第9話
「――燎、起きて」
燎がぼんやりと目を開けると、彩羽の顔が見えた。同時に、今までのことが脳裏を駆け巡る。
吐き気が襲い、身体を起こすと床にビチャビチャと吐瀉物を落とした。
「ちょっと、大丈夫?」
周りの音がやけに遠い。人がいるのは分かる。しかし、触れられている背中が、彩羽の手が怖くてたまらない。
なにがどうなっているのか。必死に頭を回転させる。
生きている。その実感が燎にはあった。
顔を上げると時計が見えた。時刻は朝を指している。
朝、起きた時間に戻っている。
「燎? 燎っ?」
間近で呼ばれ、ハッとする。いつもの彼女。燎が知っている優しい彼女が真剣な表情で燎を見ている。
「禁足地で毒でももらった? もしそうなら、ちゃんと言って」
「ご、ごめん。違う。ちょっと気分が悪かっただけだから」
ただ気分が悪いだけで吐きはしないだろう、と分かっていたが、そう言う他になかった。
彼女の目から離れられない。
一体、あれはなんだったのか。白い仮面は、綾華や燎自身が殺された時に見たものとまったく同じだった。
ふと気になりキョロキョロと辺りを見回すが、風馬と鈴の姿は見えない。
「風馬と鈴ちゃんなら、先に食堂に行ったよ。気分が悪いなら、今日一日休む? それとも食事だけする?」
「いや、大丈夫。本当にちょっと気分が悪かっただけだから……」
「そう?」
一人でベッドメイキングをし始めると、彩羽が「本当に具合が悪かったらお姉ちゃんにちゃんと言うんだよ」と言って、部屋からいなくなった。
何も考えないようにしてベッドメイキングを済ませた頃には、部屋に誰もいなくなっていた。
朝食の時間に間に合うように、急いで食堂に向かう。
席に着くと鈴と風馬が心配してくれるが、燎はあいまいな返事しかできなかった。
周囲は前回と同じく進んでいく。
「精霊に祝福と感謝を」
反射的にいつものように白い液体の入ったグラスを手にし、燎は動揺した。全員が一斉に飲み始める。燎も少しだけ遅れて咄嗟に飲むふりをする。
死ぬ前にあの狭い部屋で飲んだ白い液体。今、目の前にあるものはまったく同じものに見える。とてもではないが飲める気がしない。
そもそもこれは一体なんなのだろう。今まで気にしたことも無かった。それ自体もおかしいと言えばおかしい。
ぐるぐると目まぐるしい頭の中を落ち着かせながらなるべく平静を装って、食事を進める。だが、何気なく料理から目を離して見回すと、彩羽が心配気にこちらを見ていた。
それが燎には本当に心配して見ているのか、監視しているのか分からなかった。燎の目には、もう以前の優しい彼女は映っていなかったのだ。
視線を痛い程感じながら、これからのことを考える。
この後、前回と同じであれば、十神施設長から呼び出しがかかる。しかし、一番最初の時はそんな呼び出しはかからなかったはずなのだ。
原因があるとすればこの食事の時間――ここで彼女の目についてしまったのだろう。
最初と呼び出しがかかった時で何が違うのか。強いて言うならば考え事をしていたか、そうでないかしか思いつかない。
なるべくいつものように食事をする、それしか方法はない。だが、すでに目を付けられているかもしれない。
起きる時にあれだけ目立ってしまったのだ、それも彩羽の目の前で。その時点でもうダメかもしれない。
食事の時間が終わる。平静を装い食堂を出ようとした。しかし、
「五十嵐燎くん、施設長がお呼びです」
いっそ冷酷なまでに職員により声がかかってしまった。
「分かりました。……あの、それって『禁足地』に行った後でも可能ですか?」
そう言葉にした瞬間、職員は目を細め「今すぐ行きなさい。これは命令です」と冷たい言葉が返って来る。
内心で落胆しながらも「……分かりました」と大人しく引き下がった。
前回と同じ道を辿っている。その自覚がありながらも、足は最上階の施設長室に行かざるを得なかった。
無理矢理『禁足地』に行ってもいいが、その後が全く想像がつかない。ならば、ここはどうにかするしかない。
ポーンと軽やかな音ともに、施設長室のエレベーターの扉が開く。
なにかを読んでいるらしい十神施設長は顔を上げない。恐れを隠しながら平静を装い、彼女の座る机の前――ソファーに向かう。
「いらっしゃい」
前回と同様に優し気な目を向ける十神施設長。
「さあ、そのソファーに座って」
言われるがまま座ると、彼女は自身の机を離れ、目の前にやってくる。前回までと変わらない言動。しかし、ここから先も同じ道を辿る訳にはいかない。
「んふふ、緊張してるわね。なにも取って殺しやしないわ。肩の力を抜いてリラックスして」
「は、はい……」
