第43話 虚無王の玉座

扉の向こうは、想像を絶する空間だった。


天も地もない、ただ虚無だけが広がる世界。足元には何もないはずなのに、なぜか立っていられる。上下左右の感覚が失われ、ただ前方に見える玉座だけが、唯一の目印だった。


「これが...虚無王の領域」


翔太の声が、虚空に吸い込まれていく。音さえも、この空間では意味を失うかのようだった。


玉座は、純粋な闇で作られていた。その大きさは山ほどもあり、座っている存在の巨大さを物語っている。しかし、その材質は石でも金属でもない。まるで、虚無そのものが形を成したかのような、不思議な存在感を放っていた。


そして、その玉座に——


一人の男が座っていた。


黒い鎧に身を包み、顔は兜で隠されている。しかし、その佇まいから感じる圧倒的な存在感は、始原の影など比較にならない。ただそこにいるだけで、世界そのものが軋むような、そんな重圧。


「よく来たな、運命の子よ」


虚無王の声が響く。それは意外なほど、静かで穏やかな声だった。まるで、長い時を待ち続けた者の、深い諦念を含んだような。


「千年ぶりの客人だ」


虚無王がゆっくりと立ち上がる。その瞬間、空間が軋んだ。いや、軋んだという表現すら生ぬるい。世界そのものが、彼の動きに合わせて歪んでいく。


エリーゼの体が、激しく震え始めた。


「この感覚...知っている...」


彼女の紋様が、今までにない輝きを放つ。腹部から溢れ出る金色の光が、虚無の闇を僅かに押し返していく。


「そう、お前は知っているはずだ」


虚無王が一歩前に出る。


「なぜなら、お前は——」



虚無王が兜を外した。


その顔は、驚くほど若かった。


二十代後半、端正な顔立ち。しかし、その瞳には千年の悲しみが宿っている。深い青の瞳は、まるで凍りついた海のように、底知れぬ哀しみを湛えていた。


「我が名はアルトゥール。かつて、この世界最強の英雄と呼ばれた男だ」


その名を聞いて、グレイスが息を呑んだ。


「伝説の英雄アルトゥール...千年前に行方不明になった...」


老浄化士の顔が青ざめる。その名は、浄化士たちの間で語り継がれる伝説だった。最強の英雄にして、最初の浄化王。しかし、ある日突然姿を消し、二度と戻らなかった男。


「そうだ。私はかつて、君と同じ道を歩んだ」


アルトゥールの視線が翔太に向けられる。


「浄化の力を極め、人々から称賛され、そして...愛する者を得た」


その声に、微かな震えが混じる。千年経っても癒えない、深い傷の痛み。


「彼女の名はエリーシア。この国の王女だった」


エリーゼが、はっと息を呑む。


「まさか...」


「そう、お前の先祖だ。そして——」


アルトゥールの瞳に、一瞬だけ優しさが宿る。


「お前は、エリーシアの生まれ変わりだ」


空間が、静寂に包まれた。


誰も、言葉を発することができない。あまりにも衝撃的な真実に、全員が凍りついていた。


翔太が、震える声で問いかける。


「なぜ...なぜ虚無王になった?」


アルトゥールは、遠い目をした。千年前の記憶を、今でも鮮明に覚えているかのように。


「愛ゆえだ」


その一言に、すべての悲劇が込められていた。


「千年前、世界は今と同じように虚無の脅威に晒されていた。私は浄化王として戦い、勝利を重ねた。しかし、最後の戦いで...」


彼の拳が、ギリと握られる。


「エリーシアが、虚無に侵食された」



「私は、彼女を救おうとした」


アルトゥールの声が、虚空に響く。


「禁忌とされていた封印術。世界そのものを書き換える、究極の力。私はそれを使った」


ミーナが息を呑む。魔導師として、その危険性を理解できるから。


「世界を書き換える...?そんなことが...」


「可能だ。ただし、代償は大きい」


アルトゥールが手を掲げると、空間に映像が浮かび上がった。千年前の記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に再現される。


そこには、若きアルトゥールと、美しい王女の姿があった。


エリーシアは、エリーゼにそっくりだった。いや、当然だ。彼女こそが、エリーゼの前世なのだから。


「エリーシア、必ず救ってみせる」


若きアルトゥールが、禁断の術式を展開する。


しかし——


「術式が...暴走した」


映像の中で、光が爆発する。エリーシアの体が、虚無に飲み込まれていく。


「アルトゥール!」


彼女の最後の叫びが、虚空に響いた。


そして、すべてが闇に包まれた。


「私は、愛する者を救おうとして、逆に殺してしまった」


現在のアルトゥールの顔に、深い絶望が浮かぶ。


「その時、私は理解した。愛こそが、最大の苦痛を生む源だと」


彼の体から、虚無のオーラが溢れ出す。


「だから私は、虚無を受け入れた。この世界から、すべての痛みを消し去るために」


エリーゼが、震える声で問いかける。


「千年かけて...私を探していたの?」


「そうだ」


アルトゥールの瞳に、狂気と愛情が混在する。


「千年かけて、ようやく見つけた。もう一度、正しくやり直すために」



その頃、氷の迷宮では——


「クリスタル様!」


リクの叫びが、氷の回廊に響き渡る。


氷の玉座に、クリスタルが囚われていた。しかし、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜けているかのよう。美しい氷の髪は、虚無の黒に染まり始めていた。


