第28話 一心二葉③
何かの瞬間に、目の前の景色に掛かる色合いががらりと変わってしまう、ということはないだろうか。
多くの場合は日没等によって、明度が変わる瞬間に思うことだろう。
今この瞬間、龍円が感じていたことこそが、正にこの『見える世界が変わる』とはこういうことか、というものだった。
言語化すれば冷静そのものの感想かも知れない。だが実際のところは、その丸のままを受け止めることが非常に難しく、ただ通り一辺倒の感想をまとめることしかできなかったというのが真相だ。
これまで当たり前のように寝起きし暮らしてきた我が家。それがこの鹿鈴寺だ。
そんな場所で、こんなにも
いや、これは心が麻痺してしまっているのだろう。こんなこと、真っ当に感じ、真っ当に理解していたら頭がおかしくなってしまう。
村岡はパイプ椅子の上で脚を組んだ。口元を手で覆い、険しい顔で熟考する。
「――竜円はりんのされこうべを連れて、各地の茶所を巡っている。そして、どうやら彼等の怨嗟は土に染みて残ることになったらしい。更に、その茶所の黒土が甲子園に持ち込まれることで、それを持ち帰った球児達の下に、二人が姿を現すようになったと」
そこまで言って、村岡は顔を上げた。
「――これ、わざとやりましたね?」
「えっ」
村岡の言葉に龍円ははっと顔を上げた。
善円は、小さく溜息を吐くと「やはり、こういう話には聡いな、貴女は」と、再びざらりと頭を撫で上げた。
「これは公にはなっとらん話です。二人があまりに各地で目撃されるのと、これを見た者の中で気を狂わせる者が多く出た」
「その辺りは『甲子園の魔物』と同じわけですか」
「何とかせねばと数多の高僧の方々に助けを請うた結果、二人の怨嗟が土に
「なるほど……時代が移り変わることによって、なぜ土を余所に持ち出すのかという理由が継承されず曖昧になり、『土は外にやるもの』という行動だけが残ったと。そうして戦後、そのうちの一部が甲子園へ運ばれることになった。結果的に、球児達がこの黒土を各地の地元へ持ち帰ることによって、怨嗟の分散が始まってしまったと」
「これは私共がうかつでした。あれは、分散すれば薄まるようなものではなかった。それどころか、逆に増加し続けるものだったせいで、各地に怨嗟が広まってしまっている」
善円は、プリントを村岡に「ありがとうございます」と返した。受けとった村岡は、それをカバンに仕舞いこむと、苦々し気に床を睨んだ。
「伝承が半ばで途切れているから、土を外に持ち出すという行為だけが残った。そして最初から事情を知らない高野連が、コロナ禍を理由に砂の持ち帰りを禁止したことによって、甲子園の中で数年分溜まったものを、斉藤空也さんが一手に引き受けることになってしまった」
「――そしてそれに息子が繋げられている……」
善円は額に手をやり重い溜息を吐いた。
「因果というものは、こうまで見事に回るもんなんですかねぇ」
村岡は「住職」と善円に呼びかけた。
「幸い、五月一日までにはまだ少し時間があります。そこまでに、打てる手を打ちましょう」
「お力を、お力添えをいただけると?」
「そのために来ました」
はっきりとした口調で言い切る村岡に、不覚にも龍円は泣きそうになった。
「先輩、すんません……父が、あんな失礼な態度をとったのに……」
村岡は、ひくりと口元を引きつらせた。
「いや、鈴木、くん。それをお父さんの前で言われるとだな、私も返答がし辛いんだが」
「あ」
鼻水をすすった龍円の前で、父も居たたまれない苦笑を浮かべる。
「まあ正直な話、私はどこに行っても嫌われるからな」
「そんな……!」
「というか、事情を知った上で敷地内に入ることを許可して下さる方が珍しいんだ。だからそこは構わないんだが――」
村岡は難しい顔をすると、また顎を撫でさすった。
「さて、ここから始まった竜円とりんの怪異は、全国各地を巡ることで怨嗟を土に撒いて回った。そして各地で増殖した結果、巡り巡って甲子園に土が入った。これを持ち帰った球児達の一部が彼等を目撃し、その結果、異常を来したり、死に至らしめられたりしていると」
「そういうことになるようですな」
「ですが、それも全部が全部というわけではない。目撃が発生したのは、恐らく元々彼等が目撃されていた地で、結局元々の土地に因果があったればこそ、再びそこに帰還したというのが正しい流れだったのでしょう。だから、私達が最初にイメージしていた、甲子園から砂と共に怪異が運ばれてきて、それが無限に供給されているか、もしくはいつの間にか怪異は甲子園に戻っているのかもという印象とは真逆だったわけだ」
村岡の目は仏像のような半眼になり、脚を組んでじっとしたその姿勢は、さながら半跏像のようにも見える。
長い髪をハンカチでまとめ上げたままだから、余計にそう見えるという部分もあった。
「山地でばかり目撃される理由はわかった。だが、それでも甲子園の砂を持ち帰った全員が竜円達を目撃しているわけでもなければ、見た者全員が同じ症状を来しているわけでもない。まだ何か見えていないロジックがある。明確に他とを分けているトリガーが――それはなんだ?」
と、その瞬間だった。
堂内で振動音が響いた。ハッとして龍円は自身のズボンのポケットを探る。自分のスマホに着信があったのだ。
画面に表示されていた名前を見て、思わず眉間に皺を寄せた。海青高校に進学した、同年の友人からの通話着信だったのだ。
「ごめん、ちょっと出てきます」
「ああ」
龍円は通話ボタンを押し、出口に向かいながら通話ボタンを押して耳に当てた。
「はい、もしもし?」
小首を傾げ、こちらへ背中を向けている龍円が出てゆくところを、村岡と善円が何ということもなく視線で見送っていると、ぴたりとその歩みが止まった。
「――嘘やろ?」
とても小さなもじゃもじゃとした人の声が、龍円のスマホの向こうからこちらへ留められている。
「うん、うん。――いや、それ、いや……でも」
傾いでいた龍円の小首が真っ直ぐに伸ばされる。
「……オレは知らん。うん。うん。わかった。なんかあったらすぐ報せるわ。電話のほうでええな? うん。それじゃ……」
耳から離されたスマホが、うなだれた龍円の手元で切られる。
「――鈴木?」
村岡が呼びかけると、全身が氷漬けにされたようになった龍円が、表情を軋ませながら振り向いた。
「どうした、龍円」
「空也が……」
「斉藤君がどうかしたのか」
「空也が――おらんなったって」
「――は?」
龍円の頭の中で、友人から投げられた言葉がぐるぐるとめぐっている。
『お前、ずっと一緒にやってただろ? 最近も会いに来てたらしいやないか。なあ、お前、斉藤がどこ行ったか知らんか?』
「空也が――空也がおばさんを、お母さんを、殺して逃げたって」
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