第34話 虚無との対峙
夜明けは、来なかった。
正確に言えば、第二の太陽は昇ったが、その光は虚無の霧に阻まれ、地上には薄暗い影しか届かなかった。まるで世界が、永遠の黄昏に包まれたようだ。
誰も眠れなかった。
焚き火を囲んで座る仲間たちの顔は、疲労と決意が入り混じっている。救出した夫婦は、ローラの看護を受けながら、虚ろな目で炎を見つめていた。
「今日で、決着をつける」
俺の言葉に、全員が頷いた。もう後戻りはできない。
◆
「みんな、聞いてくれ」
俺は立ち上がり、仲間たちを見回した。誰もが真剣な表情で俺を見つめている。パチパチと焚き火の音だけが響く中、俺は深呼吸をした。
救出した夫婦も、毛布にくるまりながら顔を上げた。彼らの体は昨夜よりも実体を取り戻していたが、心の傷は深い。失った子供たちの記憶が、その瞳に影を落としている。
「大丈夫ですか?」エリーゼが優しく声をかけた。
妻が弱々しく頷いた。「あなたたちに...託します。もう私たちには戦う力はありません。でも...」
夫が続けた。「村の人たちの仇を...いえ、これ以上犠牲を出さないために、お願いします」
その言葉の重さが、胸に突き刺さる。
ローラが立ち上がった。薬師の彼女の手には、淡い光を放つ小瓶が握られている。
「これを」彼女は誇らしげに小瓶を掲げた。「一晩かけて作りました。『愛情調合薬』です」
ミーナが興味深そうに覗き込む。「愛情...調合薬?」
「はい。昨日の戦いで気づいたんです。愛の力が虚無に対抗できるなら、その力を薬に込められないかって」ローラの目が輝いた。「材料は普通の薬草ですが、調合の過程で愛情を込めました。みんなを守りたいという想いを」
小瓶の中の液体は、蜂蜜のような甘い香りを放っている。温かく、優しい香り。まるで母親の抱擁のような。
「効果は?」ソフィアが分析的な視線を向ける。
「浄化力を約2倍にします。ただし、30分が限界です」ローラは申し訳なさそうに付け加えた。「それ以上は、体が耐えられません」
「十分だ」俺は感謝を込めて言った。「ありがとう、ローラ」
その時、小さな声が上がった。
「僕も...僕も戦います!」
レオだった。昨日、虚無の影響で苦しんだあの少年が、震えながらも立ち上がっている。その手には、小さな浄化の杖が握られていた。
「レオ...」
「昨日は怖くて何もできませんでした」彼の声は震えているが、瞳には決意が宿っている。「でも、もう逃げません。翔太さんたちと一緒に戦いたいんです」
俺は微笑み、懐から小さな杖を取り出した。それは、俺が最初に使っていた浄化の杖を改良したものだ。
「これを君に」
レオの目が丸くなる。「でも、これは...」
「君なら使いこなせる。信じているよ」
杖を受け取ったレオの目に、涙が浮かんだ。マルコが彼の肩を叩く。鎧の金属音が、朝の静寂に響いた。
突然、空が明滅した。
第二の太陽が、激しく点滅している。まるで何かと戦っているような、不規則な光の明滅。時に強く、時に弱く、まるで苦しんでいるような。
「あれは...」エリーゼが不安そうに呟いた。
ソフィアが魔力探知の術式を展開する。青白い光の紋様が空中に浮かび上がり、複雑な幾何学模様を描いた。
「第二の太陽自体が、虚無と戦っています」彼女の顔が青ざめる。「このままでは、太陽さえも飲み込まれるかもしれません」
◆
作戦会議は、朝食を取りながら行われた。
レオとエリーゼが作った温かいスープが、冷えた体を温めてくれる。普通なら何気ない朝食の時間が、今日は特別な意味を持っていた。これが最後の食事になるかもしれない。その思いが、誰の心にもあった。
「ソフィア、昨夜の分析結果は?」俺は尋ねた。
ソフィアは手元の羊皮紙を広げた。そこには、黒い結晶の構造が詳細に描かれている。
