第32話 北への旅立ち

朝の光が浄化士ギルドの石畳を照らし始めた頃、俺とエリーゼはギルド前の広場に立っていた。その前には、五十人を超える浄化士たちが整列している。


「みんな、集まってくれてありがとう」


俺の声に、全員が背筋を伸ばした。彼らの瞳には、覚悟と不安が入り混じっている。


昨日の報告会で北の脅威について説明したところ、想像以上に多くの者が同行を志願してきた。第二の太陽でも浄化できない『無』という存在に、誰もが危機感を抱いたのだろう。


「しかし、今回の任務は未知の脅威との戦いになる」


アルテミスが前に出た。銀色の髪が朝日に輝いている。


「正直に言おう。生きて帰れる保証はない。だからこそ、最精鋭のみを選ぶ」


ざわめきが起こった。皆、覚悟はしていたが、改めて言葉にされると重みが違う。


「選抜基準は三つだ」


アルテミスは指を立てた。


「第一に、レベルではなく精神力。『無』に呑まれない強い心を持つ者。第二に、協調性。今回は個人の力ではなく、チームワークが鍵となる。第三に——」


彼女は俺たちを見た。


「愛を信じる心だ」


意外な言葉に、広場が静まり返った。


「調和浄化が『無』に唯一効果を示した。翔太とエリーゼの愛の力が、希望の光となるかもしれない。その可能性を信じ、支えられる者を選ぶ」


選抜は一時間かけて行われた。アルテミスが一人ひとりと面談し、その目を見て判断していく。レベルが高くても選ばれない者もいれば、低くても選ばれる者もいた。


「ローラ、マルコ、ソフィア」


呼ばれた三人が前に出る。


「私の霊薬が必要になるはずです」


ローラが薬箱を掲げた。


「対『無』用の新薬も開発中です」


「装備の修理と強化は任せてくれ」


マルコが工具袋を叩いた。


「どんな状況でも対応してみせる」


「データ収集と分析なら私に」


ソフィアが手帳を広げた。


「『無』の性質を解明します」


そして、意外な名前が呼ばれた。


「レオ」


「は、はい!」


まだ十五歳の新人浄化士が、震えながら前に出た。小さな体が小刻みに震え、声もかすかに裏返っていた。レベルは15。正直、戦力としては心もとない。それでも彼の目には、恐怖を乗り越えようとする必死の意志が宿っていた。


「君を選んだのは、その純粋な心ゆえだ」


アルテミスが優しく言った。


「『無』に対抗するには、穢れを知らない清らかな心も必要かもしれない」


「が、頑張ります!翔太隊長の足を引っ張らないよう、精一杯やります!」


レオの目が輝いた。俺は微笑んで頷いた。


最終的に、十名が選ばれた。残りの五名も、それぞれ特技を持つ専門家たちだ。治療師、斥候、結界術師、記録係、そして補給係。


「選ばれなかった者たちも、重要な任務がある」


アルテミスが落選した者たちに向き直った。


「君たちは王都の守りを頼む。我々が不在の間、市民を守るのは君たちだ」


「はい!」


力強い返事が響いた。誰も腐ってはいない。それぞれが自分の役割を理解している。


「では、一時間後に出発する。準備を整えてくれ」


解散の合図と共に、皆が散っていく。俺とエリーゼは、しばらくその場に立っていた。


「大所帯になったわね」


エリーゼが微笑んだ。


「でも、心強いわ」


「ああ。みんなと一緒なら、きっと何とかなる」


手を繋いで、俺たちも準備に向かった。



一時間後、三台の馬車が王都の北門を出発した。


先頭の馬車には俺とエリーゼ、それにリク、ミーナ、カールが乗っている。二台目にはローラ、マルコ、ソフィア、レオと記録係。三台目には残りのメンバーと物資が積まれていた。


