第35話 氷の迷宮

重傷者を抱えての帰路は、地獄だった。


カールは完全に意識を失い、俺とリクが交代で背負った。彼の体は所々が透けていて、まるで消えかけの幽霊のようだ。鎧の金属が氷のように冷たく、触れるたびに俺の体温を奪っていく。ソフィアは意識はあるものの、右腕がほぼ透明になり、マルコに支えられながらやっと歩いている。彼女の顔は蒼白で、唇からは白い息が漏れ続けていた。


「もう少しだ、頑張れ」


俺の励ましに、ソフィアが弱々しく微笑んだ。その笑顔さえも、どこか儚げで今にも消えてしまいそうだった。


マルコの左足は、歩くたびに不自然に震えている。消失した部分を、意志の力だけで動かしているのだ。額には脂汗が浮かび、歯を食いしばりながら一歩一歩を踏み出している。


王都の城門が見えた時、誰もが安堵の息を漏らした。しかし、その安堵も束の間のものだった。


「掃除士様たちが帰ってきた!」


子供の声が響いた。次の瞬間、城門から大勢の人々が駆け出してきた。期待と不安が入り混じった表情で、俺たちを迎える。


「勝ったのか?」「虚無は消えたのか?」「村の人たちは?」


矢継ぎ早の質問に、俺は首を横に振るしかなかった。


「不完全な勝利だ。虚無の穴は縮小したが、完全には塞げなかった」


人々の顔に、落胆と不安の色が広がる。それでも、彼らは俺たちを責めなかった。むしろ、生きて帰ってきたことを喜んでくれた。


王宮の謁見の間で、国王陛下への報告を行った。


「虚無の穴は米粒大まで縮小しましたが、完全には消えていません」俺は正直に報告した。「継続的な監視が必要です」


国王陛下は深くため息をついた。その顔には、一国の主としての重責が刻まれている。


「監視隊を常駐させる必要があるな」陛下は決断を下した。「それと、新たな脅威に備えて、浄化士の増強も急がねば」


報告を終えて退出しようとした時、エリーゼが突然よろめいた。


「エリーゼ!」


俺が支えようとした瞬間、彼女は膝をついた。顔面蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。


「大丈夫...少し疲れただけ」


彼女はそう言って微笑もうとしたが、その笑顔は明らかに無理をしていた。世界樹の魔法を使った反動だろうか。あれほど巨大な力を解放したのだから、体への負担は計り知れない。


「休養が必要ね」ミーナが心配そうに言った。「最低でも3日は安静にしないと」


俺はエリーゼを抱き上げた。彼女の体は、羽のように軽く、そして氷のように冷たかった。



翌朝、事態は急変した。


まだ朝靄が残る時刻、王宮に緊急の使者が駆け込んできた。北方のノーザリア王国からの急使だった。


「巨大な氷の迷宮が一夜で出現しました!」


使者は息を切らしながら報告した。彼の髪と眉には霜が付着し、全身が小刻みに震えている。まるで極寒の地から逃げてきたかのようだ。


「氷の迷宮?」俺は聞き返した。


「はい。昨夜、轟音と共に大地が割れ、そこから巨大な氷の城のような構造物が現れたのです」使者の声は恐怖で震えていた。「高さは100メートルを超え、周囲の気温は真夏だというのにマイナス30度まで下がりました」


国王陛下が身を乗り出した。「調査隊は?」


「送りました。精鋭の騎士団20名です。しかし...」使者は顔を歪めた。「誰一人、帰ってきません」


重い沈黙が謁見の間を包んだ。


「それだけではありません」使者は続けた。「迷宮からは、美しい歌声が聞こえてくるのです。まるで天使の歌声のような...しかし、その歌を聞いた者は、吸い寄せられるように迷宮へ向かってしまいます」


グスタフ老が、古文書を抱えて現れた。


「これを見つけました」老学者は震える手で、黄ばんだ羊皮紙を広げた。「『氷姫クリスタルの伝説』です」


俺たちは古文書を覗き込んだ。そこには、美しい女性の肖像画が描かれている。銀髪に青い瞳、透き通るような白い肌。まるで氷の彫刻のような、この世のものとは思えない美しさ。


