悪魔は銀貨を増やさない

朽尾明核

それでも生きていかざるを得ない


 結局のところ、カレンが最も恐れているのは鞭打ちであった。


 頭の芯まで痺れるほどの純粋な「痛み」は、何度受けても慣れる事はない。


 カレンが勤めている屋敷の主――その奥方は、よくカレンを呼びつけては鞭打ちを行った。理由は、たとえばカレンが掃除をした場所に拭き残しがあったであるとか、目つきが反抗的であるとか、メイド服が汚れているだとか、臭いだとか、なんとなく気に食わないだとか、とにかく奥方の機嫌次第であり、カレンに呼び出しを回避する術はなかった。


 奥方がきつく当たり、理不尽に折檻するのは、カレンに対してだけであった。屋敷で働くほかのメイドや使用人、庭師や守衛などからしてみれば、奥方はとても優しく、慈しみを持ち、身分を問わずに分け隔てなく接する、まさに『理想の雇用主』であったのである。


 なぜカレンにのみ、厳しい態度を取るのか。

 屋敷で生活するうちに、嫌でも耳に入ってくる噂話から、カレンはおおよその事情を把握していた。


 カレンは、屋敷の主の愛妾の娘だった。


 美しかったカレンの母親は、主からの寵愛を恣にしていたという。その為、奥方は彼女を憎んでいたのである。

 母親は、カレンを産んですぐ、若くしてこの世を去った。まだ赤ん坊だったカレンを、奥方は即座に捨てようとした。それに反対したのが、屋敷の主だった。愛した女と自分との子を見殺しにする事はできなかった。


 結果、ふたつの条件を主に呑ませることで、奥方は渋々ながらカレンが屋敷に残ることを赦したのである。

 ひとつ、カレンを自分の娘ではなく、女中の子として育てること。

 ひとつ、カレンに自身の出生を明かさないこと。

 主がその条件を承諾したことにより、産まれたばかりのカレンは生きのびることができたのであった。


 カレンに味方はいなかった。メイドや使用人は奥方を敬愛していたので、わざわざ彼女が憎んでいるカレンの味方をして、不興を買うような真似はしない。それどころか、ごく自然な集団心理として、カレンに対しては積極的な攻撃が行われるようになった。

 誰もやりたがらない便所の清掃を押し付けたり。

 わざと水をかけてみたり。

 階段から突き飛ばしてみたり。

 冬の外作業をひとりでやらせたり。カレンの食事だけがなぜか・・・なかったり。露骨に無視をしたり。メイド服を馬糞で汚したり。影から石を投げつけたり。靴に針を仕込んだり。


 カレンの立場は、「汚らわしい淫売の娘」として、この屋敷の最下層に位置していた。


 冬場は特につらい。

 重労働の外作業を日が落ちるまでかじかむ手でこなしたのちに、厨房の残飯を漁り、固いパンのかけらを寝床で齧るのだ。カレンに部屋は与えられていない。屋敷の隅の物置が彼女の寝床であった。物置の床は石畳だ。氷のように冷たく硬いそこに、薄い毛布を敷き、身体が痛くならないよう、猫のように丸まって眠った。


 だが、それでも――。

 「鞭打ちに比べればずっとマシだ」というのが、カレンの結論であった。




「離れに食事を届けな」

 十六歳の誕生日。カレンはメイド長からそう命令を受けた。

 息を呑んだ。


 屋敷の敷地の隅には、石造りの塔がある。

 そこには誰も近寄らないように主から厳命されていた。ただ、日に二度、朝と晩に馬丁の老爺が食事を届けていた。つまり、離れの石塔には、『何か』がいる。


 女中たちの間では、もっぱら悪魔がいるのではないかとの噂であった。食事を届けている老爺は生贄で、もとは若かったにも関わらず、悪魔に生気を吸われてああ・・なったのだと。


