浮気調査員アリアは今日も気だるげにニュースを読む。

野々村鴉蚣

プラスチックの網

 ニューヨークの夏は、朝からすでに湿っている。

 アパートの窓を開け放つと、街路樹の間から蒸気のような空気が入り込み、薄暗い部屋の中を満たす。外では、どこからか聞こえるクラクションと、近所のデリのドアベルの音。わたしは、それを背中で聞きながら、網の手入れを続ける。


 昨夜の湿気をたっぷり含んだ糸は、指先で軽く弾くだけで低い音を返してくる。いい張り具合だ。絡まった部分をほぐし、欠けた目を補修していく。これが、わたしの朝の儀式だ。


 網にかかっていたのは、依頼人の夫の昨夜の姿だった。

 カメラ越しに見ても、あからさまな行動。女と腕を組み、ホテルのロビーに入っていく。背中に浮かぶ汗の跡までくっきり映っている。証拠としては十分すぎる。依頼主である奥さんは、泣くだろうか。笑うだろうか。人間の反応は、いつまで経っても予測できない。


 仕事の報告書を送信すると、ようやく一息つける時間だ。

 キッチンの片隅に置いた古いコーヒーメーカーから、焦げたような匂いの立つ黒い液体をカップに注ぎ、ノートPCを開く。今日のニュースをざっと拾い読みするのは、わたしのもう一つの日課だった。


 見出しが目に飛び込む。

 ――「グローバル・プラスチック条約、ジュネーブで最終交渉」。


 指先が止まる。

 記事によれば、この条約は単なる廃棄物処理ではない。プラスチックの設計から製造、使用、廃棄まで、ライフサイクル全体を縛る国際的な法的枠組みを作ろうとしているらしい。厳しい制限を求める国や団体と、それを嫌がる産油国や企業とが、今まさに対立を深めているという。もちろん、わたしの住むアメリカも後者にいる。


 ああ、やっぱりか。

 この国は便利な暮らしを愛し、その便利さを守るためには何でも犠牲にする。先進国の顔をしながら、環境問題では後ろを向く。中国が再生可能エネルギーで世界をリードしはじめたのに、アメリカはまだガソリン臭い燃料とプラスチックに縋っている。


 窓の外を見れば、街角のゴミ箱には山のようなカップとレジ袋が突き刺さり、風に煽られて歩道に転がっていく。わたしはその様子を、獲物のもがきと同じように見てしまう。どちらも、網からは逃げられない。


 ――けれど、この網は、誰が片付けるのだろう。


 記事は続く。プラスチック生産は1950年から200倍に増え、適切な対策がなければ2040年にはさらに倍増する見込み。マイクロプラスチックは既に人間の体内に入り、食物連鎖を汚染している。飲み水にも混じっているらしい。


 そう思うと、少しだけおぞましい気持ちになる。

 私たち蜘蛛にとって、体に入り込む異物は致命的だ。網を伝ってくる小さな振動ひとつで、健康も生死も左右される。人間も同じはずなのに、自分から毒を飲み込んでいるように見える。


 ――昔は、もっと単純だった。


 不意に、かつての仕事を思い出す。迷宮の奥で、網を張り、探索者たちが迷わぬよう導く日々。暗闇の中で光る目と目を合わせ、差し伸べた糸で彼らを引き上げる。あの頃は救うことに意味があった。けれど今は、助けたところで彼らはまた別の罠に落ちる。都市という迷宮の罠は、終わりがない。


 午後の浮気調査に出かけると、依頼人の夫はまた別の女とカフェにいた。

 テーブルの上には、プラスチックのストローと透明なカップ。中の氷が溶け、水面に小さな泡を浮かべている。あの泡も、やがて砕けて見えなくなり、誰かの体の中へ入っていくのだろう。はたして、その泡に一体どれだけのプラスチックが混ざっているのやら。


 ふふふ、と私は一人で笑う。何がおかしいのか自分でも分からない。個包装されたジェリービーンズをぶちまけて、地面に落ちたマスカット味を拾って食べる。これもプラスチックで守られていたものだ。

 今の時代、プラスチックから逃げることはできない。私たち一市民には、何の権限も無いのだから。


 夜、網の張り直しを終え、再びニュースサイトを開く。ジュネーブの会議はまだ続いている。人間たちは、ほんの少しでも意地を見せられるだろうか。


 もしそうなら、この都市も、もう少しは張り甲斐のある網になるかもしれない。

 そうでなければ――わたしはプラスチックの山の上に網を張り、最後の虫を待つことになるだろう。

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