「クリスタル・フォン・ノーザリア」グスタフ老が読み上げた。「500年前のノーザリア王国第一王女。当時最強の氷魔導師と謳われた女性です」


ミーナが息を呑んだ。「500年前...最初の虚無侵攻の時期ね」


「その通りです」老学者は頷いた。「記録によれば、彼女は一人で虚無の大軍を食い止めました。しかし、その代償として虚無に飲まれ、消息を絶ったとあります」


「まさか...」俺は嫌な予感がした。「生きているのか?」


「分かりません」グスタフ老は首を振った。「ただ、もし生きているとすれば...虚無に取り込まれた状態で500年。もはや人間ではないでしょう」


エリーゼは療養中のため、チーム編成を再検討する必要があった。


「重傷者は王都に残れ」俺は決断した。「カール、ソフィア、マルコ。君たちは療養に専念してくれ」


三人は悔しそうな表情を見せたが、自分たちの状態を理解していた。


「代わりに、新しいメンバーを加える」


扉が開き、三人の人物が入ってきた。


最初の一人は、威厳のある壮年の女性だった。浄化士ギルドの紋章を身に着けている。


「お久しぶりです、翔太殿」彼女は凛とした声で挨拶した。「以前から浄化士ギルド北部支部長として活動していたアルテミスです。レベル55の上級浄化士として、今回の任務に参加させていただきます」


俺は頷いた。確かに、ギルド設立当初から北部支部を任せていた信頼できる人物だ。


次に入ってきたのは、瓜二つの双子だった。どちらも20歳前後で、赤い髪と緑の瞳を持っている。


「王国が誇る双子の魔法戦士として名高いタオとレイです」グスタフ老が紹介した。「二人の連携は、まさに芸術的と評判なのです」


「俺はタオ」「私はレイ」


二人は息の合った動きで自己紹介した。「双子の魔法戦士です。レベルは二人とも40です。以前から国軍の特殊部隊で活動していましたが、今回の危機に際して派遣されました」


「心強い」俺は感謝を込めて言った。「よろしく頼む」


出発の準備中、レオが俺の元へやってきた。


「翔太さん」少年の目は決意に満ちていた。「今度は逃げません。絶対に」


俺は彼の肩に手を置いた。「無理はするな。でも、君の純粋な力は必要だ」


その時、ローラが新しい薬品を持ってきた。


「これを」彼女は青白く光る液体の入った瓶を差し出した。「『耐寒浄化薬』です。極寒でも浄化力を維持できます」


「ありがとう、ローラ」俺は感謝した。「君も本当に成長したな」


彼女は照れくさそうに微笑んだ。



氷の迷宮は、想像を絶する光景だった。


真夏の平原に、突如として現れた氷の宮殿。その壁面は複雑な幾何学模様で覆われ、太陽の光を受けて虹色に輝いている。美しいが、同時に恐ろしい。まるで死の美学を体現したかのような建造物。


迷宮に近づくにつれ、気温が急激に下がった。


吐く息が白く、肌を刺すような冷気が襲いかかる。真夏だというのに、まるで真冬の最も寒い日のようだ。草木は凍りつき、地面にはつららが逆さまに生えている。


「マイナス30度...いや、もっと低いかも」アルテミスが震えながら言った。


迷宮の壁は、生きているかのように脈動していた。氷の表面に、血管のような模様が浮かび上がり、青白い光が明滅している。触れれば即座に凍りつきそうな、死の壁。


入口には、無数の氷の彫刻が並んでいた。


よく見ると、それは彫刻ではなかった。


「これは...人だ」リクが青ざめた。


調査隊の騎士たちだった。完全に凍りついて、氷の彫像と化している。その表情は恐怖に歪んでおり、何かから逃げようとした瞬間に凍結されたようだった。


美しい歌声が、迷宮の奥から聞こえてきた。


それは確かに美しかった。しかし、その美しさの中に、深い悲しみと狂気が潜んでいる。聞いているだけで、心が凍りついていくような歌。


「耳を塞げ!」俺は叫んだ。


しかし、レオは既に歌声に魅入られていた。ふらふらと迷宮へ向かって歩き始める。


「レオ!」


タオとレイが素早く動き、レオを取り押さえた。少年は夢遊病者のように、虚ろな目で迷宮を見つめている。


「浄化!」


俺の浄化の光が、レオを包んだ。少年の目に正気が戻る。


「あ...僕は...」


「大丈夫だ」俺は安心させるように言った。「歌声には気をつけろ。精神を侵食してくる」


迷宮に足を踏み入れた瞬間、景色が一変した。


外から見た時とは比較にならないほど、内部は広大だった。天井は見えないほど高く、通路は複雑に入り組んでいる。壁面には無数の氷の結晶が生えており、その一つ一つが違う角度で光を反射している。


