2 珠乃
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成績は極めて優秀で誰に対しても礼儀正しく、クラスでは学級委員長を務めている。彼女の不真面目な態度を目撃したことのある人など一人もいないだろう。きっと誰に尋ねても彼女は「優等生だ」という評価が返されるに違いない。
月曜日の朝、登校して席に着く間もなくクラスメイト数人が周りに集まってくる。もはやこのクラスの風物詩とも言える光景だ。
「おはようシュノちゃん!」「シュノちゃん、お菓子食べる?」「ちょっと聞いてよーシュノちゃん!」
比較的小柄な背丈も相まって、こうして周囲からマスコットのように可愛がられるのも頷ける。
どうやら珠乃の名前は初見では読めないらしく、すっかり誤読の方がニックネームとして定着してしまっている。赤茶色の髪はイタリア人である母親譲りであり、おそらく外国人のような風貌が古風な読み方から遠ざけてしまっているのだろう。珠乃自身は生まれも育ちも稜神なので中身はすっかり純日本人だが、そんな異国めいた呼び名も憧れの母に近づいたみたいで嫌いではなかった。
そうこうしている間に朝のホームルームが終わり、一限目の数学の授業が始まった。机に向かい、先生の話に耳を傾け、ペンを走らせる。
勉強を嫌う生徒も少なくないが、珠乃はこの時間が好きだった。静寂の中で先生の板書の音と、各自がノートを記す音が混ざり合って心地よい楽興を奏でるのだ。
時間はあっという間に過ぎ、チャイムが鳴り響く。先生が教室から出ていくと同時にクラスメイトがざわざわと雑談を始める、そんな整然とした無秩序も好きだった。
次の授業は美術だ。教室移動があるし、画材と課題で提出していたクラス全員分のカンバス画を美術準備室から運ばなくてはならない。それも学級委員長である珠乃の務めだが、これがなかなかに厄介だった。
美術室と準備室は廊下一本分、全くの正反対な場所に位置しており、一往復するだけでも結構な時間がかかる。元々空き教室だった部屋を後から美術準備室に替えたという経緯があるらしいのだが、生徒からすれば欠陥構造と言わざるを得ない。
画材の詰め込まれた段ボールと、クラスメイト三十名分のカンバス。三往復もあれば行けるだろうか。段ボールの上にカンバスを十枚重ねて持ち上げてみる。一枚一枚は大した重量ではないが、画材の重さに加えて載せたカンバスが徐々にずれていき、終いにはひっくり返しそうになってしまう。
「うわあっ!?」
「……っと危ない、セーフだねシュノちゃん」
「
間一髪のところで崩れそうなカンバスを支えてくれたのは、クラスメイトでも特に仲の良い生徒だった。
「遠慮なく私らを頼ってよ? ただでさえシュノちゃんは頑張り屋さんなんだから」
見れば後ろにも二名連れて手伝いに来てくれたらしい。四人で運べばあっという間だろう。有り難い申し出に甘えることにした。
クラスメイトの二人が先行し、珠乃と杏果が後に続くように廊下を歩いてゆく。反対方向から来る生徒とぶつからないように左側に寄ったとき、珠乃はついその人に視線を奪われてしまった。
「あ……」
珠乃は足を止め、すれ違ったその人の姿を目で追っていた。同行していたクラスメイトらも異変に気付いてこちらを振り返る。
「どうしたの?」
その視線の先、珠乃が釘付けになっているその背を杏果も自然と目で追っていた。すらりと高い背に肩まで伸ばした薄水色の髪――。
「あれは……
上灘
彼女はこちらを一瞥することもなく、ただ一人凛として立ち去っていく。しばしの沈黙の後、クラスメイトの一人がぽつりと漏らした。
「上灘さん、今日も美しいなぁ……」
「すっごく素敵よね。クールでミステリアス、おまけに背も高くてカッコいい!」
「あ、もしかして浮気? 私はシュノちゃん一筋だもんね!」
杏果たちはわいわいと盛り上がりを見せる。彼女は珠乃とは正反対のようであり、別のベクトルで密かにファンを集める存在だ。
そんな騒がしさを余所に、どうやら珠乃は彼女が廊下の角を曲がって見えなくなるまで熱心に眺め続けていたらしい。杏果がいたずらっぽく珠乃の肩を捕まえてきた。
「も、もしかしてシュノちゃん……上灘さんに一目惚れしちゃったりして!?」
「え!? ち、違うから絶対!」
予想だにしない発言と周りの黄色い悲鳴で耳が熱くなる。珠乃は色恋を知らないが、少なくともそのような感情でないことは確かだった。