「それにしてもさぁ」


リクが苦笑いを浮かべた。拳を軽く握ったり開いたりしながら、からかうような目で俺たちを見る。


「お前ら、新婚旅行気分かよ?」


俺とエリーゼは、自然と寄り添って座っていた。手も繋いだままだ。


「だって、実際そうでしょう?」


エリーゼが明るく答えた。


「結婚して初めての遠出なんだから」


「危険な任務なのに呑気だぜ」


カールが呆れたように言ったが、その口元は緩んでいる。


「でも素敵ですよ」


ミーナが目を輝かせた。


「愛の力で世界を救うなんて、まるで物語みたい」


「現実はもっと厳しいぜ」


リクが窓の外を見た。剣の柄を無意識に叩きながら、表情を引き締める。


「ほら、もう景色が変わってきた」


確かに、王都を離れて数時間で、周囲の風景は徐々に変化していた。緑豊かな平原が、少しずつ色あせていく。草の背が低くなり、花の数も減っている。


「気温も下がってきましたね」


ソフィアが二台目の馬車から声をかけた。


「通常より五度は低いです。異常気象の可能性があります」


第二の太陽を見上げると、その光が心なしか弱く感じられた。まるで、何かに怯えているかのように、時折不安定に瞬いている。


「先輩方!」


レオが興奮した声を上げた。


「こんな遠出は初めてです!ずっと王都の周辺でしか任務をしたことがなくて……」


その純粋な喜びに、皆の表情が和らいだ。


「初めての大冒険か」


俺は微笑んだ。


「俺も一年前はそうだった」


「嘘でしょう!?翔太隊長がですか?」


「本当だよ。レベル1の掃除士として、右も左も分からなかった」


「でも今では真なる浄化王ですよね!すごいなあ……」


レオの瞳がキラキラと輝いていた。憧れと興奮で頬を上気させ、身を乗り出すようにして俺を見つめている。その純粋な眼差しがあまりにも眩しくて、俺は少し照れくさくなった。十五歳の少年が抱く英雄への憧憬——それは俺がかつて抱いていた、勇者への憧れと同じものだった。