「ニコフは死んだよ」メイド長が言った。「風邪をこじらせてね。だから、今日からはアンタが食事を届ける係だ」


 カレンに質問する権利はない。拒否権もない。屋敷の中の誰に対しても、許された返事は「はい、わかりました」だけだ。


 だから、そういうことになった。


 パンと、葡萄酒。シチューに、魚のソテー。それらを乗せた盆を、厨房から離れへと運ぶ。「近づくな」と言われていた建物は、遠目で見ていたよりも遥かに高く、古く、そして重々しい雰囲気であった。

 カレンは預かった鍵を使い、鉄で出来た堅牢な――塔の扉を開けた。


 塔の中は、まだ朝だというのに、腰のランタンがなければ歩けないほどに暗い。窓がないのだ。


 食べ物をこぼさないように、慎重に階段を登る。


 重苦しい。

 暗い。


 緊張で、口の中が乾く。


 無限に続くのかと思うほど長い階段の先に、光が見えた。

 最上階には、灯りがついていた。


 階段を登りきる。

 目に入るのは、大きな鉄格子。

 広い部屋だ。いや――出口がないところを見ると、あるいは牢屋なのかもしれない。窓も、小さいものがひとつ付いているだけだ。

 しかし、牢の中には高価そうな調度品、家具、絵画、そういったものが山ほど見えた。貴族の部屋に、無理やり鉄格子だけつけたような――そんなチグハグさを覚える。


「誰?」


 部屋の中央には、ひとりの男がいた。妖しい空気を纏う男であった。

 年のころは、四十歳くらいだろうか。がっしりとした、筋肉質の体型。何処か気怠げな表情。金色の瞳。少し垂れ目。無造作に伸ばされた白髪。左耳にはリング状の耳飾りピアスがいくつもつけられていた。

 中でも目を引いたのは、刺青であった。

 半袖のシャツを羽織っている男であったが、その両腕には、植物をモチーフにしたような、あるいは、炎を象ったようなタトゥーが、びっしりと施されている。


「もしもし、お嬢ちゃん?」


 目を奪われ、呆然としていたカレンに声が掛けられる。カレンは慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません! 朝食をお持ちしました」

「あれ? ニコフは?」

「ニコフさんは、亡くなったと聞きました。その、風邪で」

「あー、そっか。年が、年だったもんな……」男は頭を掻いた。「それで君が新しく、ご飯を持ってきてくれる人なんだ。ありがとうね」

「は、はい」


 鉄格子の端に設けられた、受け渡し口から食事を渡す。


「それでは、失礼します」

「あー、お嬢ちゃん、ごめんね。食べ終わるまで待っててくれる?」

「え?」


 男は、テーブルの上に食器を並べながら言う。


「あんまり自分の部屋に食べ終わったお皿を置いておきたくなくてさ。おじさん几帳面だから」

「わかり……ました」


 夕食を運ぶ際に朝食の食器を回収するものだと思っていたカレンは、思わず面食らう。しかし、彼女に誰かから言われたことを拒否するという発想はなかった。


「ごちそうさま」


 男は十分もしないうちに朝食を平らげると、食器を返却する。

 お盆を持ち、最上階を後にしようとしたカレンに対して、男は話しかける。


「そういえば、お嬢ちゃん、名前は?」

「えっ、あ、名前……ですか?」

「そう」

「カ、カレン……です」

「そっか。おじさんは、ジェルドっていうんだ」ジェルドと名乗った男は、口の端を斜めにした。「これからよろしくね」

 



 †


 食事を運ぶ仕事は、想像していたよりも遥かに楽であった。日に二度、塔を登るだけ。暗く、長い階段を登るのはそれなりに手間ではあったが、普段の仕事に比べれば楽なものだった。


 塔の男――ジェルドに関してもそうだ。『悪魔』だのなんだのと言われていたが、蓋を開けてみれば――見た目が派手ではあるものの――ごく普通の中年男性といった様子だ。


 むしろ、屋敷中の人間から毛嫌いされ、命令以外される事のないカレンにとって、「おはよう」や「ありがとう」と言った挨拶や、何気ない日常の会話をしてくれるのは、彼ぐらいだった。


