眷恋サヨスガラ
スラチ《Circle:セントネーレ》
1 影
1
とある週の土曜日。月は雲に覆われ、ひたすらに暗い夜だった。
街の北部、木々に囲まれた石階段を上った先に
盆には賑やかに祭りが催され、年の初めには多くの人々が参拝に訪れる地だが、今宵はそれとは正反対の静けさが境内を包んでいる。
『土曜日の夜に稜神大社を訪れてはならない』――稜神に生まれた人間であれば誰もが古くから口伝されてきた風習であり、
「もうすぐだね」
「ええ」
戒律を破り、社の前では二人の少女が来たるべき時を待ち続けていた。
辺りを照らす電灯は不規則な点滅を繰り返し、羽蟲の寄る辺としてただそこに在るべきもののように立っている。張り詰めた空気の中でやがて異変は訪れた。
社殿の奥から黒い何かが地を滑り、二人の前へ這い出たのだ。それはヘビ玉花火のように急激に膨れ上がって質量を増し、二メートルを超す巨躯へと姿を変える。不規則に揺らめいて輪郭は定かでなく、しかし人間のような四肢や頭部があった。
「『影』よ、我が刃が貴殿を切り裂かん!」
冷たい夜の静寂を切り裂くように、高らかな声が響き渡る。
元の体型も分からぬほど重厚な純白の鎧。赤茶色の長い髪を覆う兜。その身の丈とほとんど等しい一振りの大剣。現代日本にはおよそ似つかわしくない西洋風の鎧に身を包んだ『騎士』と呼ぶべき少女は石畳を蹴り出し、地を駆ける。
重量をまるで感じさせない軽やかな足取りで、現れ出た『影』へ向かって果敢に飛び掛かる。
「はあっ!」
勢いに任せて大剣を振り抜くが、影は大きく形を変えてぬらりと逃れる。影の輪郭から漆黒の棘が伸び、次の瞬間には騎士に向けて襲いかかっていた。
脚で避け、剣で弾き、鎧でいなす。一筋の棘が頬を掠めたが、痛みなど意にも介さない。獲物をつけ狙う豹のようにただ歩み、進み続ける。作戦など微塵もない愚直で率直で、実直な行動だった。
――一閃。
手応えあり。振り抜いた刃は影の胴体を両断し、地に倒れ臥す。実体のない影をこうして斬れることが未だに不思議でたまらないが、ともかく騎士の刃は影の巨躯を的確に貫いていた。
影がもがく度に切り口から黒霧が吹き出し、虚空へと溶けてゆく。金属を擦り合わせたような、耳を
間に割って入るように現れたのは、シスターの修道服に身を包んだもう一人の少女だった。
「あとは私にお任せを」
すらりと高い背筋をぴんと張り、肩まで伸ばした薄水色の髪を掻き上げる。それは『聖女』と呼ぶに相応しい凛とした立ち振る舞いだった。
手に持っていた硝子製の小瓶の中の液体を振り掛けると、影は悲鳴を上げて身体は水泡を立たせ、溶けて混ざり合う。聖女は小さな声で呪文を呟き、瓶の口をそっと影に触れさせる。たちまちに影は瓶の中に吸い込まれ、跡形もなく消えてしまった。
その様子を見て騎士は大きく息を吐き出す。今週も無事、何事もなく退治できたという安堵の息だ。
「騎士様、お顔を」
すぐ傍にいた聖女がそう述べる。そういえば頬を切ったのだった。その言葉に従い、騎士は自ら兜を外して顔を上げた。
聖女は別の小瓶を取り出し、中の液体に薬指を浸す。騎士の顎を持ち上げてその指で傷口をなぞると、魔法のようにたちまちに癒えていった。騎士は己の頬に触れる。痛みはなく、まるで初めから怪我など負わなかったも同然だった。
「ありがとう。生傷が残っていては家族に心配をかけるから」
「御礼には及びません。今宵もお手柄でしたよ」
聖女は影を閉じ込めた小瓶をちらつかせる。瓶の中にはビー玉のように凝縮された真っ黒な影が漂っていた。
「それ、閉じ込めてどうするの?」
「家で飼うんです」
至って真面目な口調で聖女はそう答えた。
「ええ、冗談だよね……?」
「勿論冗談ですよ、ええ」
聖女はにっこりと笑う。騎士は膝に手を置いて大きく息を吐き出した。今度は呆れのため息だ。聖女は時折こうして嘘か誠か分かりづらい冗句を言うものだから、生真面目な騎士はすっかり翻弄されるのだった。
寒さで凝り固まった身体を伸ばす。今日はもう帰ってしっかり休むとしよう――そう考えた矢先のことだ。