「遅かったか...」


タオが苦い表情を浮かべる。双子の弟レイも、悔しそうに拳を握りしめた。


「いや、まだ間に合う」


レオが前に出る。少年の瞳に、強い決意が宿っていた。


「クリスタル様、聞こえますか?」


レオが小さな浄化の光を放つ。それは、とても弱い光だった。しかし、その光には純粋な想いが込められている。


クリスタルの瞳が、微かに動いた。


「リク...?」


かすれた声が、彼女の唇から漏れる。


「そうだ! 俺だ、リクだ!」


勇者が駆け寄る。しかし、次の瞬間——


「殺して...私を...」


クリスタルの瞳から、涙が零れた。


「もう...戻れない...虚無に...飲まれて...」


彼女の体が、氷の女王へと変貌し始める。


「いやだ! 絶対に諦めない!」


レオが必死に浄化を続ける。少年の純粋な力が、僅かだがクリスタルの虚無を押し返していく。


「レオ...」


リクが少年の肩に手を置く。


「お前の力が必要だ。一緒に、クリスタル様を救おう」


しかし、その時——


氷の迷宮全体が、激しく震動し始めた。


「崩壊が始まった!」


レイが叫ぶ。


「残り時間は...2時間もない!」



虚無王の玉座で、翔太とアルトゥールが対峙していた。


「愛とは何だ?」


アルトゥールの問いかけに、翔太が答える。


「守りたいと思う気持ち」


「違う」


虚無王が首を振る。


「愛とは、究極の自己犠牲だ。自分のすべてを投げ出してでも、相手を守ろうとする狂気。だからこそ、愛は人を狂わせる」


その言葉に、一理あると翔太も感じた。確かに、愛する者のためなら、人は何でもする。それが時に、悲劇を生む。


「でも、それでも——」


翔太が拳を握る。


「愛があるから、人は強くなれる。誰かを守りたいと思うから、限界を超えられる」


「綺麗事だ」


アルトゥールが冷たく言い放つ。


「では聞こう。もしエリーゼを救うために、世界を犠牲にしなければならないとしたら?」


翔太が、言葉に詰まる。


その隙を突いて、アルトゥールが続ける。


「私は、その選択を迫られた。そして、間違えた。だから今度は、別の道を選ぶ」


彼が手を広げる。


「痛みのない世界を作る。誰も失わずに済む世界。それが、エリーシアへの償いだ」


「それは違う!」


エリーゼが叫んだ。


「痛みがあるから、喜びがある。失う恐れがあるから、大切にできる。それが、生きるということよ!」


千年前の記憶が、彼女の中で蘇る。


エリーシアとして生きた日々。アルトゥールと過ごした幸せな時間。そして、最後の瞬間——


「私は...あなたを恨んでなんかいない」


エリーゼの瞳から、涙が溢れる。


「エリーシアも、きっと同じ気持ちだった。あなたが救おうとしてくれたこと、嬉しかったはず」


アルトゥールの表情が、微かに揺れる。


「嘘だ...」


「本当よ」


エリーゼが一歩前に出る。


「だって、愛しているから」



エリーゼの中で、千年前の記憶が完全に蘇った。


「アルトゥール...」


涙が頬を伝う。前世の記憶と、今世の想いが交錯する。


確かに、彼女はエリーシアだった。千年前、アルトゥールを愛し、そして虚無に飲まれた王女。しかし同時に、彼女はエリーゼでもある。翔太を愛し、この時代を生きる女性。


「私は、エリーシアであり、エリーゼ」


彼女の声が、玉座の間に響く。


「でも、今愛しているのは——翔太よ」


その言葉に、アルトゥールの顔が歪む。


「裏切るのか、私を」


「違う」


エリーゼが首を振る。


「千年前、あなたは間違えた。愛は所有じゃない。相手の幸せを願うこと。だから私は、この世界を守る」


彼女の封印の紋様が、激しく脈動し始める。


「共に虚無となり、永遠に一緒にいよう」


アルトゥールが手を差し伸べる。


「いいえ」


エリーゼがきっぱりと拒絶する。


「私は...翔太と生きたい」


次の瞬間、封印の紋様が暴走し始めた。


金色の光が、エリーゼの全身を包み込む。彼女の体が、半透明になっていく。


「エリーゼ!」


翔太が駆け寄る。しかし、彼女の体は実体を失いつつあった。


「大丈夫...これが、私の選択」


エリーゼが微笑む。


「世界を守るために、私は封印と一体化する」


「そんな...」


「でも、消えるわけじゃない。ずっと、あなたのそばにいる」


彼女の手が、翔太の頬に触れる。もう、ほとんど感触はない。それでも、温かさだけは伝わってきた。