 カレンが食事を運び、一ヶ月が経った頃だった。


 その日、塔の最上階へ朝食を持っていったカレンは、酷い空腹に悩まされていた。

 昨日の夜と、今朝――メイド仲間の嫌がらせによって、二食続けて、ありつく事ができなかったのだ。


 二食続けて抜かれると、さすがのカレンも少々堪える。


 それで、鉄格子の中のジェルドに朝食を渡したタイミングで、彼女のお腹がくぅと鳴ってしまったのである。


「あれ、お嬢ちゃん、お腹空いてる?」

「い、いえ!」カレンは慌てて頭を下げた。「申し訳ございません!」


 羞恥で顔を赤くするカレンを眺めながら、ジェルドが鉄格子からパンを差し出した。


「……お嬢ちゃんってさ、おじさんが捕まってる理由、知ってる?」

「いえ、その――知りません」

「そっか、そっか」ジェルドは笑った。「おじさんってね、『悪魔』なんだ」

「え?」

「見ててごらん」


 次の瞬間、信じられない事が起きた。

 ジェルドの手の平の上にあったパン――それが、まるで陽炎の中にあるかのようにぶれ――そして、瞬き一回ほどの短い時間の後には、ふたつになっていたのである。


 ひとつのパンが、ふたつに。


「これがおじさんの『能力』――」ジェルドが言った。「触れたものをなんでも、いくらでも『無限』に増やすことができる。そういう能力を持っているってわけ」


 言うや否や、いつの間にかパンは三つに増えている。

 ジェルドは、そのうちのひとつをカレンに差し出した。


「――お嬢ちゃん、悪魔おじさんと『取引』しない?」




 †


 戦棋せんぎは正式名称をイシュタニア戦線軍棋という、二人対戦用の盤上遊戯である。


 九×九の八十一マスの盤面に、敵味方二つの陣形に分かれた、軍隊を模した駒を並べる。


 それぞれの陣営の駒は八種類。

〈歩兵〉

〈騎兵〉

〈弓兵〉

〈戦車〉

〈斥候〉

〈呪術師〉

〈将軍〉

〈王〉


 駒は種類ごとに動けるマスが異なり、お互い順番に、駒を一つずつ動かしていく。

 動く先の駒に相手の駒があればそれを取ることができ、取った駒は自分の手番に自由に使う事ができる。


 最終的に、相手の王を取ることができれば、勝利となる。


「おじさんはこの屋敷の――お嬢ちゃんのご主人様と契約して、無限にものを増やす能力で、金貨を一杯増やしてやってたわけ」

「契約?」

「悪魔との取引だね。お互いに利益を差し出すわけだ。今おじさんたちが戦棋をやってるように」


 カレンがパンを得るために提示された条件は、戦棋で遊ぶ事だった。暇潰しの相手が欲しかったらしい。


「いま、閉じ込められているのは……?」

「もう、必要なくなったってこと」ジェルドはひょいと〈弓兵〉でカレンの〈将軍〉を取った。「ある程度の元手があれば、商売で増やしていける。カネっていうのはあまりに多すぎても困るもんなんだ。出所不明の資金は目立つし、足がついたら問題になる」

