2 私たちはオメガバースで恋をするんだ

 ◇ ◇ ◇




 この世界には、男女の他にオメガバースという第二の性が存在する。

 身体能力、知力、芸術性、外見、どれを取っても非常に優秀な、人の上に立つべくして生まれた一握りの存在をアルファと呼ぶ。王のランディルも、騎士団長のアスカディアも、財務大臣のジュナーも、元老院も官吏も商業組合の上層部まで、国を回す重要なポストを牛耳るほとんどがアルファだ。

 アルファによって回る世界に住むほとんどは、ベータと呼ばれる一般人。人口の九割を占め、主にアルファから使役される労働階級に属する。国によってはアルファから不当に搾取される存在でもあるとか。幸いにもグラングレイス王国ではランディルより何世代も前の王が奴隷制を廃して自由市民権を与えたため、ベータの多くは平凡で幸せな生涯を送る。

 そして最も数が少なく希少であり、かつてはその特性ゆえに『孕む性』などと蔑みを込めて呼ばれた存在が、オメガだ。オメガは男女ともに妊娠が可能で、さらにはヒートと呼ばれる発情期が定期的に発生し、誰彼構わず誘惑するフェロモンを撒き散らす。動物学的に言えば非常に合理的な繁殖手段だ。だが獣じみた本能を、理性的な人々は毛嫌いした。フェロモン抑制剤の開発が進み、多少の制御が可能になったことでオメガの社会的地位はわずかに改善されたが、今も偏見と差別は根強いものがある。

 性行為以外何も手につかなくなるヒートのせいでまともな仕事にありつけず、アルファとベータから不当に性搾取されるしかないオメガを一人でも多く救うため、ミオーレは今回の法案をなんとしてでも通したかったのだ。


「でもまさか本当に成立させてしまうなんて! さすがは王家の次に長い歴史を持つアーデルハイト家の御当主! ミオーレ様は我々オメガのために神が遣わせたメシアに違いありません!」

「ロシュ、声が大きい」

「はっ! す、すみません! 歴史が動いた瞬間に立ち会えて、つい興奮してしまいました……!」


 癖の強いふわふわなブロンドに大きな丸眼鏡をかけた秘書官のロシュは、持っていた書類の束で恥ずかしそうに口元を隠した。

 ロシュはミオーレ専属の秘書官だ。歳は三つ下の十七歳で、男性のオメガである。勤勉な性格で向上心があり、多くのアルファが巣食う城で華麗にのし上がるミオーレに憧れて官職を目指したと、採用面接で今のように熱弁された。

 ロシュは生まれこそ良家だが、宰相の秘書官にオメガが任命されるのは異例中の異例だ。といっても、オメガの宰相ほどではないが。

 執務室へ戻るのに城内を並んで歩くふたりへ、すれ違う文官や見回りの兵たちから漏れなく不躾な視線が送られる。この鬱陶しい視線を消し去ることも、ミオーレの当面の目標のひとつだ。ヒートでもないオメガが堂々と城を歩いて何が悪い。


「歴史が動くかどうかはこれからさ。法案が施行されても上手く回せなければ意味がない。それに法案成立まで二カ月も要してしまった。あのキツネ親父と堅物騎士団長のおかげで――」


 憎々しげに思い浮かぶのは、主に堅物の方。叩けば何かしら後ろめたいことが出るジュナーのような城勤めのアルファたちと違って、アスカディアには埃のひとつも立たなかったのだから。

 厳しい基準をクリアして王国公認のもと営業しているオメガの娼館にも一切出入りせず、城に隣接する騎士団塔と兵舎の往復で一日を終える。休日は何をしているのかと思えば読書か訓練の二択。団内の人付き合いはそれなりに良好で、誘われれば食事にも行くが、酒は一滴も口にせず、門限の三十分前には必ず部屋に戻る。

 なんてつまらない男なのだろう。あの仏頂面で小動物が好きとか、甘い物に目がないとか、そんなギャップのひとつでもあればまだ可愛げがあっただろうに。

 しかし年頃のオメガや貴族令嬢からは「今どき珍しいあの硬派な感じがいい」「アルファのフェロモンなのかしら、通りすがるだけで吸い寄せられそうになるの」など、熱い声も寄せられる。

 なぜミオーレがこんなにもアスカディアについて詳しいのかというと、弱みを握ってやろうとあの手この手で探りまくったからである。結果はこの通り空振りで終わったが。


(気になるのは、下町の診療所へ定期的に通っていることくらいだな)