「そうか...ならば、力ずくでも」


虚無王が手を掲げると、空間が歪み始めた。


【虚無の支配】


圧倒的な力が、精鋭部隊を襲う。


50名の内、30名が一瞬で虚無に飲み込まれた。存在そのものが、この世界から消え去っていく。


「みんな!」


翔太が叫ぶ。しかし、もう遅い。


消えた者たちの最後の言葉が、虚空に響く。


「浄化王様...後は...頼みます...」


「く...くそっ!」


ヴァルガスが剣を構える。しかし、その剣も虚無の前では無力だった。


「愛の連鎖だ!」


エリーゼが叫ぶ。


残った20名が、互いに手を繋ぐ。翔太とエリーゼの愛の力が、全員に伝播していく。


しかし——


「無駄だ」


虚無王の一撃が、愛の連鎖を砕く。


「愛こそが、最大の虚無の源だ」


アルトゥールの言葉が、重くのしかかる。


その時だった。


「若い者たちよ、後は頼んだ」


グレイスとアルテミスが、前に出た。


二人の老浄化士が、命を燃やし始める。


【最終奥義・生命の浄化】


自らの命と引き換えに、究極の浄化を放つ。それは、浄化士が最後に使える、文字通りの最終手段。


「グレイス様! アルテミス様!」


レオが叫ぶ。しかし、二人は優しく微笑むだけだった。


「レオ、お前は立派な浄化士になった」


グレイスが言う。


「これからは、お前たちの時代だ」


アルテミスも頷く。


「クリスタルを...頼む」


二人の体が、純粋な光となって虚無王に向かっていく。


その光は、千年の闇をも貫く、希望の輝きだった。



グレイスとアルテミスが、光となって消えていく。


「ありがとう...」


翔太が拳を握り締める。二人の犠牲で、虚無王に初めて傷がついた。黒い鎧に、一筋の亀裂が走っている。


「興味深い」


虚無王が傷口を見つめる。


「千年ぶりに、痛みを感じた」


彼の指が、傷口に触れる。そこから、黒い血が一滴、虚空に落ちた。


「だが、これでは足りない」


虚無王が両手を広げると、玉座の間全体が震動し始めた。


「見せてやろう。真の虚無の力を」


【虚無界・展開】


空間が、別の次元へと変貌していく。


そこは、何もない世界。


音も、光も、温度も、全てが失われた空間。ただ、意識だけが漂う、究極の虚無。


「この世界で、お前たちの愛は保てるか?」


虚無王の声が、直接脳内に響く。


エリーゼの体が、完全に透明になった。


「エリーゼ!」


翔太が手を伸ばすが、触れることができない。彼女の存在が、この世界から消えかけている。


「翔太...私...消えて...」


彼女の声も、もうほとんど聞こえない。


ミーナが必死に魔法を使うが、虚無界では魔力さえも意味を失う。


カールの聖剣も、ただの鉄の塊と化していた。


「これが、虚無の真実だ」


アルトゥールの声が響く。


「すべてが無意味になる世界。痛みも、喜びも、愛さえも」


翔太が膝をつく。


愛の浄化も、調和の力も、この究極の虚無の前では無力だった。


その時——


上空から声が響いた。


「翔太! クリスタル様を連れてきた!」


リクの声だった。


しかし、その声は絶望に満ちていた。


「でも...もう...」


虚無に侵食されたクリスタルが、氷の女王として降臨する。


彼女の瞳は完全に黒く染まり、全身から虚無の冷気が溢れ出していた。


「クリスタル...」


ヴァルガスが愕然とする。


最悪の状況。


仲間は次々と倒れ、エリーゼは消えかけ、クリスタルは敵となった。


「これが、お前たちの選んだ結末だ」


虚無王が、最後の審判を下そうとしていた。


巨大な虚無の刃が、翔太たちに向けて振り下ろされる。


もう、逃げ場はない。


しかし——


翔太の胸で、太陽の欠片が激しく震えていた。


「まだ...終わってない」


少年が立ち上がる。


「みんなの想いが、ここにある限り」


太陽の欠片が、眩い光を放ち始める。


それは、第二の太陽からの最後の贈り物。


「使えるのは、一度だけ」


翔太が欠片を掲げる。


「だから——今だ!」


光が爆発する。


虚無界に、一瞬だけ太陽が昇った。


「なに...!?」


虚無王が、初めて驚愕の表情を見せた。


その隙を、翔太は見逃さなかった。

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