「そう……なんですか」

「とはいえ、おじさんを手放すのも不安だったんだろうね。だから、封印なんて中途半端な手段を取っている――はい、詰み」

「え?」


 気づくと、カレンの〈王〉の逃げ場はなくなっていた。あっという間だった。


「遊んでくれてありがとう。また夜に」


 カレンは、パンを急いで胃袋に詰め込むと、仕事へと戻っていった。





 †


 翌日、同じように戦棋をしていると、ジェルドがふと疑問を口にした。 


「お嬢ちゃん、誰かに戦棋習ったの?」

「――え?」カレンは首を振る「いいえ」


 カレンに、そういった話をする相手はいない。


「陣を組んでるから」ジェルドが首を傾げる。

「陣?」

「この、お嬢ちゃんの〈歩兵〉たちに〈弓兵〉と〈斥候〉、〈王〉と〈将軍〉の並び」

「これが陣なんですか?」


 ジェルドが言うには、自軍の駒を特定の並べ方にする戦法を、陣と呼ぶらしい。そういった戦略が、戦棋には無数にあるのだという。


「あんまりすぐ決着がついてしまうと、がっかりさせてしまうかなと思いまして……」カレンが縮こまる。

「自分で考えたんだ」

「はい」

「ふむん」ジェルドは、口許に手を当て、ぶつぶつと呟き始めた。「基本的な右偃月の陣とはいえ、戦棋を始めて一日で、たった二回の対局の後で、自分で思いつくものなのか……?」


「あの……?」

「お嬢ちゃん、戦棋を本格的に、やってみる気はないかい?」

「えっと、え……?」

「もとは四人対戦形式だった戦棋がこの形式になって、役八百年――戦棋はもはや単なる盤上遊戯の枠を超えているといっていい。この国では競技化もされている。数多の熟練プレイヤーが数多くの戦略・戦術を生み出し、今なお進化し続けているのがこの戦棋というゲームなんだ」

「え、えー……?」


 突如早口になるジェルドに、困惑が隠せないカレン。

 だが、悩んだ末に頷く。


「ご、ごはんが、貰えるなら……」


 カレンはすっかり餌付けされていた。




 †


 結論から言えば、カレンは戦棋の魅力にどっぷりとのめり込んだ。

 朝食を運んだときは、座学として戦棋の戦略や戦術、歴史の勉強をし、夕食を運んだ時に一回だけ対局を行う。


 漫然と駒を動かしていた時とは違い、戦略的な視点からアドバンテージの有無が判断できるようになると、戦棋というゲームに対する理解度も、面白さも段違いに感じられた。勝負における駆け引きのポイントがわかるようになったのだ。


 紹介される戦術、数々の陣形も自らの発想にないものばかりであった。学べば学ぶほど、戦棋の楽しさがより一層深まっていく感覚。


 カレンにとって、それは産まれて初めての、自分の為の勉強であった。


 カレンは砂漠の砂のように、新たな戦術や考え方を吸収していった。

 ジェルドが能力で増やした戦棋の戦術書を借り、夜寝る前に月の光で読みふけった。

 つらい仕事の毎日も、頭の中で戦棋の事を考えているだけで、楽しかった。


「楽しい?」

 ジェルドがある日の対局中、唐突に尋ねた。

「え?」

「笑ってたから」

「そうですか?」カレンは照れる。「なんかちょっと、恥ずかしいですね」

「そう?」

「ジェルドさんも、戦棋は好き……ですよね。どういったきっかけで?」

「昔の知り合いに教えてもらって、まあ、最初は暇つぶしだったんだけどね。いつの間にかこのルールのシンプルさと奥深さの虜になったんだ」ジェルドは駒を動かす。鋭い一手だった。「このゲームには無限があるからね」

「無限?」

「そう。無限。おじさんが能力で増やすようなまがい物じゃない、本当の無限がこの八十一マスには存在する、そう信じてる」

「と、いうと……」


「『発想』だよ」ジェルドは笑った。「おじさんも、思考は――触れないもの、目に見えないものは増やせない。そして、そういったものこそが、本当に価値のあるものなんだと思うんだ」