 アスカディアは騎士団へ入団するまで、下町で育った。今も定期的に顔を出しては、困り事がないか住民たちに尋ね歩いている。騎士団長にまで大出世したヒーローが来ると、年の離れた少年少女たちから大歓迎を受けるとか。

 その際、彼は必ず看板すらない寂れた佇まいの診療所に立ち寄る。毎日出入りしている騎士団塔の医務室のほうがよっぽど設備は整っているだろうに。そこでアスカディアがなんの治療しているのか、もしくは何を処方されているのかは、まだ掴めていない。


(あいつのオメガ嫌いは筋金入りだ。私が評議会に顔を出すだけで威圧して、やることなすことにいちいちケチをつける。早いところ弱みを握って黙らせてやりたいが、他の参議たちと違って隙がないし……)


 アスカディアの無駄に端正な顔を頭いっぱいに思い浮かべて腹を煮やしていたミオーレに、ロシュが「あのぅ……」と遠慮気味に話しかけた。


「ああ、すまない。どうしたんだい?」

「こんな時にお伝えするのはどうかと思ったのですが、早いほうがいいかと……」


 どこか気恥ずかしそうに視線をさまよわせるロシュの姿は庇護欲をそそる。オメガは生まれつき愛らしい容姿の者が多い。ミオーレのように凛としてしなる弓のような印象のオメガは珍しかった。


「実は、その……先日、例の彼とつがいになりまして……」

「本当かい!? わぁ、おめでとう!」


 嬉しい報告に、ミオーレは思わず声を弾ませた。

 例の彼とは、ロシュが思いを寄せていた地方貴族の三男坊である。アルファの中でも特に優秀な者しか入れない難関大学の学士号を取った人物で、ロシュの年の離れた弟の家庭教師として雇われて出会ったとか。

 そして番とは、アルファがオメガのうなじを噛むことで交わされる特別な繫がりのこと。特定のアルファと番関係になるとオメガのヒートは収束し、番にしかフェロモンがわからなくなる。不特定多数のアルファを不可抗力で誘惑して、望まない性行為に及ぶ危険性がなくなるのだ。何より、お互いがたったひとりの特別な関係になれる。どちらかが死ぬまで番は解消されることがない。オメガにとって、番を得るのは人生で最大級の幸福と言われている。

 ミオーレは親しいロシュが幸せを手に入れたことを、自分のことのように喜ばしく思った。


「婚礼はロシュが十八歳になってからか? たしか誕生日は三ヶ月後だったろ?」

「そうなんです。成人したら一緒になってもいいと、父からも承諾をいただきました。ただ、その……」


 幸せそうにはにかんでいたロシュが、何かを言い淀んで視線を逸らす。


「彼が、実家の近くで平民の子ども向けの学校を開きたいと言っていて……」


 彼の実家はグラングレイス王国の東の玄関口と聞いている。ロシュを苛んでいるわだかまりを理解し、ミオーレは通路の隅で立ち止まって彼の手を両手で握った。


「ロシュ、迷う必要はない。彼について行くべきだ」

「でも……」

「君がそばにいてくれると私も心強い。でもね、私は君が大切だからこそ、誰よりも君の幸せを願ってる。わかるだろう?」

「っ、はい……!」


 少し涙ぐんで、ロシュは小さい顎で頷く。ミオーレと同じ気持ちだからこそ、ロシュは彼を残して城を去ることを後ろめたく思っていたのだ。


「だがもし彼に愛想を尽かして王都に戻ってくることがあれば、いつでも私を訪ねてきてくれ。有能な秘書官は何人いてもいいからね」

「ミオーレ様……本当に、ありがとうございます……!」


「ただし、嫁に行くまではしっかり働いてもらうよ」と付け加え、ミオーレは茶化すようにウィンクする。

 ロシュは思わず小さく吹き出して、爽やかな水色の瞳をとろんとさせた。


「ふふふ、承知しました。最後の日までお任せください、ミオーレ様。ああでも、万が一破談になったら恥ずかしいので、婚姻まではこのことはどうかご内密に」

「わかってる。そうならないことを祈るよ」

「僕も、ミオーレ様が同じように幸せになってくれることを祈ってます」

「ロシュ、それは――」

「フェロモンがなくても、ミオーレ様は魅力的なオメガです。おそばにいる僕が保証します!」


 語気を強めて言うロシュに、今度はミオーレが言葉を濁して視線をさまよわせた。

 幼児期に行われるオメガバースの判定検査で、ミオーレは確かにオメガと判定された。しかし物心がつく頃にはオメガのフェロモンが分泌され始めるはずが、ミオーレからはフェロモンが一切出なかったのだ。そればかりか、二十歳になった今でも情期すら済ませていない。

