4 あたりまえの日常
4
翌週月曜日、またいつものように平穏な日常生活が始まった。
学校へ通い、授業を受け、友達とお喋りをする。
だが、ふとした時にそんな日常を人知れず守ってくれている者の存在が珠乃の脳裏を過る。
もし彼女の家系が――
ある日突然、家族やクラスメイトがいなくなったりしたら――そんな恐怖に晒され続ける生活など、考えたくもない。
当の
稜神の人間は彼女に感謝しなければいけない。だが、それをできるのは秘密を共にしている珠乃しかいない。家族を亡くしている彼女を支えてやれるのはもはや自分だけなのだ。
午前の授業も終わった昼休み、珠乃は学級委員長の仕事で一人職員室を訪れていた。用事こそ十五分で済んだものの、午後一の授業に間に合うようにお弁当をかき込まなくてはいけない。食べるのがゆっくりな珠乃にとって昼休みの十五分は結構なタイムロスだ。
教室へ早足に向かっている最中、階段の上層からひんやりと風が吹き抜けたのを頬に覚えた。この上は廃棄寸前のボロボロになった机や椅子が山積みされているだけで、他には屋上への扉しかないはずだ。
不審に思った珠乃は慎重に階段を昇る。やはりと言うべきか屋上の扉が僅かに開いていた。本来は施錠されているはずなのだから、先生に報告しておくべきだろう。
無断の屋上立ち入りは校則違反だが、もし誰かが居て閉め出されてしまってはまずいと思い、念のために扉を開けて一歩外に出る。屋上へ出るのは初めてのことであり、吹き抜ける風が心地よかった。
角を曲がったその先に一人の生徒が座り込んでコンビニのパンをかじっているのが目に留まった。誰もいないと思っていたものだから、珠乃は慌てて物陰に身を引っ込める。
見間違いではない。何の偶然か、そこにいたのは
まさかこんな所でまた居合わせるなんて。しかしこれは千載一遇のチャンスではないか。天祢の役に立つため、彼女の情報を少しでも多く仕入れておくべきだろう。
再び物陰から顔を覗かせる。だがそこに悠那の姿はなかった。
「あれ……?」
「こそこそ隠れなくたっていいじゃん、一年」
「うわあっ!?」
気付けばすぐ背後に悠那が立っていた。まるで気配を感じなかったが、いつの間にか回り込まれていたのだ。
悠那は怪訝そうな顔で
「あんた、何処かで会ったことあるかな?」
「先週、体育館の裏でお会いしたと思います。古葉先輩」
「ああ、思い出した。……で、うちの事知ってんの?」
うっかり名前を出してしまったので背中に嫌な汗が流れた。
「新体操部の古葉悠那先輩、ですよね。学内報で拝見しました。その、大会で優勝されたって」
咄嗟に先週から調べ上げていた情報を使ってもっともらしい理由をでっちあげる。
「……ふぅん、うちも有名になったもんだね」
その答えに納得したようで、悠那は踵を返して座っていた場所へ戻っていく。
珠乃は胸を撫で下ろす。彼女の様子からして、騎士の正体が珠乃だとは気付いていないようだ。あの時は兜で顔は隠れていたし、鎧で体型も誤魔化されていたのだ。気付いていないのであれば黙っておいたほうが得策だろう。
「こっち来ないの?」
「え?」
「お昼、食べに来たんでしょ?」
本当は違うのだが、今の立場を利用すれば怪しまれず彼女に接近できる。色々と素性を聞き出すことができれば天祢の役にも立てるだろう。
立ち入り禁止の屋上にはベンチなどという気の利いたものは置いてあるはずもなく、スカートが汚れるのが嫌だったが仕方なく隣に腰掛けた。
「あんた名前は?」
「稲津城、珠乃です」
「そう、珠乃ね。覚えた。うちのことも名前でいいよ。たった一年早く生まれただけで敬わなきゃいけないなんて馬鹿げてるからさ」
「じゃあ、悠那さん。ここにはよく来られるんですか?」
「そうだね。いつも一人でのんびりできる隠れ場所を探してる。体育館裏のあそこもその一つだけど」
悠那はサンドイッチを齧り、背後のフェンスに勢いよくもたれかかる。たわんだフェンスは身体を受け止め、トランポリンのように身体を跳ね返してはまた受け止めた。
「全く、屋上くらい自由に使わせてくれてもいいじゃんね。フェンスも設けられてるから危なくないんだし」
パックの牛乳を啜りながら悠那はぼやく。
「昔、この屋上から転落して亡くなった生徒がいたそうなんです。フェンスが設けられたのも、校則で出入り禁止になったのもその事故があったからで」
