第27話 一心二葉②


 人の世は変われど山河は変わらぬとの言説があるが、実際のところ、河川の方は動くものである。

 流れに削られ、あるいは細り、曲がりくねり淵を作って、やがては千切れて池ともなる。

 どしりと構えて動かないのは空と海と山ばかり。その山が見下ろし変遷を見守った土地は、土木技術の発達によって、すっかり地形すら変わってしまった。

 そんな今の様子となる以前。まだ人が自然の猛威の前では、儚く塵の如くであった江戸中期の頃。

 竜円という名のわらしがいた。

 早くに父母と死に別れ、祖母と二人で暮らしていた竜円は、村に不作が続いて貯えの底が見えてきたところで、祖母と向き合い話し合いをして寺へゆくことを決めた。

 数えで七つの時である。

 門を叩いて髪を落とし、小僧となった竜円だったが、その後を追うようにして寺の下働きに入った子が一人あった。

 それが、りんであった。

 りんは、とにかく大人しい子であった。口数が少ないというよりも、ほとんど言葉を話すことがなかった。

 元々が竜円と幼なじみであり、何かにつけて、りんは竜円の後を付いて回った。そちらにばかり現を抜かして、下働きの用を放っておいてしまうことも多く、上の者から折檻を受けてもなお、りんは竜円の尻について回った。

 歳月が過ぎて村の状況も落ち着いたころ、成長した二人はすっかり見違えるようになっていた。

 竜円は寺の後継と目されるほどの立派な若僧となった。

 りんは優れて見目麗しく成長し、また気立てもよく、村の人々をよく助けた。春ともなれば茶畑にその姿を現し、茜襷をかけて新芽を摘む姿を見せた。

 人並み外れて白い肌、整った顔形に、どことなく高貴にも見える寺仕込みの所作。

 そういった数々の様子に血迷って、よこしまな目でりんを見つめる若衆は後を絶たなかった。

 当然りんは当惑する。かけられる声や不躾に引き寄せようとする手を、何とかして振りほどく。それでもあまりに追い回されるので、寺の裏手の竹林に逃げ込むことが多かった。

 その竹林の奥に、ひなびたあばら家がある。すぐ傍には井戸もひとつ。

 急いた足で笹の葉を踏み、りんはあばら家へと駆けつける。すると、垣根の裏に姿を隠し、待ち受けていた竜円が笑顔で出迎える。ようよう笑顔を浮かべたりんが、竜円のかいなに飛び込んでゆく。

 二人、近くどこかへ逃げて暮らそうと、密かに約束を交わしていた。

 りんに対して悪事を働こうとする者は、村に限らず寺の中にもあったのである。

 二人が寺へ来て十年。十七と十六になっていた。

 その年の早春、竜円は住職から使いを任された。京の総本山へ文を届けるようにとのことであった。

 最後の務めを果たしてくると、竜円はりんに言い置いて京へ向かった。

 見送る間際、りんは竜円へこう言葉をかけたという。



「『霜が終わるころ、どうぞ迎えにいらっしてください』――それが、りんが竜円と交わした最期の言葉やったと言われとる」

 善円の言葉に、村岡は眉根を険しくする。

「どうして、八十八夜に?」

 村岡の問いに、父の答えは明白だった。

「茶摘みで忙しいころならば、皆の隙をついて逃げられるだろうからと。それが理由だったそうだ」



 京へ使いに出た竜円を待っていたりんだったが、事は望ましからぬ方へと転がった。

 寺の僧侶で竜円の兄弟子に、せいえんという者があった。普段は冷静で物腰も柔らかく、どこかの高貴なお家の血を引いているらしいとあって、僧籍にあるにも関わらず、近在の女達が垣根からこれを覗き見ることが多かった。

 どちらかといえば益荒男ますらおぶりのある竜円とは好対照であった。

 竜円が寺を発ってから一月が過ぎたころ。ついに清円が動いた。

 ことある毎にりんを待ち伏せては、耳の中にこう吹き込んだのである。

「竜円は京の寺の娘に見初められて、その寺に入ることになったのだ」と。

 真っ青な顔になったりんに、清円は追い打ちを掛け続けた。

「竜円はもう二度とここへは帰ってこない。お前は竜円に裏切られたのだ」


 りんは――清円の言葉を決して聞き入れまいとした。首を横に振り、目をつむり、必死に必死に耐えようとした。

 だが、言葉というものは毒を持つ。

 いくら聞くまい、信じるまいとしても、一度像を結んだ可能性というものは、りんに限らず全ての人間に、しつこく想像をさせるもの。

 りんの胸中には、京の大きくて立派な寺の、その奥深くで育てられた美しい娘と、その隣に睦まじく寄り添う竜円の姿が、ねっとりと居ついて離れなくなってしまった。

 疑心は毒となり、毒は憎悪を容易く育む。

 清円のさいなむことには、全く手加減、容赦というものがなかった。

 逃げられぬ場所にりんを追いつめては、静かに静かに言葉を注ぎ込み続ける。

「りん、お前も知っているだろう。男のさがというものを。男には立身という本能が染みついている。勝ち上がりたい、遥か高みに登りたい、頂点へ立ち、世の全てを掌握したい。そういった本能がある」