「お前もきっと強くなれるぜ」


リクが肩を叩いた。拳をぐっと握りしめて、熱い眼差しでレオを見つめる。


「大切なのは、諦めない心だぜ!負けんなよ!」


「はい!頑張ります!」


馬車が揺れ、エリーゼが俺の肩にもたれかかった。


「眠い?」


「ううん、ただ……幸せだなって」


彼女の髪から、花の香りがした。結婚式の時と同じ香水だ。


「任務中にイチャイチャすんなよ」


リクが顔を赤くして言った。照れ隠しに剣の柄を叩く。


「あら、照れてる?」


ミーナがからかう。


「リクも恋人を作ればいいのに」


「う、うるせぇ!俺は剣の道一筋だぜ!恋愛なんて関係ねぇ!」


車内に笑い声が響いた。こんな穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのに——


しかし、現実はそう甘くない。


「隊長!」


三台目の馬車から斥候が声を上げた。


「前方に何か……動く影があります!」


全員が身構えた。平和な時間は、もう終わりだ。



馬車を停めて、俺たちは街道に降り立った。


百メートルほど先に、黒い影がうごめいている。それは——


「狼?いや、違う……」


カールが剣を抜いた。


それは確かに狼の形をしていたが、明らかに異常だった。体長は通常の二倍はある。そして何より、全身から黒い霧を纏っている。


「レベル表示が……おかしい」


ミーナが困惑した声を上げた。


確かに変だ。狼の頭上に浮かぶレベル表示が、激しく点滅している。


【Lv.35?】

【Lv.??】

【Lv.4?】


数字が安定しない。まるで、システムそのものが混乱しているかのようだ。


「気をつけろ」


俺が前に出た。


「これが『無』の影響を受けた魔獣かもしれない」


狼がこちらに気づいた。その目は——虚ろだった。生気がない。ただ、破壊衝動だけに支配されているような。


「グルルル……」


低い唸り声と共に、狼が飛びかかってきた。


「はあっ!」


リクが剣で迎え撃つ。拳を握りしめ、全身に力を込めて剣を振り下ろす。しかし——


「なんだと!?」


剣が弾かれた。まるで、鋼鉄にぶつかったかのような手応え。


「魔法障壁か?いや、違う」


ミーナが炎の矢を放つが、それも黒い霧に吸い込まれて消えた。


「通常の攻撃が通じない!?」


カールの聖剣も、表面を滑るだけだ。


「下がって!」


俺は前に出て、聖浄化を発動した。


「聖浄化!」


金色の光が狼を包む。確かに効果はあった。黒い霧が少し薄くなる。しかし——


「完全には……浄化できない」


狼は苦しそうに身をよじったが、まだ黒い霧を纏っている。


「翔太、一緒に」


エリーゼが隣に立った。


「調和浄化を試してみましょう」


俺たちは手を繋いだ。心を一つにして、力を合わせる。


「調和浄化!」


温かい光が広がった。金色と銀色が混じり合い、虹色の輝きとなって狼を包み込む。


効果は明らかだった。黒い霧が急速に薄くなっていく。狼の目に、一瞬、理性の光が宿った。


「助け……て……」


確かに、そう聞こえた。人の声で。


しかし次の瞬間、狼は苦しみの咆哮を上げて、森の奥へと逃げ去った。黒い霧を引きずりながら。


「今、声が……」


エリーゼが震えていた。


「ああ、俺も聞こえた」


「まさか、あれは元々……人間?」


ソフィアが青ざめた。


「分からない。でも、『無』の影響は想像以上に深刻だ」


俺は厳しい表情で北を見据えた。


「調和浄化でも完全には浄化できないなんて」


ミーナが不安そうに呟いた。


「でも、効果はあった」


俺は皆を見回した。


「希望はある。きっと方法を見つけられる」


レオが震えながらも、真剣な顔で頷いた。


「隊長の言う通りです。諦めちゃダメです」


その純粋な言葉に、皆の表情が引き締まった。


街道を進むにつれ、異変は増していった。枯れた木々、黒く濁った小川、逃げ惑う動物たち。


そして——



日が傾き始めた頃、街道の先に人影が見えた。


よろめきながら、必死にこちらへ向かってくる。


「助けて……助けてくれ!」


中年の商人だった。服は破れ、顔は恐怖で青ざめている。荷車も商品も全て捨てて、命からがら逃げてきたようだ。


「大丈夫ですか!」


エリーゼが駆け寄り、倒れ込んだ商人を支えた。


「あ、あなたたちは……」


商人の目が俺たちの紋章を捉えた。


「浄化士様!ああ、女神よ感謝します!」


「落ち着いて。何があったんです?」


ローラが水筒を差し出した。商人は震える手でそれを受け取り、一気に飲み干した。


「北の……北の村が……」


息を整えてから、商人——グレンと名乗った——は語り始めた。


「三日前まで、いつも通り交易で北の村に向かっていたんです。でも、村に着いたら……」


彼の目に恐怖が蘇る。


「一夜で……村が消えていました」


「消えた?」


「黒い霧が、全てを飲み込んでいたんです。家も、畑も、人も……何もかも」


ソフィアが手帳にメモを取りながら尋ねた。


「生存者は?」


「分かりません。でも……」


グレンは何かを思い出すように目を閉じた。


「不思議なことが一つだけありました」


全員が耳を傾ける。


「霧の中で、一組の夫婦を見たんです。手を繋いで、必死に祈っていました」


俺とエリーゼは顔を見合わせた。


「すると、一瞬だけ……本当に一瞬だけ、霧が晴れたんです。二人の周りだけ、光が差し込んで」


「それで、その夫婦は?」


「分かりません。次の瞬間には、また霧に呑まれてしまって……でも」


グレンは俺たちを見た。


「あの光を見た時、『愛の力はまだ死んでいない』って、そう感じたんです」


沈黙が流れた。やはり、愛の力が鍵なのか。


「他に何か気づいたことは?」


