3 何この空気、獄中?
◇ ◇ ◇
招かれざる客というのは、この男のことを言うのだろう。
「閣下、どうぞ」
ロシュがおずおずと差し出した紅茶を睨んだ鋭い眼光は、すぐに向かいに座るミオーレへ向けられた。
流行り廃りで使う機会がなくなった椅子や机、花瓶などの豪華なガラクタの山を背にしたアスカディアは、端正な顔立ちを台無しにする酷い仏頂面だ。手狭な執務室へ押し込んだだけの応接セットで窮屈そうにしていて、長身のため膝がローテーブルにぶつかってしまっている。だがそんなの、ミオーレの知ったことではない。
(何しに来たんだ、この男)
アスカディアと違ってまだ余裕のあるスペースで足を組み、こちらも涼やかに睨み返す。
明らかに部屋の主が来るのを待ち構えていた様子で「遅かったな」と言われた時のミオーレときたら。まるで背中を丸めて毛を逆立てた猫のような形相であった。
約束なんてしていないし、いついかなるときも上から目線なのも気に入らない。オメガにしては身長があるミオーレより、アスカディアのほうが頭ひとつ半も大きいので仕方ないことなのだが。
「ここは本当に執務室なのか? 騎士団塔の厩舎のほうがまだましだぞ」
「人手が足りなくて片付けが進まないのです。お気に召さないのならどうぞ厩舎へお帰りください」
「み、ミオーレ様っ……!」
負けず劣らずの喧嘩腰に慌てるロシュから紅茶を受け取った。ほんのりマスカットの香りがする。茶葉の違いも知らなそうな無骨な男に、ロシュが手ずから入れた紅茶はもったいない。
そんなことを思っていたら、ぎこちない手つきでティーカップを顔に近づけたアスカディアがムッと眉をひそめた。何か気に障ることでもあったのかと、ロシュがぎくりと身体を強張らせる。
「閣下、どうかなさいましたか?」
「紅茶にミルクを入れたか?」
「い、いえ、ストレートです。ご入用ですか?」
「いや、いい」
そう言って、口をつけずにソーサーへ戻してしまう。しかも鼻から下を手で隠して何やら考え事をし始めた。
ミルクが入っているかどうかなんて、澄んだ茶葉の色を見れば一目瞭然だろうに。瑞々しいマスカットの香りをミルクと間違うなんて、王国一の剣技と引き替えに鼻が馬鹿になってしまったのか、こいつは。
脳内で散々に罵倒しまくるミオーレは、呆れ果てた様子で話題を切り替える。
「それで、オメガ嫌いの騎士団長殿がわざわざこんな日陰小屋に来るなんて、いったいなんの用です」
「呼ばれたから来た」
「呼んでませんけど」
「お前にじゃない」
素っ気ない態度で必要最低限の言葉を投げ返される。まるで会話にならない。が、事情はだいたいわかった。ミオーレの承諾なしに犬猿の仲である騎士団長をここへ呼びつける人物など、ひとりしか思い浮かばない。
「はぁ……陛下ですか」
「そうでなければ俺がこんなところに来るはずないだろ」
こんなところ、の部分がやけに力強い。狭い部屋にオメガが二人もいるのが不快だとでも言いたげだ。ミオーレはこの通りフェロモンが皆無であるし、番ができたロシュも突発的なヒートが起きる可能性はないというのに。
差別思考で凝り固まった無礼な訪問者に片目をすがめ、ミオーレは背後で居心地が悪そうにそわそわしているロシュへ目配せする。
「ロシュ、今日はもう上がっていい」
「ですが……」
「急ぎの仕事はないだろう? それに、君まで不愉快な思いをする必要はない」
アスカディアへの遠回しな抗議である。ロシュもそれを察して遠慮気味に一礼すると、ミオーレを心配そうに見つめながら退室した。
二人きりになった執務室がしんと静まり返る。狭いのも相まって、まるで監獄のように空気が重い。いったいなんの罰なのだろうかと、ミオーレはぬるくなった紅茶に口付けながら眉を寄せる。
それからしばらくして、扉の外から「ススス、カツン」と特徴的な足音が聞こえた。アスカディアはすぐに気づいて立ち上がり、扉を開けてその人を迎え入れる。こんな地獄絵図を無許可で描いた張本人がようやく現れたのだ。