そう、彼女が気になって仕方のない理由は全く別の処にある。珠乃は一昨日の晩の出来事を思い返していた。
(『聖女』……)
稜神の
他でもなく上灘天祢こそが『聖女』その人であり、稲津城珠乃が『騎士』なのである。
学校で彼女と話したことは殆どない。何度か話しかけようとしたことはあるが、その度に無視をされてしまう。そして土曜日の夜に会うと、昼間は話しかけないようにと注意されるのだ。
どうやら彼女はこの関係性を誰かに悟られるのを嫌っているらしい。それどころか友人を作って親しくしているところも見たことがなかった。
影などという非現実的な物を相手にしているのだから、それ自体世間に知られたくない秘密というものだ。もちろん珠乃だって誰にも公言していない。友人を作らなければ秘密が漏れる確率も減るが、それでは少し寂しいのではないだろうか。
少なくとも同じ秘密を抱えた珠乃であれば友達になれるのに――。
「シュノちゃんってば、まだぼうっとしてる。すっかり恋する女の子の顔だもん。私としてはずっとピュアなシュノちゃんで居てほしいんだけどなぁ!」
「もう、違うから……からかわないでってば!」
ぷくりと膨らませた頬はいつの間にか崩れ、四人で笑いながら美術室へ向かっていた。
週も中程まで過ぎた水曜日、午前中の一コマを潰して学年全体で一斉清掃が行われることになった。
珠乃たちの班は体育館の周辺担当で、特にこの時期は落ち葉が山のように
学校指定の赤いジャージに着替えウィンドブレーカーを羽織ったが、やはり風が冷たく肌に刺さる。
「うう、寒っ……」
「手分けしてさっさと終わらせて、教室で暖まろっか」
杏果の提案で場所を分担し、落ち葉を一ヶ所に固める作戦を取ることにした。みんなで同じ場所を掃くよりはずっと早く済むだろう。
珠乃は体育館の裏手、人目につかない隅の方を掃き清めることになり、竹箒を抱えてそちらに向かう。しかし角を曲がったその先で珠乃は驚きに息を飲むことになった。
「――っ!」
一人の生徒が壁面を背に座り込み、気だるげにスマホの画面を眺めていた。
制服のリボンの色を見るに、一つ上の学年の先輩だろう。二年生は今の時間は通常通り授業があるはずなので、恐らくサボタージュというやつだ。
そこに誰かが居たから驚いたのではない。驚くべき人が居たから驚いたのだ。
黒色のボブヘアに特徴的な黄緑のインナーカラー。切れ長の目と、右の目許に在る印象的な
「……何?」
あまりにもまじまじと見てしまっていたのか、こちらに気付いた少女はぶっきらぼうな物言いで鋭い眼光を突き付け、珠乃は萎縮してしまう。一触即発の空気が張り詰め、緊張で急激に喉が乾く。
「あの、私は、掃除を」
声が途切れ途切れにしか出てこない。
「……ああ、邪魔だったかな。ごめんね」
手に持っていた竹箒を見て察したのか、少女は案外あっさりと非を認めて立ち上がり、手を軽く振って立ち去っていった。入れ替わるように物陰から杏果が顔を覗かせる。
「シュノちゃん大丈夫? なんだか怖そうな先輩が出てったけど」
張り詰めた緊張が解け、友達の顔を見た安堵からか珠乃はその場にぺたりと座り込んでしまう。
「シュノちゃん!? 何か痛いことされた!?」
「大丈夫、大丈夫なんだけど……」
まだ鼓動が鳴り止まない。まさかあの正体不明の少女とこんな形で出会すなんて、世間はなんと狭いのだろう。
杏果の気遣いで早めに教室へ引き上げさせられた珠乃だったが、どうにも落ち着かない。彼女らに掃除の負担を押し付けてしまった申し訳なさもあるが、何よりも例の少女が稜女の生徒だったという事実を一刻も早く天祢に伝えたかったからだ。
たった一人の教室で早めに制服へ着替え直していたところ、隣の教室がざわざわと騒がしくなり始めた。どうやら隣のクラスは屋内清掃だったらしく、落ち葉をかき集めなければならない珠乃のクラスに比べて随分早く終わったようだ。居ても立ってもいられず、珠乃も教室を出てそちらへ向かう。
「――上灘さん!」
戸を開け放ち、その人物を探す。教室の一番後ろ、窓側の席に彼女はいた。
このクラスと隣のクラスの二大アイドルが並び立っているのだから、当然注目を集めてしまう。周囲のざわつきが大きくなったのが分かる。
当の上灘天祢は突然の来訪者を気にも留めず、ジャージの上着を脱いで着替え始める。いきなり下着姿を見せるものだから、気恥ずかしさで目を剃らしてしまった。
「どうしましたか、稲津城さん」