「そこの二人、こんな時間に何をしてるんですか!」
大きな声のする方を返り見れば大社の入口、鳥居の方に一人の女性が立っていることに気が付いた。上から下まで紺の制服に身を包んだ、国の治安を守る正義の味方だ。
「ああ、厄介なことに……」
「私が何とかしますから、警戒されないようにその得物だけでも隠してくださいね」
聖女はともかく、騎士の格好はあまりにも現代社会には相応しくない。騎士は近くの灯篭の陰に大剣を立て掛け、柄に脱いだ兜を被せておいた。
訝しげな視線を向けながらも婦警は慎重に近寄ってくる。
「貴方たち
「私たちは映画同好会の者です。夜間撮影のためにこうしてコスチュームを着ているのです」
聖女は涼しい顔でさらりと嘘を吐いた。しかし夜間外出やこの格好の言い訳としては尤もだろう。だが機材もカメラもない恐ろしく苦しい言い訳だったので、婦警からも疑いの眼差しが消えていない。
「ともかく署まで同行してもらいます。さぁ」
そう促そうとしたところ、聖女はパンと手を鳴らした。婦警は目を丸くする。
「でしたら、警察手帳を見せていただけませんか? 一度本物を見てみたかったのです!」
無邪気にはしゃぐ聖女の姿を見て婦警はため息を吐き、警察手帳を取り出して開示してみせた。
聖女は興味津々にまじまじと眺めると、やがて満足したように微笑んだ。
「ありがとうございます。ところでお巡りさん……いえ、
「何って……」
「今晩、この稜神大社へ近づくことは御法度ですよ。幼い頃にそう教わりませんでしたか?」
聖女は婦警の目の前で指をくるくると回す。
聖女の目配せを合図に、騎士は婦警の背後に回り込んで両腕をホールドする。たった一瞬、隙を突ければそれでいい。
「何を――」
聖女は首に下げていた
「ほんと便利だね、それ……」
「私の家系に代々伝わる秘術です。職務に忠実だっただけのお巡りさんには申し訳ありませんが、直近の記憶を消しました。あと十数分は目覚めないでしょう」
この記憶消去に助けられたのは一度や二度のことではない。こうしてパトロール中の警察官や酔っ払ったサラリーマンがふらりと稜神大社を訪れて目撃されたことだってあるのだ。
「風習として土曜日の深夜に大社を訪れてはいけないと土着しているはずなのに、何故こうも守らない人がおられるのでしょう。いずれ神罰が下ってしまいますよ」
聖女は不機嫌そうに頬を膨らませてそう述べる。
「常々疑問だったんだけど、なんで土曜日の夜なの?」
「闇が最も深くなる頃だからです。一週間は日曜日から始まって土曜日に終わる、つまり日曜日が日の出だとすれば土曜日は最も深い時間帯になりますでしょう? その頃になると影の活動が活発になるのです」
理屈は分かるような、分からないような。少なくとも翌日は日曜日なので、学業に支障がないことだけは助かっている。
「太古の昔から稜神の地は『あの世に最も近い土地』なんて言われてきました。騎士様もご存知でしょうが、数百年前、戦国の時代にこの地で大きな戦がありました。多くの血が流れ、そして多くの人々が亡くなりました。肉体を失った幾多の魂が現世から冥界へ向かおうと詰め掛け、押し寄せ、その結果――」
聖女は両手で輪を作り、騎士の眼前に突き出した。
「ぽっかりと、穴が開いてしまったのです」
あの世とこの世の繋がる穴――。概念的なものではなく、物理的なものとしてこの稜神大社に存在しているのだ。
本殿の最奥の間に、その封印が成されているのを騎士は一度だけ見せてもらったことがある。大きな丸い岩に無数の縄が巻かれ、その上に呪符が貼りつけられており、異様に不気味な印象があった。大昔の陰陽師が封印を施したものらしい。大岩の真下にはあの世が存在しているという事になるのだから、現実味がなく俄かには信じがたい。だが。
「私の家系は代々、稜神の地との契約で
影の退治に傷の治癒、そして記憶消去――聖女の操る超常的な現象をその目で見てきただけに、ただの伝承とて否応にも信じざるを得ない。
聖女は伸びをして、豊かな自然を噛み締めるように大きく息を吸い込む。
