白花ジャーニー
浅里絋太
1. 青い海月の神楽
細かな泡の音が耳元をくすぐる。
ずずず、こぽぽ、ごうごう、と重たくも温かい水音がこだまする。
さっきまでの暗闇が嘘みたいに、そこは遠大な水中――透明な碧色の世界が広がっている。
下を見ると――深碧の世界の底で揺れて踊る、海藻たちの神楽。
浮かんでくる無数の水泡は、上方に至るほど薄碧色に染まり、さらに昇っていって明るい空色に消えてゆく。
わたしは。――そうか、わたし。わたしがいる。
わたしは自分の体を見る。
――どうやらいつもの
髪がほどけて、頬と首に絡む。
ああ、まるで現実みたいだ。――そんなことを思ったとき、目の前に現れたのは青い光。
宮にあるいくつかの書物に記されていた、海に住む生き物だ。海月……。ということは、ここは海なのか。
りん、と音を放って、その透明な海月は仄青く輝いて水の中を泳いでくる。
これもまた透明な、棘だった細い紐の脚を漂わせて、近づいてくる。
再び、りん、と鳴るのだが、「来たれ」と
そうか、呼んでいるのか。
だとしたら、『
神の
――だとしたら、出会えるかも知れない。
そんな、うまくゆくような予感がした。何となくだけれど。何とかなる。きっと。これほど温かいのだから。
わたしは手足をばたつかせ、白衣の袖が水に引っ張っられる中、底の方へ泳いでいった。
海月は青い光を放っては、来たれ、来たれ、と鳴いた。
海藻の森の中、水泡と色鮮やかな小魚たちを横目に、深く潜ってゆく。
水はさらに温かく、くすぐったくなってくる。
そこで海月はまた、りん、と音を放ち、濃く青い光を放った。
わたしはびくりと顔を上げて、海月の
すらりとした女の姿が、海藻と泡の淡い膜の向こうにある。碧色の緩やかな衣をまとい、踊っているような。
それは、かのお方の姿。水の女神たる、かのお方。
まるで、秋の豊穣祭の舞手のように腕をたわめ、手を動かし、顔を傾ける。
母親めいた優しい顔に、ふと、わたしは故郷の母を思う。幾度もほつれた麻の着物を繕ってくれた母。雷鳴の夜に子守唄を聴かせてくれた母。いまはもう、遠く離れてしまったけれど。
――その柔らかい表情は、気ままな海流のような微笑に変わった。女神――
――目が潰れてしまう。と恐怖したけれど、そうはならなかった。
ただ、声が聞こえてきた。水音に紛れて、
「これはまた、巫女か。――よう来よるのう」
体を震わせてくるその声に対して、わたしは何と答えるべきかわからなかった。けれど、先刻に感じた予感のことを思い出す。――そうだ、きっとうまくいく。この温かい海は、これ以上なく心地よいのだから。
「
わたしがそう云うと、水奈弥様は海藻の森の向こうで、また踊るように体を動かして、
「この深淵に訪れたのはよいが。――あいにく、
「え…………」
両手を握り締め、またわたしは何も云えなくなった。そこに、水奈弥様の声がする。
「夢は夢のままよ。のう、巫女なる者よ。――されどいずれ、まみえようぞ。そなたの、まことの
水奈弥様の右手が動いたかと思うと、足元から泡の音が湧き上がってきた。無数の水泡に囲まれ、ごうごうという水音が体を包む。
最後に見えたのは、ふわりと輝く海月の、青い光だった。
青い残光の中、水流に揉みくちゃにされ、押し流されて、上昇してゆく。
明るい空色の中へ……。
目を開けると、目の前に一人の巫女がいた。
すらりとした巫女が片膝を立てて座って、じっとわたしを見ていた。その細い目で、優しげに。
――そこは光り立つような白木の壁と床に囲まれた部屋だ。
木の柔らかな匂いが満ちている。春風が外の木々を揺すり、ざわめきが聞こえてくる。窓から少し風が吹き込んできて、埃の陰影が舞った。
「首尾はどうだった?
と、目の前の巫女――
「そうか、いいさ。――いつか、たどり着けようよ」
と、小さくうなずいた。
白木の壁には、ぼうと、あの海月の青い光が浮かぶようで。
(おわり)
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