 静かで品の良い、読経に鍛えられた声で、清円はとつとつとりんに言い聞かせる。

 耳を塞いだ指の隙間から、言葉はぬるぬるとりんの身体に沁み込んでくる。

「竜円、あれは真面目な男だ。優れた僧だ。京の大寺の娘に見初められて当然だ。そして御仏への帰依の心や民衆に対する慈悲の心も、とても深い。そういったものが大きな場所で、その器に相応しい立場を得られるのであれば、りん、お前は何故その行く先を、前途を閉ざして良いものと思うのだ? ――お前は、アレと寺を出奔して、アレの一生をつまらないものにしたいというのか?」

 りんは落涙しながら震える。

 清円の言葉の意味がわかるからこそ、竜円のことを思うからこそ、身が引き裂かれるような心地を覚える。

 竜円と共にありたい。ここから逃げて自由に、そして何者にも害されない暮らしを手に入れたい。

 しかし、そう願うことが、即ち竜円という人間の輝かしい未来を奪うことと同義であるのもわかる。赦されざることのように、思う。

 だが、信じたくない。

 他の若く美しい娘に気を移した竜円のことなど。

 輝かしい立場に目が眩んで、これまでの日々を、自分を捨てる竜円など、それが真実などとは考えたくもない。

 しかし考えずにはいられない。

 清円の言葉など、嘘だと思いたいが思えない。

 そして、嘘だと思いたい心こそが、竜円の前途を呪う己の浅ましさのように思えて、りんの心は千々に乱れて――ある日、ぷつりと、


 狂った。


 結局竜円は、八十八夜を過ぎても、寺に戻らなかった。

 その年、りんは床に臥せったまま、茶摘みをすることもできず閉じこもっていた。

 そんなりんの傍で、清円は囁いた。

「諦めろ、りん。これが真実だ。お前はよく耐えた。りん。お前の面倒はこれから私が見てやる。終生変わらずこの寺で、そして私の傍にいればよい。竜円のことは忘れろ。早く忘れるのがいい。さありん」

 手が。

 清円の手が、りんの横たわる布団を剥いだ。



「――それで、父さん。どう、どうなったんや」

 厭な汗が全身に滲む中、龍円が話の先を善円に問う。

 善円は、伏し目がちになりながら、唇を開いて一つ吐息を漏らした。

「翌朝、りんは寺から姿を消していた。竜円の真意を問いに行くと、拙い文字で書き残して。これに怒ったのが当時の住職だ。全ては竜円不在の内に、りんを我が物にしようと企んだ清円の嘘だった」

 村岡が嫌悪の眼差しで「酷いことを」と呟く。

 みしり、と堂の中で何かの軋む音がする。

「住職は平身低頭する清円に、りんを追えと命じた。竜円の京の滞在が伸びたのは、京についてから風邪を拗らせてしまったためで、決して大寺の娘に見初められたからでもなんでもなかった。そして、住職はその報せを受けていたものの、自分がりんに伝えると、清円が住職から請け負っとったんや」

「それで、本当のことがりんには伝わらなかったということですか」

「そうです」

 村岡に対して首肯すると、善円は苦い顔をした。

「本山にこの事が知れれば、寺自身の在り様が問われる大事。必ず京の手前でりんを捕まえて戻って来いと清円は命じられた。――そして、悲劇は起こった」

 しん、と堂内に痛いほどの沈黙が満ちた。

 ふっと、冷たい空気が、龍円の首筋を撫でて通り過ぎた。

「りんはずっと寺に暮らし、外の世を知らない。京へ行くとなれば目指すは東海道というくらいのことしか知らないはずだ。そう判断した清円は、東海道へ向かった。そしてその予測は当たり、東海道の手前でりんに追い付いた。りんは血相を変えて逃げた。もう、身なりも形相も酷いものだったそうだが、清円に追われていると気付いて、必死で逃げた。駆けに駆けて、必死で逃げた足が、向かった先が東海道。その時――あの天下の往来であるというのに、人気が全くないことを、りんは見落とした」