「空間が歪んでいる」ミーナが分析した。「内部は外見の何倍もの広さがあるわ」


最初の部屋に入った瞬間、扉が音もなく閉まった。


振り返ると、そこには扉などなかった。ただの氷の壁。


「罠か」リクが剣を抜いた。


部屋の中央に、巨大な氷の鏡が立っていた。いや、鏡ではない。無数の鏡が、まるで万華鏡のように組み合わさっている。


鏡に映った自分の姿を見て、俺は息を呑んだ。


そこに映っていたのは、俺ではなかった。


レベル1の、最弱と呼ばれていた頃の俺だった。みすぼらしい服を着て、小さな箒を持ち、怯えた表情で震えている。


「なんだこれは...」


他の仲間たちも、鏡に映る自分の姿に衝撃を受けていた。それぞれが、自分の最も恐れる姿、最も弱かった時の姿を映し出されている。


レオの鏡には、特に残酷な光景が映っていた。


「みんなの足手まとい」


鏡の中のレオが、泣きながら呟いている。仲間たちに見捨てられ、一人で虚無に飲まれていく姿。


「違う!」レオは叫んだ。「これは幻だ!」


しかし、鏡は容赦なく恐怖を映し続ける。


その時、レオが前に踏み出した。


「確かに僕は弱い」少年の声は震えていたが、確かな意志が込められていた。「足手まといかもしれない。でも...」


彼は浄化の杖を構えた。


「それでも前に進む!みんなと一緒に戦うんだ!」


レオの純粋な決意が、浄化の光となって鏡を砕いた。


ガラスが割れる音と共に、幻影が消えた。部屋の奥に、新たな通路が現れる。


「よくやった、レオ」俺は少年の頭を撫でた。


彼は誇らしげに、そして少し照れくさそうに微笑んだ。



迷宮の深部へ進むにつれ、敵が現れ始めた。


氷でできた騎士。虚無の力を纏い、青白く光る鎧を身に着けている。その動きは機械的で、まるで操り人形のようだった。


「レベル45...虚無騎士(氷)」ミーナが分析した。


騎士の一体が、リクを指差した。


「貴殿と一騎打ちを所望する」


機械的な声だったが、どこか騎士道精神が残っているような響きがあった。


リクは躊躇なく前に出た。「受けて立つ」


二人の剣が交差した瞬間、激しい火花が散った。いや、火花ではない。氷の破片が、まるで花火のように飛び散った。


虚無騎士の剣技は見事だった。500年前の剣術そのままに、優雅で、そして致命的。一撃一撃が、確実に急所を狙ってくる。


リクは防戦一方だった。レベル差もあるが、それ以上に相手の剣技が優れている。


「リク!」ミーナが助けようとした。


「来るな!」リクは叫んだ。「これは俺の戦いだ!」


虚無騎士の剣が、リクの肩を切り裂いた。鮮血が氷の床に散る。


しかし、リクは倒れなかった。


「まだだ...まだ終わってない!」


彼の体が光り始めた。レベル45から、46、47...そして50。


真の勇者への覚醒が起きていた。


「勇者剣・破邪!」


新たな技が発動した。リクの剣が黄金に輝き、聖なる力を纏う。それは虚無を断ち切る、真の勇者だけが使える究極の剣技。


一閃。


虚無騎士の体が真っ二つに切断された。しかし、崩れ落ちる瞬間、騎士は満足げに呟いた。


「見事...」


氷の破片となって散る騎士の姿は、どこか安らかだった。


「これが...真の勇者の力!」リクは自分の剣を見つめた。


レベル50に到達した彼の姿は、以前とは明らかに違っていた。オーラが違う。存在感が違う。まるで伝説の英雄のような、圧倒的な威圧感を放っている。


残留思念の声が、壁から聞こえてきた。


「寒い...寂しい...」

「誰か...温めて...」

「500年...ずっと一人...」


それは、この迷宮に囚われた人々の声だった。500年前、虚無から逃れてここに避難したが、氷に閉じ込められてしまった人々。


アルテミスが涙を流した。「なんて悲しい...」



最深部への扉は、巨大な氷の門だった。


その表面には、複雑な紋様が刻まれている。よく見ると、それは文字だった。古代ノーザリア語で書かれた警告文。


「立ち去れ...これより先は死の世界...」タオが読み上げた。


「でも、進むしかない」俺は決意を固めた。


門を押し開くと、そこは巨大な玉座の間だった。


天井は星空のように高く、無数の氷のシャンデリアが吊るされている。床は鏡のように磨き上げられ、俺たちの姿を映している。そして中央には、氷でできた巨大な玉座。


玉座に、彼女は座っていた。


銀髪、青い瞳、透き通るような白い肌。グスタフ老が見せてくれた肖像画そのままの姿。500年の時を経ても、その美しさは全く衰えていなかった。


いや、違う。


よく見ると、彼女の体の半分が黒く染まっている。虚無に侵食されているのだ。右半身は人間の美しさを保っているが、左半身は虚無の闇に覆われている。


「ようこそ、若き浄化士たち」


彼女の声は美しかった。しかし、その美しさの奥に、深い悲しみが潜んでいる。


頭上にレベルが表示された。


【???】


測定不能。俺のステータス確認でも、数値が表示されない。


「私はクリスタル」彼女は静かに名乗った。「虚無の使者第五位にして、かつてノーザリア王国第一王女だった者」


虚無の使者。しかも第五位。第六位でさえあれほどの強さだったのに、第五位となると...