「結晶の核は、見た目以上に深いです」彼女は図を指し示した。「地下深く、まるで『根』のように伸びています。世界そのものに侵食しているような...」
カールが眉をひそめた。「つまり、表面だけを浄化しても意味がないと?」
「その通りです。根本から断たなければ、また再生してしまうでしょう」
俺は考え込んだ。単純な力押しでは勝てない。戦略が必要だ。
「三段階作戦でいこう」俺は決断した。「第一段階は外殻の浄化。Cチームが担当する。ソフィア、レオ、そして志願者5名だ」
レオが緊張で身を固くした。ソフィアが彼の手を優しく握る。
「第二段階は中層への侵入。Bチームが道を切り開く。ミーナ、カール、ローラ、マルコ」
四人が頷く。ミーナの杖が微かに光を放った。
「そして第三段階。核心部の浄化は、Aチームが行う。俺とエリーゼ、リクだ」
リクが剣を抜いた。刃が朝の薄明かりを反射して、銀色に輝く。
「待って」エリーゼが手を挙げた。「もう一つ、提案があります」
全員の視線が彼女に集まる。
「『愛の連鎖』作戦です」彼女は微笑んだ。「最後は、全員で手を繋いで力を集中させましょう。一人一人の愛の力は小さくても、繋げば大きな力になるはずです」
「なるほど」ミーナが理解を示した。「調和浄化の応用ね」
「素晴らしいアイデアだ」俺は感心した。さすが俺の妻だ。
リクが突然、重い口を開いた。
「もし...最悪の場合」彼の声は低く、決意に満ちていた。「俺が盾になる。みんなを逃がすために」
「リク!」ミーナが悲鳴のような声を上げた。涙が頬を伝い始める。「そんなこと言わないで!」
「現実を見ろ」リクは優しく、しかし断固として言った。「相手は世界を無に還そうとしている存在だ。誰かが犠牲になる可能性は...」
「誰も犠牲にはさせない」俺は強く言い切った。「全員で生きて帰る。それが俺たちの作戦だ」
◆
村への再突入は、午前10時に開始された。
昨日より濃くなった虚無の霧が、俺たちを待ち受けていた。一歩踏み入れただけで、体力が吸い取られていく感覚。まるで底なし沼を歩いているような重さ。
「Cチーム、配置につけ」
ソフィアの指示で、レオと他の5名が扇形に展開した。彼らの役割は重要だ。外殻を浄化し、俺たちが中に入る道を作る。
「浄化開始!」
七つの浄化の光が、黒い結晶に向かって放たれた。
その中でも、レオの光は特別だった。
「みんなを...守りたい!」
少年の純粋な想いが、浄化の光に特別な輝きを与えた。他の光が青白いのに対し、レオの光は金色に輝いている。それは純粋な心が生み出す、特別な浄化力だった。
結晶の外殻が震え始めた。表面に亀裂が走り、黒い破片が剥がれ落ちる。
しかし、次の瞬間。
地面が爆発した。
黒い触手が無数に噴出し、Cチームに襲いかかる。それは物理的な攻撃というより、存在そのものを否定しようとする意思の塊だった。
「ソフィア!」
触手の一本が、ソフィアの体を貫いた。いや、貫いたのではない。彼女の存在の一部が、消失したのだ。右腕が、肘から先が透けて見える。
「うあああ!」
マルコが身を挺してソフィアを守った。鍛冶師の頑強な体が盾となり、次の攻撃を防ぐ。しかし、彼もまた左足の一部が消失し始めている。
「退け!第一段階は成功だ!」
俺の叫びに、Cチームが後退した。外殻は大きく損傷している。しかし、代償は大きかった。
5名中3名が戦闘不能。ソフィアは意識を保っているが、右腕がほぼ透明になっている。マルコは左足を引きずり、もう一人の浄化士は完全に気を失っていた。
「ローラ!」
「分かってます!」
薬師が負傷者の元へ駆け寄る。治療魔法と薬品を駆使し、懸命に存在の安定化を図る。
レオが泣きそうな顔で俺を見た。
