27歳、離婚します! 〜イケメンシンガーソングライターに溺愛されるなんてマジですか!?〜
朝食ダンゴ
第1期
第1話
カーテン越しの朝日が、レースを透かしてやわらかく差し込んでいる。
白い布地に黄金色の縁取りがゆらめき、まるで水の底から見上げた太陽のようだった。
キッチンの時計は七時三十八分。秒針が静かに進むたび、今日も同じ朝が繰り返されていく。
テーブルの上には、焼きすぎて縁がほのかに焦げたトースト。
その横には、薄くバターを塗った皿が一枚だけ。
湯気の消えたコーヒーカップが、ひとりきりの朝食を物語っている。
夫の和也は、新聞を広げ、紙面に視線を落としたままコーヒーをすする。
スーツの襟はきっちりと整い、ネクタイは完璧な位置に収まっている。
その几帳面さは結婚当初から変わらないはずなのに、今はそれが距離の象徴のように思えた。
「……今日も、遅くなるの?」
自分でも驚くほど、声が小さく掠れていた。
新聞の向こうから、間を置いて「会議が長引くと思う」という短い返事。
抑揚のないその声は、業務報告のようで、夫婦の会話には聞こえなかった。
私はトーストをひとかじりし、口の中の乾きをコーヒーで流し込む。
味は、よくわからなかった。
皿を流しに下げると、カチャリという食器の音だけがやけに響いた。
「行ってくる」
椅子を引く音、革靴がフローリングを叩く音、そして玄関のドアが閉まる音。
そのすべてが、もう何百回も繰り返された朝の終わりの合図だった。
残された空間に、冷たい空気が薄く漂う。
(……また今日も、同じ朝だ)
---
駅へ向かう道。
ビルの谷間から差し込む陽光が、コンクリートを鈍く照らす。
左手薬指のリングが光を反射し、わずかにきらめいた。
その輝きは、胸の奥に沈殿する灰色の感情とあまりに対照的だった。
音楽事務所に勤めて五年。
広報担当として、アーティストの宣伝やツアーのプロモーションを手がけてきた。
忙しいけれど、現場の空気は好きだし、音楽に触れている時間は確かに私を支えてきた。
だけど、最近は何をしていても胸の奥が曇ったまま。
まるで心の中に、名前のつかない霧が立ち込めているようだった。
---
午前十時。社内会議室にスタッフたちが集められた。
壁一面のスクリーンには、新しいプロジェクトの資料が映し出されている。
部長の声が会議室に響いた。
「次の全国ツアー、広報担当は……佐伯さん」
不意に自分の名前を呼ばれ、私は立ち上がって会釈する。
その瞬間、スクリーンに一人の男性の写真が映し出された。
――蓮司。
昨年デビューしたシンガーソングライター。
ネット配信から火がつき、今やチケットは発売と同時に完売。
その瞳は、写真越しでも真っ直ぐで、まるで見る者の奥を覗き込むようだった。
会議室のドアが開き、写真の中の人物が現実になって姿を見せた。
黒目がちな瞳に、少し長めの黒髪。
背の高いシルエットが歩み寄るたび、室内の空気がほんの少し柔らかく変わっていく。
「はじめまして、蓮司です。よろしくお願いします」
その声は低く落ち着き、耳の奥に心地よく残った。
握手を交わした瞬間、指先から伝わる温もりが、なぜか懐かしい。
初めて会ったはずなのに、胸の奥が微かに震えた。
(……知ってる、この感じ)
理由はわからない。ただ、心の奥の奥で「覚えている」と囁く何かがあった。
---
蓮司のすぐ後ろに、ひとりの女性がいた。
早瀬美緒――蓮司の専属マネージャーだと紹介される。
長い黒髪をきちんとまとめ、ハイブランドのジャケットを着こなす姿は、舞台裏の人物というより女優のようだ。
笑顔は完璧なのに、視線は温度を持たない。
「広報の佐伯さん……ですよね?」
「はい。サキと申します」
「そうですか。……あまり近づきすぎないほうが、いいですよ」
耳元に落ちた囁きは、柔らかい口調にもかかわらず、刃物のように冷たかった。
返す言葉を失い、私はただ微笑み返すしかなかった。
---
会議後、廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「佐伯さん、さっきの……大丈夫でしたか?」
振り返ると、蓮司が立っていた。
真っ直ぐな瞳が、私の表情を探るように見つめている。
「え、あ……大丈夫です」
「顔色が少し変わったように見えたから」
ほんの少し眉を寄せ、気遣う声。
その響きが胸に触れた瞬間、鼓動が速くなる。
「……ありがとうございます。本当に大丈夫ですから」
笑顔を作ったが、心の奥では別の音が鳴っていた。
――これは、ただの仕事じゃない。
直感が、そう告げていた。
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