第2話 無機質な瞳

 次の日。気だるくなるくらいの快晴だった。

 セミがあわただしく鳴き、もくもくと入道雲が膨らんでいる。


 暑さで目が覚めた私は、寝ぼけながら朝食をすませ事務ピチへと行く準備をする。


「あたしも連れて行きなさい」


 私しかいない部屋で声がきこえ、腰を抜かしそうになった。


 ベッドには、腕を組むテディベアがあった。

 ポーズは不機嫌そうなのに、顔はやはり微笑んでいるような、愛らしい顔で表情がなく、少し可笑しい。


 ……やはり昨日テディベアのダイアナが動いて喋ったのは、幻覚でも幻聴でもなんでもなかったらしい。


「えー。やだよ。そんなでかいぬいぐるみ連れてたら、邪魔でしょうがない。人の目もあるし」


 困惑しているのに普通に会話のキャッチボールをする自分が怖い。


 するとダイアナは、ちっと舌打ちした。


「あんた、昔はあたしを外に連れていくって言って、父親や母親を困らせてたじゃない」

「……なんで知ってるの」

「あたしを誰だと思っているの? あんたが生まれたときからこの家にいるわよ。あんたの黒歴史、みーんなあたしが掌握してるわ」


 得意げに首に巻かれたリボンが垂れ下がる胸? を張るダイアナ。ダイアナは元々なのか、巻いてあるリボンの形が少しいびつだ。


 それはともかく、物凄くやりづらい。


 ……起きたばっかりなのに、疲れちゃったよ……。


「と、に、か、く! 準備ができたなら行くわよ。トロい虹夏はまだかしら? じゃ、先行ってるわね」


 ダイアナは短い足で、ベッドからのそのそと下りたかと思うと自分の身長より高い位置にあるドアノブに掴みかかった。


「待て待て待て! 他の人に見つかったら大ごとだよ!」


 私は、意気揚々と部屋を出ようとするダイアナの首根っこをひっつかんで、その勢いのままベッドに投げ飛ばした。


「何すんのよ、人間の分際で!」


 喚くダイアナに、私は頭を抱えた。


「分かった……連れてくから、お願い、静かにして……」



◇◇



 事務ピチの自動ドアをくぐると、冷房の風が体に当たる。


 炎天下の中自転車を飛ばしてかいた汗が、乾くと同時に体の体温を下げてくれる。

 快適だ。


 だが一つ、私は爆発物を抱えている。


「虹夏。早くここから出しなさい。あんたの部屋にいすぎて飽きたのよ。外の世界を見せなさい」


 私の右肩には、小学生のときの学期末に配られる作品バッグがかかっている。

 中身はもちろん、ダイアナだ。


 ダイアナはぬいぐるみにしては結構でかい。私が普段持ち歩くバッグに忍ばせてこっそり……ということができなかったため、悩んだ末にこんな形になった。

 通路で人とすれ違えないくらいに膨らんだ大きなバッグを持っている私は、目立ってしょうがない。


 でも、うろうろ歩くぬいぐるみを野放しにしたら周りがパニックになるし、これが最善策だった。


 ちらちらと周りの視線を気にしながら、私はシャープペンの芯の売り場へ急いだ。


「へえ、もう一人で買い物できるようになったのね」

 できるだけ喋らないように、顔を下にしてバッグに入れているのに、ダイアナは懲りずに話しかけてくる。


「ええ。いくつだと思ってんの」

「だって、あんたが三歳くらいのとき、家族でここに来てこーんなに狭い店内で、迷子になったじゃない。あたしを握りしめて鼻水付けて。おかあさーんおとうさーんって。良かれと思って声をかけてくれた店員さん突き飛ばして。気が強いのは昔から変わってないのね。気が強い、じゃなくて性格が悪い、の言い間違いかしら? 現に友達いないんだし」


 何の恨みなのか、バッグに顔をねじ伏せられた恨みなのか、ダイアナの口からぺらぺらと語られる黒歴史と悪口に、拳がわなわなと震えだす。


「あのねえ、余計なこと言わないでくれる? それになんでそんなに攻撃的なの? 私がそんなに嫌い?」

「好きも嫌いもないわ」


 よくわからなくて、私はすっかり勢いをなくす。


 流石に可哀想だろうか。私はダイアナの体をうつ伏せから仰向けに変えてあげた。 

 ダイアナは、感情のこもらないボタンの目で見つめてくる。それが妙に圧を与えてきて、目を逸らしたいのに逸らせない吸引力がある。


「はあ……まあ、いいや」


 力なくつぶやき、買い物を続ける。


 シャープペンの替え芯、テープのり、母親に頼まれたマスキングテープなどをかごに入れる。

 

 会計を済ませて外に出ると、強い日差しが肌を刺した。


 私は、作品バッグの中に目を落とす。無機質な目と目が合った。



 ダイアナは、この暑さも感じないのだろう。


 暑い、寒い、空腹。

 人間ならば誰もが経験する、別れや変化。


 全て、感じない。


 ぬいぐるみならば当たり前のことだが、それが、少し羨ましかった。



◇◇



 家に帰ると、母がどこかへ出かけるのか、バッグに荷物を詰めている最中だった。


「ああ、虹夏。おかえり」

「どうしたの?」

「明日、お義母さんの……おばあちゃんのお見舞いに行ってくるね」

「一緒に行こうか?」

 

 祖母が入院している病院は、祖父母の家がある近くの病院だ。ここから車で片道三時間はかかる。

 普段は単身赴任中の父が世話をしているが、ついて行った方がいいかもしれない。

 私がそう申し出るけど、母は首を横に振る。


「うーん。いいよ、虹夏は休んでなさい」


 歯切れ悪くそう言う母。十七年もこの人の娘をしているから分かる。

 何か都合の悪いことでもあるのだろう。それが分かってしまうから、余計に気になる。


「お母さんどうしたの? 何か変だよ」


 すると母は諦めたようにため息をついた。


「虹夏に言うのはもう少し後にしようと思ってたんだけど……ショックを受けるだろうから。実は、おばあちゃんね――」

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