「へぇ、そうだったんだ。ところであんたお昼は?」
そう言われて主の目的を思い出す。だが弁当は教室の鞄の中だ。取りに行く時間もないので今日は昼食抜きだろう。そう思った途端に空腹でお腹と背中がくっつきそうになる。
「はは、お昼を食べに来たのにまさかお昼を忘れるなんてね。ほら、あげる」
「あ、ありがとうございますっ」
悠那はこちらに総菜パンをひとつ寄越す。コロッケが挟まったボリュームのあるパンだ。この手のジャンキーなパンを食べるなどいつ以来だろう。一口かじるとソースの香りが広がり、芋とパンに口の中の水分を奪われる。飲み物もないので喉に詰まらせないよう咀嚼し、味わいながらもあっという間に平らげた。
一息ついてから悠那の横顔をちらりと見る。掃除の邪魔にならないよう立ち退いてくれたり、こうしてパンを譲ってくれたり。言葉遣いはややぶっきらぼうだが、どうしても稜神大社に現れたあの少女と同一人物とは思えなかった。
気付けば昼休みもじきに終わる時間だ。ついぞ有益な情報は得られなかったが、これで諦めたくはない。珠乃はスマホを取り出して電源を入れた。
「あの、悠那さん。よければ連絡先を交換しませんか?」
そう告げると悠那は力なく笑う。
「ごめん、普段スマホ持ち歩いてないんだ。……連絡を取り合う相手もろくにいないし」
悠那はふと寂しげな表情を見せた。
だが、先日体育館の裏で鉢合わせたときにはスマホを触っていたはずだ。つまり珠乃は警戒されているのだ。もし彼女が大社での出来事を動画に撮っていたのなら誰かの目の前で不用意に取り出したりしないだろう。
そう思ったのもつかの間、悠那は薄く笑って珠乃のスマホを指でつついた。
「それに、校内での携帯使用は校則違反だからさ。屋上立ち入りと携帯の使用でツーアウト。まさかうちよりもワルの後輩が居たなんてね」
はっと気付いたときには遅く、すっかり乗せられてしまっていたが明確な校則違反を犯してしまっている。学級委員長としてあるまじき行為だ。
悠那はごみをビニール袋へ詰め込み、屋上の出入り口の方へと向かう。すると彼女はこちらへ何かを放り投げたようで、珠乃は慌ててキャッチした。見れば銀色をした一本のシンプルな鍵だった。
「うちはもう行くから、これ屋上の鍵。そこ出たところのボロ机の引き出しに隠しといてね」
それだけ言うと悠那は屋上を出ていった。そうこうしているうちに昼休み終わりの予鈴が鳴り響く。
ただ一人残された珠乃の心中は煮え切らない感情で溢れていた。少なくとも珠乃には、彼女が動画を人質にして脅迫を企てるような悪人には見えなかったのだ。
「あ、シュノちゃん! いたいた」
午後の授業を終え、下校時刻が訪れる。昇降口で靴に履き替えようとしていた矢先にやってきたのはクラスメイトの
「どうしたの?」
「私たちモールまで遊びに行こうと思うんだけど、シュノちゃんも一緒にどうかなって」
「放課後の寄り道は駄目だよ? 真っ直ぐ帰らないと」
今日はただでさえ二つも校則違反を犯しているのだ。これ以上の罪重ねは自尊心がどうにかなってしまいそうだ。
「そこを何とか、ね? 来てくれたらクレープ奢るからさ?」
刹那、珠乃の脳裏に過ったのは生クリームといちごに溢れたクレープの姿であり、思わず生唾を飲んでしまう。
その様子を察したのか、杏果はニヤリと笑う。
「よし決まりね、相変わらず甘いものに目がないねぇ」
そんなに分かりやすく顔に出ていたのか、頬に熱を覚えた。つくづく自分は押しに弱いなと心の中で恥じる。こうなったら今日だけはとことん悪い子になってやろう。
杏果たちと校門を出てすぐのバス停へ向かい、帰るのとは反対の方向のバスへ乗り込む。十数分かけてやって来たのは稜神町で最も大きなショッピングモールだった。平日の夕方だというのにそれなりに込み合っている。
「冬服も見たいんだよね、新作出てる頃だからさ」
杏果に連れられてエスカレーターで三階まで向かう。お洒落な服屋へ一歩足を踏み入れれば、どうにも場違いな感じがして臆してしまう。
珠乃はファッションというものに疎く、おまけに身長も小学校高学年の頃から伸び悩んだせいで買い替える必要がないため服屋などご無沙汰だった。服というのは季節が変わって新作が出るたびに買い替えるものなのだろうか?