「これは生まれた時からの使命です。それに私は稜神という地がとても好きなんです。自然が美しく、人も暖かい。この街を守れるなんて光栄なことです」
「それには同意。私もこの街や人がすごく好きなんだ」
生まれてからずっと育ってきた街だ。思い出の情景はいつだって稜神と共にあった。山間部の高台にある小さな街なので大都市ほど栄えている訳ではないし、巷の流行がやってくるのも随分遅い。特に交通の便がとても悪いのだが、それでもこの場所が愛おしい気持ちに変わりはなかった。
同じ事を考えていたのか、視線が聖女とぶつかってくすくすと笑い合う。
その時だった。
「あんたら、面白い事してるね」
突然の声に驚き、速やかに立ち上がって辺りを見回すが誰の姿も見当たらない。
兜を被り直して剣を低く構え、呼吸を落ち着けて臨戦態勢を整える。一晩に二度もアクシデントが起きるなんて今までにないことだった。
「今度は一体なに……!?」
「騎士様」
自分を呼ぶ声に振り返ってみると、聖女は何やら上のほうへ視線が釘付けになっていた。
その方向に目を向けてみると、大社の屋根に一人の少女が飄々として立っていた。
厚手のコートとマフラーを羽織り、対極に下はやけに短いスカートが風に
「貴方は何者でしょうか? この稜神大社にどういった御用で?」
聖女は怖気づくこともなく淡々と述べる。
「さぁ? もしかしたら『神社で騒いでる人がいる』っていう通報があったと知って冷やかしに来たのかもね」
他人事のようにそう言って少女は手に持っていたスマホをちらつかせる。さっき婦警が現れたのは単なる偶然ではなく、彼女の差し金らしかった。
見られたからには婦警と同じように記憶を消去しなければ――だがその為には触れられる距離まで近寄らねばならない。
「下に降りてきたらどう? 貴方の目的は知らないけど、そんなんじゃ対等な話し合いなんてできっこない」
一か八か騎士がそう呼び掛けると、少女は思いの外あっさりと屋根から飛び降りて軽やかに着地してみせた。
「随分とあっさり応じてくれるんだね。貴方の目的は何?」
「ワタシはただ夜の街を楽しんでいるだけさ。あんたらもそうだろう?」
少女はニヤリと口角を上げる。こちらは決して遊んでいる訳ではないが、彼女の胡乱さにはそう答える気力も起きさせない。
聖女が一歩前に出る。得体の知れない相手に近づいて平気かと心配したが、聖女は後ろ手で人差し指を立ててこちらにハンドサインを送っていた。自分が彼女の気を引くので、後ろに回り込んでくれという指示だ。聖女が話を切り出す。
「貴方は楽しいことがしたいのですか?」
「そうだね」
「それで、私たちのやっている活動が楽しそうだと?」
「ワタシにはそう見えたよ」
「私たちは映画同好会です。お気に召したのでしたらクルーに参加いただいても構いませんよ」
「あの黒い巨体が撮影用だと言うなら大したクオリティだ。ぜひスーツアクターにも会わせて頂きたいものだね」
「……はぁ、そこまで見られていたのですか。それでしたら――」
聖女はちらりと目配せし、少女に向かって駆け出した。それと同時に背後から騎士が飛び掛かる。激しくぶつかり合い、逃げられないよう強く身体にしがみついた。
「ったぁ……」
目の前に馬乗りで押し倒されていたのは少女ではなかった。騎士の兜に頭をぶつけたらしく、額を赤くした聖女だった。
すぐさま顔を上げて少女を探すと、上から声が降ってきた。
「全く危ないな、ハグならもっと優しくしてやりなよ」
見れば鳥居の上に少女が佇んでいた。一蹴りであそこまで跳躍したというのか、恐るべき身体能力だ。
困惑する騎士を見て満足げな表情を見せ、彼女は木々の中へ飛び退いた。
「今日は楽しかったよ。じゃ、またね」
「待って――!」
制止の声は虚しく空を切り、少女の姿は見えなくなる。
彼女は一体何者だったのか――それを考えようとしたが、自分の下で伸びている聖女の呻き声で我に返るのだった。
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