「500年前の真実を、お話ししましょう」


クリスタルは立ち上がった。その動きは優雅で、まるで舞を踊るようだった。


「私はかつて、この国最強の守護者でした」彼女の目が遠くを見つめる。「虚無が最初に侵攻してきた時、私は一人で立ち向かいました。愛する人々を、愛する国を守るために」


氷の玉座が形を変え、500年前の光景を映し出した。


若きクリスタルが、巨大な虚無の軍勢と戦っている。彼女の氷魔法は圧倒的で、虚無の軍勢を次々と凍結させていく。しかし、敵は無限に湧いてくる。


「三日三晩、戦い続けました」クリスタルの声が震えた。「そして、限界を超えた時...虚無が私に語りかけてきたのです」


『力を求めるか?』


『愛する者を守る力を』


「私は...受け入れてしまった」


彼女の左半身の虚無が、脈動した。


「虚無の力を得て、私は軍勢を退けました。しかし、代償として...私自身が虚無に取り込まれてしまった」


クリスタルが手を上げると、部屋の温度がさらに下がった。マイナス50度。呼吸するだけで肺が凍りつきそうだ。


「私は...もう人間ではない」


彼女の瞳から、一筋の涙が流れた。しかし、それは頬に達する前に凍りついて、氷の欠片となって砕け散った。


「でも、まだ自我は残っている。だから...」


クリスタルが両手を広げた。


「戦いましょう。それが、虚無の使者としての私の役目」


戦闘が始まった。


クリスタルの攻撃は、氷魔法と虚無の力が融合した、全く新しいものだった。


「氷結虚無・永遠の静寂!」


彼女が杖を振ると、空間そのものが凍結した。触れたものを瞬時に凍らせ、同時に存在を消失させる恐ろしい魔法。


アルテミスの左腕が凍結し、消失し始めた。


「アルテミス!」


双子のタオとレイが、同時に魔法を放つ。炎と風の合体魔法が、凍結を一時的に止める。


しかし、クリスタルの力は圧倒的だった。


「これが500年の蓄積よ」


氷の槍が無数に出現し、雨のように降り注ぐ。それぞれが虚無を纏い、防御すら許さない。


その時、リクが前に出た。


「俺が時間を稼ぐ!」


真勇者の力を解放したリクが、単独でクリスタルに挑む。


「勇者剣・破邪!」


黄金の剣撃が、クリスタルの氷を切り裂いた。初めて、彼女の攻撃が破られた瞬間だった。


「まさか...」クリスタルが驚きの表情を見せた。「真の勇者が、この時代に...」


リクの猛攻が続く。レベル50の力を最大限に発揮し、仲間を守るために戦う。その姿は、まさに伝説の勇者そのものだった。



戦いの最中、クリスタルの攻撃が一瞬緩んだ。


彼女の右目、人間の部分から、涙が流れていた。


「本当は...」彼女の声が震えた。「誰かに止めてほしかった」


500年間の孤独と苦しみが、その一言に込められていた。


俺は浄化の杖を下ろし、前に出た。


「クリスタルさん」


「何を...」


「あなたはまだ人間だ」俺は真っ直ぐ彼女を見つめた。「500年経っても、涙を流せる。それが何よりの証拠だ」


クリスタルの動きが止まった。


「虚無に負けないで」俺は続けた。「あなたの中には、まだ愛が残っている」


エリーゼから教わった調和浄化を試みた。しかし、一人では力が足りない。虚無の侵食が深すぎる。


それでも、一瞬だけ、彼女の左半身の虚無が薄れた。


その瞬間、クリスタルの表情が変わった。正気が戻ったような、解放されたような表情。


「ありがとう...」彼女は微笑んだ。「でも、もう遅いの」


虚無が再び彼女を覆い始める。


「虚無王が目覚めつつある」クリスタルは警告した。「あと一ヶ月...いや、もっと早いかもしれない」


彼女の表情が苦痛に歪んだ。


「第四位から第一位は、私とは比較にならない強さよ。特に第一位は...」


彼女の声が震えた。


「第一位は虚無王の直属。まだ姿を見せていないのは、虚無王の復活を待っているから。なぜ姿を見せないのか、私たちにも分からない...」