金色の眼が燎の目を捉える。
この時間を既に経験していることなど分かるはずないのだが、なにもかも見通されている気分になる。
「さて、いくつか聞きたいことがあるのだけれど……」
「なんでしょう?」
声は震えていないか。必要以上に恐れているしまってはいないか。自身の姿を客観的にどうにかして捉えながら聞く。
「そうねえ、悩み事とかある?」
悟らせないように、即答もしない。さも考えているかのような振りをし、時間を使ってゆっくり答えた。
「……ありません。今は風馬や鈴と『狩り』をするのに精一杯なので。強いて言えば、それが大変なことくらいでしょうか」
「そう……」
じっと金の眼が見つめる。燎も彼女を見つめ返す。
下手な回答はしていない。今の答え方にどこにも怪しい点はない。
「私の気のせいかしらね? ……今朝、体調を崩していたと彩羽から聞いたけど、それはどう?」
「確かに気分が優れませんでしたけど、今はもう平気です」
「本当?」
すっと彼女の手が伸び、燎の頬や耳に触れる。
「あなたも私の子供ですからね。体調には気を付けてね。……心当たりはない? 吐くほどですもの。もしなにかの病気なら他の子供たちにうつったら大変だわ」
「俺も考えてみたんですが、心当たりはありませんでした。多分、本当に一時的なものだと思います」
十神施設長の目が眇められ、次の瞬間にはにっこりと笑顔を見せた。
「……大丈夫そうね」
そう言うと、手が離れ、彼女は自身の机に戻る。
「ごめんなさいね、時間を取って。少し時間が過ぎてしまったけど、『狩り』には行くかしら」
「はい、ぜひ行きたいです」
「一人になるけど大丈夫?」
「はい、単独行動の経験はありますので」
「ふふっ、頼もしいわね」
行っていいわよ、と十神施設長がいい、燎は解放された。
エレベーターに乗るなり、深い溜息を吐く。なんとか乗り越えたことに安堵を覚えた。
まだ間に合うだろうか。本来『狩り』に行くはずだった時間からは、そこまで経っていないはずだった。
一人、閑散としたロッカールームで着替え、地下を通り、電車に乗る。
施設長が連絡したのか、護衛は一人のみだった。電車内にも他には誰もいない。
振動に揺られながら、ぼうっと今後のことを考える。
こうして誰もいないなんでもない時間になると、すべてが夢だった気がしてくる。本当はなにもなくて綾華も死ぬことはない。彼女に会う事など二度となかったのではないかと。
だが、同時に夢にしてはあまりに生々しい記憶が頭の中に残っている。身体に異常はなくとも、どこかで不意に痛みを覚えそうになる。
なぜ、ここまでして綾華を助けたいのか燎自身もよくわかっていなかった。ただ、死んで欲しくなかった。
死亡、という事実が生まれるのが嫌でたまらない。その一心で動き続けている。
どうやったら助けられるのか。
燎自身が会っても会わなくても綾華は襲われる運命。ならば対抗するしかない。しかも、相手は彩羽の可能性が高い。直接の戦闘は一回しかしておらず、直接顔も見ていない。
だが前回のあの仮面や言動は疑うには十分だ。理由を知りたいが、それこそ直接聞くくらいしか思いつかない。
「なんでなんだろ……」
ぽつりと漏れた言葉は振動音に掻き消される。
彩羽だとしたら、あの霧や毒に納得がいった。彼女の羽は少々特殊で、他者の羽を喰らうことで自身の能力に出来る。素の状態では極彩色の羽なのだが、他人の羽を体内に取り込むと、その者の羽になる。
ただし、オリジナルには勝てず、あくまでコピー品にすぎない。だから、あの霧などは誰かのコピーなのだが、施設内にそんなことを出来る人間を知らない。
オリジナルが分からなければ、他にどんな力があるのかわかったものではなかった。
燎は彩羽を殺したくはなかった。しかし、状況が許してくれるとは限らない。
空から彼女が降って来て、綾華のアシストをしながら最悪の場合仕留める。油断や隙を見せればきっと自分自身が殺されるだろう、と燎は思った。
とにかく綾華と彩羽が衝突する前に、綾華に会わなければならない。話をしなければ、燎自身が敵だと思われてしまう。
現に以前、かなり疑われていた。そもそも『禁足地』に燎たちがいるのがいけないのだから、しょうがない。
どうやって説得するのか。回りくどい方法は余計に怪しさを増すだけだろう。ならば、直接的にいう他になかった。
力で言うならば綾華の方が上だ。言葉で説得する他に道はない。
揺れに身を任せながら、燎は一つ一つ綾華を説得する言葉を考えていった。
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