 その日の対局も、カレンは勝てなかった。

 すごい勢いで強くなっていると、ジェルドは言う。カレンにもその実感はある。


 だが、自分の力が分かればわかるほど、二人の実力差もわかるようになる。

 まだ、自分の棋力がジェルドの足許にも及ばないことが、カレンにはもどかしく感じられた。




 †


「部屋に来なさい」

 カレンがジェルドと出会ってから、半年が経った時だった。

 夜、屋敷の主にカレンは呼び出された。

 初めての事だった。当然、拒否権はない。

 主の秘書に連れられ、カレンは一番風呂に入れられ、全身を隈なく洗われた。


 風呂からあがったカレンは背中と胸元が大きく開いた細身のドレスを着せられ、化粧と髪のセットを施された。

 仕上げに甘い香りの香水を振りかけられる。


 鏡に映るカレンの姿は、本人ですら目を疑うほど、美しく変貌を遂げていた。


 部屋に入る。

 既に主は酒を開けていた。

 空になった酒瓶がふたつ、床に転がっていた。


 差し出された杯に口をつける。喉が灼けるような強い酒だった。思わず顔を背けたカレンの視界に、一台の戦棋盤が目に入る。

 それは、ジェルドの部屋にある木製のものと違い、クリスタルで出来た高級そうな盤であった。


「そうか、お前は戦棋が得意だったな」


 カレンが戦棋盤に目を奪われていると、主が懐かしそうに呟いた。

 それで、対局をする事となった。


 二局差し、二局ともカレンが勝った。圧勝であった。屋敷の主はジェルドと比べると、拍子抜けするほど弱く、勝負にすらならなかった。


 カレンは腕を掴まれ、そのままベッドの上に組み伏せられた。

 そこでカレンは、主の機嫌を損ねたのではないかと慌てる。もしかして、こういう場合、手を抜かなければならなかったのか、と。


 そうではなかった。


 主の手が、カレンの肢体をまさぐる。腰のラインをさすりあげ、尻や太ももの柔らかさを味わうように鷲掴みにする。


 最悪の時間を迎えようとしている。

 カレンはおぞましさに身を固くする。


「やめてください、旦那様――!」


 拒否権はなかった。しかし、反射的に叫ばずにはいられなかった。

 制止は逆効果だった。


 主は、余計に興奮したように呼吸を荒くする。

 カレンの首筋に鼻を擦りつけ、肺を少女の香りで満たすために深く息を吸い込んだ。

 彼女の豊かな乳房に、己の顔面を押し付ける。

 谷間に感じる、生暖かい蛞蝓なめくじが這いまわるような感触。


 カレンは叫んだ。


「――やめて・・・お父さん・・・・!」


 主の動きが、雷に打たれたように止まった。


 しばらく、そのままの姿勢でいたが、やがてカレンの上からゆっくりとした動きで立ち上がると、テーブルに戻っていった。

 主は、ぐしゃりと己の髪を掴む。

 ぶつぶつと何事かを呟いたあと、思い出したようにベッドの上のカレンへ言葉を投げかけた。


「……戻っていいぞ」主は、憑き物が落ちたような顔をしていた。


 カレンは主の部屋を出た。

 混乱。

 安心半分、自分の仕える相手を拒絶してしまった。とんでもない事をしてしまったのではないかという恐怖半分。


 だが――。


 今は、一刻も早く自室、物置へ戻らなくてはならない。

 化粧。乱れた煽情的なドレス。この着飾った姿を誰かに見られたら、面倒な事になるだろう。女中たちの目に留まろうものなら、何を言われるか。



 いや、それよりも最悪なのは――。


「何をしているの?」


 冷たい声。

 どこまでも冷え切った、感情を感じさせない声。


 おそるおそる、視線をそちらへ向ける。


 奥方が、カレンを視ていた。


 その表情を見た時、

 カレンは、


 ああ、きっと私は殺されるのだ。


 そう、思った。

 






