何もかも乗り越えてやる、そんな決意を胸にシャーペンを握った。
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