制服の上着に袖を通し、天祢は顔を上げてにこりと笑む。しかし珠乃にはそれが薄ら冷たい、貼り付けたような作り物の笑顔に見えてしまう。
「聖――」
しっ、と天祢は人差し指を立てて珠乃の口を封じる。
「学校で『夜』の話をしてはなりませんよ」
周りに聞こえない程度の声量でたしなめる。
「どうしても今話したくて」
「なりません」
「でも――」
「ええ、現代文のノートですね。構いませんよ」
天祢は話を逸らすように、周りにも聞こえる声でわざとらしく述べる。机から取り出したノートにさらさらとペンを走らせると、珠乃の胸元に突き付けてきた。
「本日は使いませんから、明日返してくだされば結構です」
天祢は満面の笑みでそう述べる。ただのノートの貸し借りか、と周りのざわつきも次第にまばらになっていった。端から見ればさぞ素敵な笑顔なのだろうが、珠乃からすれば無言の圧をひしひしと感じるものであり、まるで蛇に睨まれた蛙だった。
これ以上は話などできそうもないと感じ、ノートを受け取って逃げるように自分の教室へ戻る。ほんの数分の出来事だったが、気疲れで座席にぐったりと座り込んだ。
彼女は何故こうも昼間に関わることを避けたがるのだろう。実際のところ天祢とは一度も遊びに出かけたことはないし、彼女の趣味や好きなこと、ひいては連絡先さえも知らないのだ。
もっと彼女を知りたい。だが天祢のほうから遠ざけられている気がして、これ以上踏み込めないでいた。
次第に珠乃のクラスにも人が戻ってきた。杏果たちには目一杯の謝罪をしたが嫌な顔ひとつ見せず、むしろ珠乃の体調を心配するばかりだった。本当に良き友人を持ったものだと心から感謝した。
周りが着替えている間は退屈なので、天祢に貸してもらったノートを何の気なしにめくる。几帳面かつ美しい文字で、このまま教材として使用できそうなほど丁寧に板書の写しが書き込まれている。
感心しながらもページをめくると、最後のページの走り書きが目に留まった。
『この人を調べて。また次の夜に』
『
たった二行、そう書かれていた。先程ノートを渡される直前に天祢が記したものに違いない。まさか既に少女の正体に当たりをつけていたとは。彼女の姿を見かけただけで大騒ぎしていた自分が恥ずかしくなる。
天祢の役に立ちたい。まず彼女の名前を検索してみるところからやってみよう。だが校内でのスマホ使用は校則違反であるため、誰にも見られないお手洗いにでも隠れて調べようか。
そう思い立った矢先、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。お預けを食らい、その後の授業は悶々とした気持ちで過ごすことになった。
土曜日。珠乃は部活にも入っておらず、これといった趣味もないので結構持て余しがちな一日になる。
母の買い物に付き添い、帰ってからは宿題を片付けて来週分の予習に取り組み、おやつを食べてからスマホで時間を潰す。家族揃って夕食を摂り、お風呂でゆっくりと身体を伸ばし、ゴールデンタイムのバラエティ番組を見て笑い合う。
普通で、退屈で、だけど幸せに満ち足りた休日。そこに加えるほんの少しのスパイスが、夜更けに控えているのだ。
珠乃はベッドにごろりと寝転がった。子供の頃から夜十時にはこうして床に就き、朝までぐっすりと眠る生活を繰り返してきた。まさか両親も娘が夜中に出歩いているなど夢にも思っていない。
天井を眺めながら珠乃はこれまでの日々を思い返していた。影祓いを初めて手伝ったのは稜女へ進学してすぐの頃だった。天祢と共に活動してもう半年ほどになるのかと思えば、時の流れの早さを感じてしまう。
初めて出会ったきっかけは正直のところ、あまり覚えていない。珠乃はあくまでも手伝いという立場であり、影祓いを主導しているのは天祢――もとい上灘家なのだ。ただ天祢の稜神を守りたいという考えに賛同して手伝いたいと思えるからこそ、貴重な土曜日の夜を彼女に捧げることも惜しくはなかった。
時計を見れば間もなく日付が変わろうという頃合いだった。稲津城家は皆早寝であり、両親ももうぐっすり寝ているはずだ。
珠乃は学校指定のジャージに袖を通し、クローゼットの奥から段ボール箱を引っ張り出す。純白に輝く肩当て、胸当て、手甲……それは誰にも見せることのできない秘密のドレスコードだった。
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