言いかけて、彼女は口を閉じた。虚無に、それ以上の情報を話すことを禁じられたようだった。


突然、クリスタルが自分の胸に手を当てた。


そして、自らの体の一部を抉り取った。


「これを」


彼女が投げ渡したのは、黒く光る結晶だった。虚無の欠片。しかし、普通の虚無とは違う。クリスタルの意志が込められている。


「これを解析すれば...対抗策が見つかるかもしれない」


欠片を渡す彼女の手は、震えていた。自分の体の一部を削り取る激痛に耐えながら、それでも俺たちを助けようとしている。


「なぜ...」


「まだ...人間の心が残っているから」クリスタルは苦笑した。「次に会う時は...完全な敵として現れるでしょう」


彼女の体が透明になり始めた。氷の迷宮と共に、消失しようとしている。


「その時は...どうか私を解放して」


最後の言葉は、懇願だった。


「この永遠の苦しみから...」


クリスタルの姿が完全に消え、氷の迷宮が崩壊を始めた。


「逃げろ!」


俺たちは全力で走った。


崩れる氷の回廊、砕ける氷の壁、落下する氷のシャンデリア。全てが俺たちを押し潰そうとしている。


その中で、レオが輝いた。


「こっちだ!」


少年の純粋な直感が、安全な道を見つけ出す。彼が先導し、俺たちは崩壊する迷宮から脱出した。


外に出た瞬間、迷宮は完全に崩壊し、氷の欠片となって散った。


後には、何も残らなかった。まるで最初から何もなかったかのように、平原が広がっているだけ。



野営地で、俺たちは虚無の欠片を囲んだ。


ソフィアが王都から駆けつけてきた。右腕はまだ透けているが、分析への情熱が彼女を動かしていた。


「これは...信じられない」


彼女の分析魔法が、欠片の構造を解き明かしていく。


「虚無の本質が見えます。それは『存在の否定』ではなく、『存在の忘却』です」


「どういうことだ?」リクが尋ねた。


「虚無は、物を消すのではなく、『存在したことを忘れさせる』のです」ソフィアの声が震えた。「だから愛が対抗できる。愛は『忘れない』という意志そのものだから」


なるほど、だから夫婦の愛が虚無に抵抗できたのか。


リクが立ち上がった。レベル50に到達した彼の体から、新たな力が溢れている。


「新しいスキルを習得した」彼は誇らしげに言った。「『守護の誓い』。仲間全体の防御力を上げる」


光が仲間たちを包み、温かい守護の力が満ちていく。


「これなら、次の戦いでも...」


俺は拳を握りしめた。


「一ヶ月以内に対策を見つける」俺は決意を込めて言った。「そして、クリスタルも救いたい」


エリーゼのことを思い出した。彼女なら、きっと同じことを言うだろう。誰も見捨てない、全員を救う。それが俺たちの道だ。


夜が更けていく中、不穏な変化が起きていた。


エリーゼが療養している天幕から、小さなうめき声が聞こえた。覗いてみると、彼女が密かに腹部を押さえていた。苦しそうな表情だが、俺に気づくと無理に微笑んだ。


「大丈夫よ...ただの疲れ」


しかし、その顔色は明らかに悪かった。


外では、第二の太陽の明滅がさらに激しくなっていた。まるで断末魔の叫びのような、不規則な光の点滅。


そして、北の空に、一瞬だけ巨大な影が見えた。


山よりも大きく、雲よりも高い、途方もない巨大さの何か。それは一瞬で消えたが、その圧倒的な存在感は、俺の脳裏に焼き付いた。


虚無王。


その名前が、自然と頭に浮かんだ。


「虚無王の影が大きくなっている」アルテミスが不安そうに呟いた。「一ヶ月も持たないかもしれない。なぜ第一位の虚無の使者が姿を見せないのか、それも不安だわ」


一ヶ月。


それが、俺たちに残された時間。


「必ず、道を見つける」


俺は北の空を見上げながら、静かに誓った。


クリスタルの涙を、無駄にはしない。

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