 鞭。

 それは、人間や動物に対して「痛み」を与えることだけを目的として作られた道具である。

 致命傷を与えることなく、苦痛だけを与える。


 痛い。


 一度打たれれば、皮膚が裂ける。

 二度打たれれば、肉が抉れる。

 三度打たれる頃には骨に響き、大の大人も涙を流して許しを請い始める。


 普段の折檻では、五度が限度だった。それ以上打てば、カレンの命が危ないからだ。

 だが、今日は。

 奥方の鞭は、二十を越えても止まることはなかった。







「奥様、それ以上打てば死んでしまいます」

「そうね」

「いけません。また・・この屋敷から死人を出す訳には」

「こいつは殺すわ。あの日、捨てておけばよかった。あの人に頼まれたから、おいておいたけれど、だからこんな事になったのよ」

「落ち着いてください」

「落ち着いてるわ。ウチが契約している農場があるでしょう」

「……? はい」

「そこの豚に死体を食べさせます。骨は残るでしょうけど、細かく砕いて、畑に撒いておいて」

「奥様」

「少し休憩にしましょう。腕が痺れてしまったわ――」


 朦朧とする意識。

 奥方と秘書の会話は、どこか遠いところで行われているように聞こえた。

 折檻をするための地下室。ふたりは、言い争いながら出ていった。

 カレンだけが残された。


 痛い。

 息ができなかった。

 痛い。

 熱い。

 熱。


 打たれた背中が熱を持っている。

 空気と傷が触れているだけで、恐ろしい激痛がカレンを襲う。


 もう、このまま気絶してしまいたかった。

 意識を手放せば楽になれる。


 ころりと、口の端から白い塊が転がった。

 痛みに耐えるためにずっと噛みしめていた、奥歯が砕けたのだ。


(動け)


 痛む全身に力を籠める。


(動いて――!)


 カレンは、這った。

 体温調整の為ではない――激痛による精神性発汗の、生ぬるいベトついた大量の汗を全身から流して。粘液を出しながら進む蛞蝓のように、地下室の床を這い進んだ。







 夕食の時間になっても、カレンは塔へと来なかった。

 ジェルドが、少し心配に思っていると、塔の扉が開く音がした。


 微かな足音。

 階段を登ってくる。

 いつもより、だいぶ足取りが遅い。途中で何度か止まってすらいる。


 階下からカレンが姿を現した時、ジェルドは思わず息を呑んだ。


「――お嬢ちゃん!?」 


 酷い有様だった。服はびりびりに破けた布切れが一枚だけ。髪は何度も引っ張られたのか乱れ、顔は幾度も殴られたのか、パンパンに膨らんでいる。

 全身隈なく傷だらけだったが、最も酷いのは背中だった。加減なく鞭で打ち続けられた背中は、踏み荒らされた花壇のようにぐちゃぐちゃになってしまっている。


「いったい、なにが――」

「ジェルド、さん……」


 鉄格子の前で、カレンはうつ伏せに倒れている。その唇から、微かに声が漏れていた。


「……何?」

「わ、私の全部をあげます。だ、だから――」



 カレンは言った。消え入りそうな声だった。



「――私を、殺してください」








 ジェルドのいる牢獄には、小さな窓が一つだけある。それは南側を向いて、太陽の光を取り込めるようになっている。しかし、当然ながら、そこから人が出られるような大きさではない。