「ごめんなさい...僕がもっと強ければ...」
「違う」俺は彼の頭を撫でた。「君のおかげで外殻を破れた。君の純粋な浄化力がなければ、ここまで来れなかった」
◆
第二次攻撃は、Bチームが担った。
ミーナが大魔法の詠唱を始める。魔力が渦を巻き、空間が歪み始めた。
「時空固定・展開!」
透明な壁が、虚無の触手を一時的に固定した。時間と空間を部分的に停止させる、彼女の新魔法だ。
「今だ!」
カールが前に出た。聖騎士の鎧が黄金に輝く。
「絶対防御・鉄壁の城!」
彼の周囲に、光の城壁が築かれた。それは物理的な壁ではなく、存在を守護する概念的な防壁だった。
「ローラ、今だ!」
ローラが愛情調合薬を全員に配った。甘い液体を飲み込むと、体中に温かい力が満ちてくる。浄化力が倍増し、虚無への抵抗力も上がった。
Bチームが結晶内部へ突入した。
中は、異様な空間だった。
壁も床も天井もない。ただ無限に広がる黒い虚空。その中を、無数の残留思念が漂っている。
「助けて...」
「寂しい...」
「怖い...」
消えた村人たちの最後の想いが、亡霊のように彷徨っている。特に胸を締め付けるのは、子供たちの泣き声だった。
「ママ...どこ...?」
「暗いよ...」
「おうちに帰りたい...」
ミーナが涙を流しながらも、杖を構えた。
「ごめんなさい...でも、これ以上の犠牲は出させない!」
虚無の核が反応した。
人型の影が、虚空から現れた。それは完全な人の形をしているが、顔がない。ただ虚無の塊が人の形を取っただけの、不気味な存在。
「我は虚無の使者、第六位」
声が頭に直接響く。性別も年齢も分からない、無機質な声。
「お前たちに世界は救えない。全ては無に還る。それが定められた運命」
カールが剣を構えた。「運命なんて、俺たちが変えてやる!」
激戦が始まった。
虚無の使者の攻撃は、通常の戦闘とは全く違った。物理攻撃でも魔法攻撃でもない。ただ、存在を否定してくる。
「消えろ」
その一言で、カールの剣が消失した。
「存在するな」
ミーナの魔法陣が崩壊した。
しかし、ミーナは諦めなかった。
「存在を否定するなら...存在を肯定すればいい!」
彼女の体が光り始めた。レベル50から55へ。限界を超えた成長が起きている。
「希望の灯火!」
新しい魔法が発動した。それは攻撃でも防御でもない。ただ、希望の光を灯す魔法。しかし、その光は虚無の使者を明確に傷つけた。
「不可能...希望など幻想...」
「幻想でも構わない!」ミーナは叫んだ。「それでも信じる価値はある!」
激戦の末、虚無の使者は撤退した。しかし、勝利の代償は大きかった。
カールが膝をついた。鎧の随所が消失し、体のあちこちが透けている。重傷だ。
「カール!」
「大丈夫だ...まだ...戦える...」
しかし、彼の声は弱々しかった。
◆
最終決戦の時が来た。
Aチーム、つまり俺とエリーゼ、リクの三人が、核心部へ向かう。
通路の奥に、それはあった。
巨大な「穴」。
世界の外側へ通じる、虚無の穴。そこから無限に虚無が流れ込んでいる。まるで世界に開いた傷口のような、おぞましい光景。
穴の縁は常に崩壊と再生を繰り返し、不安定に揺らいでいる。その向こうには、完全な無。光も闇も、音も静寂も、何もない絶対的な虚無が広がっていた。
「これが...元凶」リクが息を呑んだ。
俺とエリーゼは手を取り合った。二人の愛を、最大限に解放する時が来た。
「聖愛浄化・世界樹!」
究極の調和浄化が発動した。二人の愛が巨大な光の樹となって、虚無の穴を塞ごうとする。
光の根が穴の縁に食い込み、枝が虚無を押し返していく。愛の力が、存在の肯定が、世界を守ろうとしている。
穴が少しずつ小さくなっていく。