 龍円の隣で、びくりと村岡が跳ねた。ひゅっと息を吸い込む。

「まさか――お茶壺道中に行き会ったんですか」

 善円は、苦い笑みを浮かべた。

「――察しが早いな。そうです」



 必死で清円から逃げていたりんは、自分が東海道を下ってきたお茶壺道中に向かって駆けていることに気付けなかった。

 気付いた時には、もう遅かった。

 お茶壺道中は大名行列と同じものである。決してその進行を妨げてはならない。

 明るく天気のよい日であったという。白刃のぎらりと煌めいて、りんは袈裟切りに切られた。我が身が地面に落ちたあと、りんはようやく自分が行列を妨げたことに気付いた。激痛に伏せたまま、路上の砂を握りしめた。辺りの砂はりんの血で染まり、黒くしっとりと濡れていた。

 いざ止めを刺されんとした時、そこに飛びだした僧形の影があった。それはりんの身体を抱え起こし、脱兎の如く行列の前から駆けて逃げた。

 清円である。

 侍はその後を追った。清円もまた後ろから背中を切られた。幸いにして深手とはならず、何とかその場から逃げおおせた。

 りんと清円は山中に逃げ込んだ。これではもう寺に戻ることもならない。りんは清円の手によって手当てをされたが、正面から左肩に喰らった傷が深く、腱と関節が絶たれて、もう左手の回復は望めまいことが一目瞭然だった。

 いくら逃げてもすぐに追手は追い付くだろう。清円は頭を抱え、疲労から一瞬の眠りに落ちた。そして、目覚めた時にはもう、りんの姿はそこになかった。一瞬の隙に、逃げだしたのである。

 かっと、怒りに清円の全身が燃えた。

 追った。血の跡を辿って追った。

 決して逃さない。りんに逃げられ追手に追いつかれたら自分だけが咎を負うことになる。りんを失いたくない。あれは私のものだ。折角竜円が不在となった好機。あれがいないうちにりんを手に入れ、竜円の居場所を奪い、寺の後継も手に入れられる。そう思ったのに。

 いた。

 りんがいた。

 捕まえた。

 ぶらりと、もう左腕が千切れそうだ。

 そうか。

 これを渡せばいい。

 りんは岩場から滑り落ちて死んだ。腕だけが千切れて残されたことにすればいいと。

 りんの上に跨り、押さえ込み、清円は「仕方ない、こうするしかない」と繰り返した。

 りんは――喚いた。


「私は、兄様のものや。兄様以外の誰にも触れられとうない。厭、厭や、やめて。助けて、やめて厭や切らんといて! 兄様! 助けて兄様!」



 そうして清円は、

 りんの左腕をねじ切るようにして、断った。



 血の泡を吹きながら、血の涙を流しながら、りんは清円へ呪詛を投げた。


「お前、絶対に、死んでも赦さん。六道の何処に堕ちようとも、地獄の果てまで這いずり回ろうとも、必ず見つけて、見つけるたんびに、お前の臓腑を引きずり出してやる」


 それがどこの土であろうとも、

 お前の血と腐肉で埋めつくしてやる。



 清円はりんの腕を持ってその場から走った。そして、近付いてきていた追手の前でこれを掲げ持ち、無礼を働いたものはすでに死んだと赦しを乞うた。

 腕は証として持ち去られ、血まみれとなった清円は、足を引きずるようにしてりんの下へ戻った。

 この時にはもう、清円は狂っていたのかも知れぬ。

 生きているのか死んでいるのかもわからぬような、そんな様子のりんを前に、ああ、連れ帰ってやらねばならぬと、抱え持とうとした。

 重くて、持てなかった。

 それで仕方なく、邪魔になる残りの手足を叩き落とした。

 それでようやく軽くなったので、着物にりんを包んで抱えて寺に戻った。


 寺は騒然とした。

 折悪く、竜円の帰寺と重なった。


 意識の朦朧としたりんの、手足を落とされた姿を見て、竜円は絶叫した。呆然としながらも、事の次第を説明した清円に、竜円は表情を失った。

 ゆらりと立ち上がると、竜円は裏手に回った。そしてまき割り用の斧を手に戻り、清円の頭を割った。

 絶命した清円を一顧だにせず、竜円はりんを抱え上げると、そのまま寺から出奔した。

 その後に伝え聞く足取りによると、竜円はまず宇治へ向かったようである。

 竜円と思しき遊行の僧は、りんを殺したお茶壺道中を怨み、徳川を怨む呪詛を吐いていたという。

 以来、日本各地の茶園で、されこうべを突き刺した茶壺を抱える僧侶の姿が見られるようになった。そのされこうべからは長い黒髪が伸び、僧の歩いた後には血が点々と滴り落ちているのだという。

 この話を受け、竜円とりんの元居た寺は、供養を引き受け、その名を鹿ろくりんと改めた。

 この地を眺むる、変わることなき山から得た名である。


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