 医師からは、稀にそういうオメガが生まれると説明を受けた。治療法が確立されていない、分泌腺の疾患であると。フェロモンが出ないということは、子どもを授かれる身体にも仕上がっていない。女性との間にも子は望めないだろうと言われた。


「……私たちはオメガバース本能で恋をするんだ。だから私が愛されることはないよ」


 どこか諦めたような口ぶりで微笑み、ミオーレはロシュからそっと手を離す。

 フェロモンがないオメガなど、火のつかない蝋燭と同じ――役立たずの欠陥品だ。二十年間、周囲からそう蔑まれ続けた。綺麗なだけで実をつけることのない徒花あだばなだと。子どもが産めないならいっそベータであればよかったのにと、何度も自分の運命を呪った。

 だが、悲嘆で止まらぬ涙に溺れてしまうほど、ミオーレという人間は気弱ではなかった。むしろオメガとしての根本が欠落しているからこそ、人一倍勉学に励んだ。オメガが身体をいくら鍛えようと、アルファのように恵まれた体格にはなれない。だが知識は蓄えられる。ヒートがないのを逆手に取って官職に就き、身に着けた教養と持ち前の機転を最大限に生かして宰相にまで上り詰めた。気心知れたランディル王による采配もあったが、今の環境はミオーレが己の力で掴み取った地位に他ならない。

 アルファから愛されない代わりに、自分には他のオメガにはない使命がある。そう信じて、ミオーレは虐げられ続けているオメガのために働くことを選んだのだ。

 そんなミオーレの諦念と覚悟を理解しているからこそ、ロシュは遠慮気味に引っ込められた手を再び握り直した。


「ですがミオーレ様。オメガには生まれた瞬間から必ず運命の人が用意されていると聞きます」


 その生態から性的搾取や差別の対象になりやすいオメガだが、『愛されることを約束されて生まれる存在』とも考えられている。そのためオメガにはこの世界でただひとり、運命的に定められたアルファがいると唱えられてきた。

 運命の相手と巡り合わずに生涯を終えるオメガがほとんどだが、もし巡り会うことができれば、今ある番契約を書き換えるほど強い繋がりが生まれるらしい。そんな御伽噺のような関係を、人々は〈運命の番〉と呼ぶ。

 離れかけた細長い指先を固く握り締め、ロシュは祈るように囁く。


「貴方を愛してくれる人が、この世界に必ずひとりはいるんです。ミオーレ様はこんなにも輝いているんですから、きっとすぐに見つけてもらえますよ」

「どうだろう。私より優秀なアルファじゃないと、運命だろうと蹴とばしてしまうかも」

「ふふっ、そういう強気なところも素敵です」


 この手の話題はどうにも苦手だ。おどけたように言うミオーレに、ロシュは花が咲いたように微笑む。彼の愛嬌の半分でもあれば、ミオーレも誰かの妾くらいにはなれたかもしれない。子どもを生めないオメガ男性をそばに置く物好きがいればの話だが。

 それからふたりで取り留めのない話をしているうちに、執務室の前まで来て、ふと気がついた。

 扉の前に、誰かいる。

 ミオーレの執務室は「万が一にも城内で発情されたら困る」という理由で、城の端に設けられた。元は不用品置き場で、宰相の執務室にしては手狭で日当たりも悪い。好き好んで訪れる変わり者は、歩行訓練の散歩のついでに立ち寄るランディル王くらいだ。王は片足が不自由で、杖が手放せない御方なのだ。

 だが扉の前で仁王立ちしている後ろ姿は、長身痩躯の王とはまるで違う。濃紺色の生地に金のタッセルがふんだんにあしらわれた威厳ある制服は、王国騎士団のもの。分厚い左肩を覆う深紅のペリースが表すのは、そのトップに君臨するただひとり。

 ミオーレは思わず「げっ……」と可愛げの欠片もない声を上げてしまう。その声に気づいた騎士団長のアスカディアは、子どもが泣き出しそうなほど恐ろしいしかめっ面で振り返った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る