「やぁやぁ、遅くなってすまない。大臣たちに呼び止められてしまってね。新法案の成立で老後の予定が狂いまくって相当参ってるらしい。指輪を外したのは自分たちなのに、おかしいったらないよね~……――って、何この空気、獄中?」
グラングレイス王国の太陽ことランディル王は、気まぐれな春の風のようにたいへんよく回る口をぽかんとさせて、囚人たちを見やった。
「陛下、陛下」
疲れ切った様子のミオーレが隣へ座るよう、ソファから雑に手招きする。無礼にも見える態度だが、ふたりは幼少期から共に城で過ごした旧知の仲だ。
ミオーレが生まれたアーデルハイト家は、グラングレイス王家と歴史を共にしてきた由緒正しき名家である。宰相だった父に連れられ、三つ年上のランディルの遊び相手として、よく登城していた。ランディルに言わせれば幼馴染だ。だからミオーレの雑な態度に機嫌を損ねた様子もない。
ランディルは多くの民に愛される柔和な笑みを浮かべ、幼馴染に手招きされるまま近づいた。
ススス、カツン――。
これは不自由な右足を引きずり、身体を支えるための杖を突く音だ。だから彼が近づくとすぐわかる。ミオーレは慣れた様子で左手を引き寄せ、ランディルが座るのを補助した。
「陛下、この悪戯は趣味が悪いです。私の執務室でイヴェール卿と待ち合わせなんて……」
「だってここくらいだろう、城内で安心して話せる場所は。ミオーレの執務室を東の塔の最上階にしようって案を却下するのに、僕がどれだけ尽力したか――」
「はいはい、その話は聞き飽きましたよ」
膝砕きの異名を持つ東の塔の最上階など、足が不自由なランディルは到底近寄れない。意地の悪い参議たちを説得するための代替案が、評議会室から遠く離れたこの物置小屋だったのだ。
「参議たちは君の敏腕ぶりに相当参ってるみたいだね。さっきもしきりに『ドミトリオン帝国へ嫁がせるべきでは』って詰め寄られてさぁ」
ドミトリオン帝国とは、グラングレイス王国の東に隣接する大陸最大の大国だ。密接する七つの国が覇権を争った二百年にも渡る戦争を平定させた初代皇帝ドミニクからその名がつけられた。その成り立ちの通り、血の気の多い国なのは間違いない。周辺各国は帝国からの侵略を怖れ、それぞれ何かしらの見返りを差し出している。
「彼らは私を厄介払いしたいのでしょうが、イネス様をぞんざいに扱った野蛮な国に嫁ぐなんて、死んでもご免です」
グラングレイス王国は表面上ではドミトリオン帝国の同盟国だが、ほぼ属国と変わりない。その証拠に、二世代に一度、王家の血を引くオメガを帝国へ嫁がせることになっている。体の良い人質だ。
前回の花嫁はランディルの祖父の妹で、大叔母にあたるイネスであった。十六歳で単身嫁いだ先で非道な扱いを受け、若齢で命を落とした。ドミトリオン帝国では、グラングレイス王国以上にオメガの立場が弱いのだ。それこそ奴隷のような扱いを受けると聞く。オメガにとって、帝国以上の地獄は今の大陸にないだろう。
「だが皇帝からしきりに縁談の話がきているのは確かだ。王家のオメガの代わりに君を寄越せってね」
盟約上、順当にいけばランディルの代で誰かを嫁がせないといけないのだが、彼にオメガの血縁はいない。それを引き合いに出され「ならば序列二位のアーデルハイト家の者を」と迫られているというわけだ。
「もう三年も皇帝から脅し紛いの求婚が届いてるんだ。丁重に断るにも、そろそろネタ切れだよ」
「そこをなんとかしてください。私がいなくなって困るのは陛下でしょう?」
「それはそうなんだけどさぁ……いっそのこと、僕と復縁する?」
おどけてウィンクして見せるランディルへ、ミオーレはひどく渋い表情で「しません」と首を振った。
「そもそも復縁は付き合っていた者たちがするものでしょう。親同士の口約束でしかない非公式な関係に使うには適さない言葉です」