しかし。
「足りない...」エリーゼが苦しげに呟いた。
穴は小さくなったが、完全には塞がらない。俺たちの愛だけでは、世界規模の虚無に対抗するには不十分だった。
「もっと...もっと大きな愛が必要だ」
その時、背後から声が聞こえた。
「なら、俺たちの愛も加えろ!」
振り返ると、リクとミーナが手を繋いで立っていた。ミーナは重傷のカールを支えながら。
「私たちも!」
ローラとマルコ、ソフィア、レオ。負傷しているにも関わらず、全員が集まってきた。
そして。
「私たちの愛も...使ってください」
救出した夫婦も、よろよろと歩いてきた。
◆
全員が手を繋いだ。
負傷者も含めて15名、そして夫婦を加えた17名が、大きな輪を作った。
「愛の連鎖、発動!」
エリーゼの号令で、全員の愛が一つに繋がった。
それぞれの愛。恋人への愛、友への愛、家族への愛、世界への愛。全てが混ざり合い、巨大な力となって虚無の穴に向かっていく。
「この世界を、愛で満たす!」
俺たちの叫びが、一つになった。
奇跡が起きた。
虚無の穴が、目に見えて縮小し始めた。グレープフルーツ大、オレンジ大、卵大、ビー玉大...
同時に、黒い結晶が変化し始めた。漆黒だった表面が、少しずつ白く輝き始める。虚無が愛に浄化され、新たな形へと生まれ変わろうとしている。
風に乗って、声が聞こえた。
「ありがとう...」
「やっと...安らげる...」
「愛してくれて...ありがとう...」
消えた村人たちの魂が、解放されていく。彼らは完全に消滅したのではなく、虚無に囚われていただけだった。愛の力が、彼らを解き放った。
しかし。
穴は米粒大になったところで、それ以上小さくならなかった。
「限界か...」俺は息を切らしながら呟いた。
完全勝利ではない。穴は小さくなったが、完全には消えていない。いつか再び広がる可能性がある。継続的な監視が必要だろう。
黒い結晶は白い結晶へと変わったが、その中心には小さな黒い核が残っている。完全な浄化には至らなかった。
風が吹いた。
その風に乗って、不吉な言葉が聞こえてきた。
「これは始まりに過ぎない」
誰の声でもない、世界そのものが発するような声。
「真の虚無王が目覚める時、全ては無に還る」
エリーゼが俺の手を強く握った。不安と決意が入り混じった表情。
「まだ...終わってないのね」
「ああ」俺は頷いた。「でも、今日は勝った。不完全でも、俺たちは虚無を押し返した」
レオが俺たちを見上げた。
「次は...どうなるんですか?」
俺は少年の頭を優しく撫でた。
「分からない。でも、俺たちには仲間がいる。愛がある。それがある限り、どんな虚無にも負けはしない」
夕日が、虚無の霧を貫いて差し込んできた。
第二の太陽は、まだ不規則に明滅している。戦いは続いている。世界の危機は去っていない。
でも、希望はある。
今日、俺たちは証明した。愛の力が、虚無に打ち勝てることを。
たとえ不完全でも、前に進むことができることを。
「さあ、帰ろう」俺は仲間たちに声をかけた。「王都のみんなが待っている」
歩き始めた俺たちの背後で、白い結晶が静かに光を放っていた。
その中心の黒い核が、微かに脈動している。
まるで、心臓のように。
これは終わりではない。
始まりだ。
真の戦いの、始まり。
その時、遠くから馬蹄の音が聞こえた。
「援軍が来るという知らせが届いていた」カールが弱々しく言った。「浄化士ギルド北部支部と、国軍の特殊部隊から、最精鋭が派遣されるらしい」
「よかった」俺は安堵の息をついた。「次の戦いは、もっと大規模になるだろうからな」
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