杏果たちが服を物色している間、店員さんから声を掛けられないように店の片隅で大人しくしておくことにした。
「あ、これ……」
すぐそこの棚に平置きで展示されていたのは羊革の黒い手袋だった。スリムなシルエットで、手を通してみれば中には布が張ってありしっかりと暖かい。
先日、天祢が寒空の下で手を擦り合わせていたことを思い出す。あのしなやかな細指によく似合うことだろう。値札に目を通す。少々高いが、お小遣いで何とか買える価格だった。
両手に服を抱えた杏果が棚の向こうから顔を覗かせ、珠乃の様子を見て顔をぱっと輝かせる。
「それ買うの? いいセンスじゃん!」
「あ、うん。……お母さんにプレゼントしようかなって」
「へぇ、親孝行だなんてシュノちゃんは本当に良い子だね! 私は親に何か買ってあげるなんて考えたこともなかったかも」
良い子だなんてやめてほしい。今日の珠乃は悪い子なのだ。
咄嗟に嘘を吐いてしまったことに自分でも驚きを隠せないでいた。正直に天祢へプレゼントするつもりだと言えば、きっとまたからかわれてしまう。いや、それ以上に関係を隠しておきたいという天祢の意向を守りたかったからだろうか。
杏果たちはまだ時間がかかりそうだったので、先に一人でレジへと並んだ。
「あの、プレゼント用のラッピングってできますか?」
「はい、承っております。よろしければ無料で名入れのサービスも行っておりますが如何でしょうか」
店員さんがにこりと微笑む。
「名入れ?」
「ええ、この手首の部分にアルファベットでお名前をお入れいたします」
それはプレゼントにぴったりな加工だ。せっかくなら入れて貰おう。用紙に『K.Amane』と記載し、店員に渡す。
「ケー、アマネ……ですね。承知いたしました」
店員さんが読み上げるものだから、ふいに変な汗がにじんだ。杏果たちに聞かれやしなかったか焦ったが、彼女らは買い物に夢中で気付いていないようだった。
名入れは三十分程で仕上がるらしい。先に服屋を出て待っていると、両手に大きなショッパーを下げた杏果らが遅れてやってきた。彼女の気さくな性格で忘れがちだが、やはりそこはお嬢様学校に通う子、お金の使い方が中々に大胆だ。
「ごめんね、買い物にすっかり夢中だったよ。お詫びに約束通り、好きなクレープ頼んでいいからね!」
二階のフードコートにあるクレープ店へと向かい、四人揃って注文をする。珠乃が選んだのはいちごとクリームのシンプルなクレープだった。
「ん……!」
一口齧れば甘い生クリームと酸っぱいいちごのハーモニーが口いっぱいに広がり、頬が落ちそうになる。あまりにも良い顔をしていたのか、杏果も満足げだった。
「でもごめんね、やっぱり奢ってもらうなんて悪いよ」
「いいのいいの! シュノちゃん程美味しそうに食べてくれる人他にいないもん、それだけでお釣りが来るくらいだよ」
そう言って笑い合う。放課後の寄り道なんて悪い事だと考えていたが、友達と過ごす時間とはこんなにも胸が高鳴ることだったんだ。
もし天祢もこうして一緒に遊べたら――という考えが刹那的に頭を過り、かぶりを振って考えを振り払う。
今日の自分はなんだかおかしいと珠乃自身も思っていた。何故こうも天祢のことばかり頭に浮かんできてしまうのだろう。
丁寧にラッピングされた手袋を受け取ってショッピングモールから出る頃には空はすっかり暗くなっていた。帰りのバスの中、クラスメイトたちは一人ずつ途中下車していく。モールから学校を挟んで正反対のところに住む珠乃は必然的に最後の一人まで残ってしまう。
さっきまでの思い出に浸りながら窓の外を眺める。今日は本当に楽しかった。こんな時間にクレープを食べたので晩御飯が入るか心配だったが、今更ながら昼の弁当も食べていなかったことに気が付いた。
鞄の底にしまい込んだ弁当箱を取り出す。たぶん破棄することになるだろうから、作ってくれた母にも調理された食材にも申し訳ないことをしてしまったと負い目を感じ、どうしようもなく胸が痛む。
珠乃はやはり悪い子には成りきれなかったようだ。
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