王家とアーデルハイト家の婚姻は、グラングレイス史の中では特別珍しいことではない。だがミオーレのフェロモン疾患が判明して、それも破談になった。当の本人たちは親同士が内々で話し合っていた事情も知らず良き友人として過ごしていたのだから、今さら復縁も何もないだろう。
「それに、国母たる王妃に欠陥品のオメガは相応しくない」
「ミオーレ、君のその言い分は昔から好きじゃない」
「……失礼しました。ですが、事実ですから」
「それを言うなら、足が不自由なアルファは王に相応しくない」
「陛下」
思わず声を低くしたミオーレに、ランディルは唇を尖らせる。
「ほら、君も怒っただろう。それと同じことだよ」
「はぁ……。わかりました、発言には以後気をつけます。とりあえず求婚の件については他の案を模索しましょう」
「そうだね。せめてミオーレに番がいたら断りやすいんだけど」
「それは陛下と復縁するよりも難しいかと」
フェロモンが出ないオメガのうなじを噛んでくれる物好きなんて、グラングレイス王国中を虱潰しに探しても見つかる気がしない。大金でも払えば話は別だろうが、こちらから金をちらつかせれば、相手に足元を見られる。ミオーレは自分が不利になる契約はしない主義だ。
すると、それまで黙って話を聞いていたアスカディアが、面白くなさそうに口を開いた。
「……陛下は、アーデルハイト公をずいぶん頼りにされておられるのですね」
脅威に感じる帝国からの求婚を必死に跳ねのけて、手元に置いておきたいと思うほど。
同じく王に仕える身としては、幼馴染のミオーレが特別に贔屓されているように見えて、不服なのだろう。
そんなアスカディアへ、ランディルは穏やかな笑顔で答えた。
「アーデルハイトの血筋もそうだけど、ミオーレは僕にとって特別だからね。もちろん君もだ、アスカディア騎士団長」
「へぇ……陛下は知己の仲の私と新参者の彼を同列に語るのですか?」
今度はミオーレがむすっとした声を漏らす。有能な家臣ふたりに両腕をぐいぐい引かれているような状況に、ランディルはどこかご満悦だ。
「家臣の中で無条件に信頼できるのは、君たちふたりだけだ。僕にとって、どちらもなくてはならない存在だよ」
他の家臣たちは、ランディルの祖父であるライネルの時代から仕えている古参ばかり。極上の椅子に座ったまま上澄みを啜ることに長けたずる賢い古狸たちだ。新時代に相応しいとは言えないが、彼らを退けるだけの力を、若いランディルはまだ持ち合わせていない。
だからこそ、気心知れたミオーレ、そしてやましい後ろ盾もなく腕一本で騎士団長の座に就いたアスカディアは貴重な存在だ。
「それは光栄です陛下。まぁ、私ひとりでも十分な気はしますが」
ロシュが残していった茶器を使い、ミオーレはランディルのために紅茶を手際よく淹れる。ソーサーに乗った温かいティーカップを渡せば、「ありがとう」と微笑まれた。茶の淹れ方も知らなそうなアスカディアに目配せして、得意げにほくそ笑む。だが「給仕の真似事が上手なんだな」と鼻で笑われ、執務室は再び重苦しい監獄と化した。
「あのさぁ、僕の相談役と剣なんだから、少しは仲良くしてくれないかな」
「「無理です」」
「息ぴったりなのに」
心外だと憤慨するふたりを微笑ましげに眺めていたランディルは、やがて初夏の青々とした翡翠色の宝石眼を薄く細めた。
「だけど、これからは嫌でも仲良くしてもらわないといけないよ」
「どういうことです?」
訝しげに眉を寄せるアスカディアへ、優雅にティーカップを置いたランディルが向き直る。ようやく本題を切り出すらしい。隣に座るミオーレも姿勢を正した。
「アスカディア・イヴェール騎士団長、そしてミオーレ・アーデルハイト宰相……――我が国でオメガのフェロモンを利用した非人道的な戦術兵器の研究が行われている可能性がある。ふたりで協力して速やかに黒幕を突き止めてくれ。これは王命だよ」
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