 せいぜいが、腕を外に出すことができるくらいだ。


 ジェルドは時折――太陽の温かさを感じたくなった日などは、この窓から腕を出すことがあった。


 今宵も、同じようにジェルドは腕を出す。


 違うのは、塔の外に出した手に、一枚の銀貨が握られていた事だ。


 月の光を反射した銀貨が、音もなく二枚に増える。


 二枚が、四枚。

 四枚が、八枚。

 八枚が、十六枚。

 十六枚が、三十二枚。


 次々に増えた銀貨は、ジェルドの手のひらから零れ落ちる。

 塔の横、庭へ落ちた銀貨がぶつかりあい、澄んだ音を立てる。


 ちゃりん、ちゃりん。


 手のひらの上の銀貨は減らない。何枚落ちて行っても、落ちたそばから増えていくからだ。際限なく――無限に、銀貨はその数を増やしていく。


 ちゃりん、ちゃりん。


 銀貨の音は絶えることなく、夜の闇に響き続けていった。







 ジェルドの手から零れた銀貨が一つの山を築き始めたとき、塔の扉がけたたましい音を立てて開かれた。

 走りながら登ってくるせわしない足音。

 階下から、屋敷の主が息を切らせて現れた。


「やめろ――!」主が言った。「止めろ、銀貨を増やすのをやめるんだ、ジェルド!」

「ここを出ていくことにしたよ」ジェルドが言った。「だから、この牢の扉を開けてくれ」

「なぜだ……?」


 その質問に、ジェルドは肩を竦める。


「新しい主が出来たから、かな」


 ジェルドの言葉に、屋敷の主は顔を歪める。


「――私の、娘か」

「娘、ねぇ」ジェルドは皮肉気に口許を歪める。「実の娘にそんな仕打ち、するかね、普通」


 屋敷の主は、ジェルドの視線を追う。

 鉄格子の前に横たわっている人影が見えた。駆け寄る。それは、意識のない、瀕死のカレンだった。応急処置が行われ、ジェルドの上着が掛けられているが、医者に診せなければ、命が危ないのは明らかだった。


「――違う」主が首を振った。「私じゃない。私は逆らえないんだ。彼女に。成金の私とは違って、本物の、貴族の娘だから、だから――」

「変わっちまったねぇ、あんたも」

 ジェルドが言った。


 主はしばらく、カレンの腫れあがった顔を眺めていたが、やがて諦めたように、一つ溜息を吐くと、懐から取り出した鍵で、鉄格子の扉を開けた。


 銀貨の音が止まった。

 ジェルドは、左腕を窓から室内へと戻す。


「ひとつ、訊いてもいいか?」


 牢から解き放たれた悪魔に、主が声を掛ける。


「銀は悪魔の肌を焼く――なのに、なんでわざわざ銀貨を増やしたんだ?」


 ジェルドの左腕は、長く銀貨に触れていたことで酷い火傷になってしまっていた。ジェルドは痛みを堪えながらカレンの身体を抱きかかえ、歩き始めた。


 最後に、一度だけ振り返って、口許を斜めにする。


「さあね。自分で考えなよ」


 少女を抱いた悪魔は、階段を降りて行った。






 痛みで目を覚ましたカレンは、自分が生きていることに、まず驚いた。


「起きた?」ベッドの横から、ジェルドが覗き込んでくる。「お嬢ちゃん、もう三日も寝てたんだから。おじさん心配しちゃった」

「……ここは?」

「町の病院だよ」

「……なんで?」

「なにが」

「なんで、私は生きているんですか……?」

「そりゃあ、あの契約は無効だよ」

「どうして」

「考えてもみなよ。『お嬢ちゃんの全部をくれるから、殺してくれ』なんて取引になってないじゃない。全部をくれるってことは、当然お嬢ちゃんの命もおじさんのもの

なんでしょう? それを無くしてくれって、お金を払いますからそのお金を捨ててくださいって言ってるようなものだよ」

「それは……そう、ですね」


 カレンは俯いた。


「これから、どうすれば」

「まあ、どうとでもなるよ」


 ジェルドは、カーテンを開けた。

 太陽の明るい日差しが、窓から差し込む。

 その眩しさに、カレンは目を細めた。


「お嬢ちゃんは、自由になったんだから」

「自由?」

「そう、人間の未来なんて、それこそ無限だからね。おじさんのまがいものとは違う、本物の無限」


 ジェルドはポケットから戦棋の――〈歩兵〉の駒を取り出した。

 それを、カレンに手渡す。

 

 カレンは駒を握りしめると、そっと目を閉じた。

 不安もあった。


 だが、

 それでも、生きていかざるを得ない。


 で、あるとするならば。


 ただひとり自分の無限かのうせいを信じてくれている、悪魔に報いてみようと、そう、思ったのだった。


〈了〉



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