ソフィアが聞いた。


「そうだ、もう一つ」


グレンが思い出した。


「村の中心に、巨大な黒い結晶があったような……でも、霧が濃すぎてはっきりとは」


「結晶……」


俺が考え込んだ。


「『無』の核心かもしれない」


エリーゼがグレンの傷の手当てをした。幸い、大きな怪我はないようだ。


「これを」


マルコが保存食と水を渡した。


「南へ向かって、王都で保護を受けてください」


「あ、ありがとうございます」


グレンは深々と頭を下げた。


「でも、浄化士様たちは北へ?」


「ええ」


俺は頷いた。


「その村を調査しに」


「正気ですか!?あんな恐ろしい場所に——」


「だからこそ、行かなければならないんです」


俺の言葉に、グレンは何かを感じ取ったようだった。


「そうですか……どうか、ご無事で」


彼は立ち上がり、南へと歩き始めた。数歩進んでから、振り返った。


「あ、そうだ。もし、あの夫婦が生きていたら……」


「はい?」


「『希望を捨てるな』と、伝えてください」


そう言い残して、グレンは去っていった。


陽が沈みかけている。今夜は野営することになるだろう。



街道から少し離れた丘の上に、野営地を設営した。


マルコが手際よく結界石を配置していく。青白い光のドームが、野営地を覆った。


「これで瘴気は防げるはずだ」


「念のため、これも」


ローラが小さな香炉を取り出した。浄化の香を焚くと、清らかな香りが広がる。


「見張りは二人一組で交代にしよう」


カールが提案した。


「俺とリクが最初の組だ」


「次は私とソフィアね」


ミーナが頷いた。


「じゃあ、僕とマルコさんが三番目で」


レオが手を挙げた。


夕食の準備が始まった。レオが張り切って料理当番を買って出た。


「料理なら得意なんです!貧しい家で育ったから、少ない材料でも美味しく作れます」


「あら、私も手伝うわ」


エリーゼが微笑んだ。


「最近、料理の腕を上げたのよ」


「本当ですか!王女様に教えていただけるなんて!」


「もう王女じゃないわ。エリーゼでいいのよ」


二人が楽しそうに料理を始めた。野菜を切る音、鍋が煮える音。日常的な音が、緊張を和らげる。


「こういうのも、新婚旅行の一部かな」


俺が呟くと、リクが肩をすくめた。


「お前は本当に呑気だぜ」


でも、その顔は笑っている。


空を見上げると、第二の太陽が不安定に瞬いていた。まるで、苦しんでいるかのように。痛みを訴えているかのように。


夕食は、思いのほか美味しかった。レオとエリーゼの息の合った料理は、皆の心を温めた。


「美味しい!」


ミーナが感嘆の声を上げた。


「こんな状況なのに、幸せを感じちゃう」


「食事は大切だ」


俺も頷いた。


「心と体の両方を支える」


食後、焚き火を囲んで作戦会議が始まった。


「今日の魔獣との遭遇で分かったことがある」


ミーナが口を開いた。


「『無』は物理法則すら無視する。でも、愛の力には反応する」


「なぜ愛の力なんだろう」


カールが首を傾げた。


「他の感情じゃダメなのか」


「愛は創造の力だからかもしれません」


ソフィアが仮説を述べた。


「『無』が破壊と虚無の力なら、その対極にあるのが愛——創造と充実の力」


「なるほど」


俺は頷いた。


「だから調和浄化が効いたのか」


「でも、完全じゃなかった」


リクが指摘した。


「もっと強い力が必要だ」


「三つのチームに分かれて行動するのはどうだろう」


カールが提案した。


「偵察、戦闘、支援。役割を分担すれば、効率的に動ける」


「いい案だ」


俺が同意した。


「明日から、その編成で動こう」


その時、ソフィアが古い本を取り出した。


「実は、王都の図書館で気になる記述を見つけたんです」


皆が注目する中、彼女はページをめくった。


「千年前にも、同じような現象があったらしいんです。『虚無の災厄』と呼ばれた出来事が」


「千年前?」


俺は驚いた。


「初代勇者の時代じゃないか」


「そうです。でも、詳しい記録は残っていません。ただ……」


ソフィアは一文を指差した。


「『愛する者たちの絆が、世界を虚無から救った』と」


沈黙が流れた。歴史は繰り返すのか。


「俺たちが、その役目を担うのかよ」


リクが呟いた。拳を握りしめ、緊張した面持ちで炎を見つめる。


「僕、怖いですけど...」


レオの声が微かに震えていた。小さな手が膝の上でぎゅっと握られ、その拳が小刻みに震えている。それでも彼は顔を上げ、精一杯の笑顔を作ろうとしていた。


「でも、翔太隊長たちと一緒なら、きっと大丈夫です!」


その言葉を口にする時、レオの震えが少しだけ止まった。仲間への信頼が、恐怖に打ち勝つ勇気を与えているかのようだった。


その純粋な信頼に、皆が微笑んだ。


「ありがとう、レオ」


俺は彼の肩を叩いた。


「俺たちも、君を信じてる」


作戦会議が終わり、皆それぞれの寝床についた。俺とエリーゼは、少し離れた場所で、寄り添って座っていた。


「怖い?」


「少し」


エリーゼは正直に答えた。


「でも、あなたと一緒だから大丈夫」


手を繋ぐ。温かさが伝わってくる。


「明日は、もっと北へ進む」


「ええ。きっと、もっと大変になる」


「でも——」


「でも、進まなきゃ」


二人で同時に言って、笑い合った。



深夜。見張りをしていたカールが、異変に気づいた。


「おい、見ろ」


リクを小声で呼ぶ。北の空を指差した。


一瞬、空が真っ黒になった。星も月も、第二の太陽の光も、全てが消えた。まるで、空に巨大な穴が開いたかのように。


「なんだ、あれは……」


次の瞬間、空は元に戻った。しかし、二人は確かに見た。あの漆黒の虚無を。


そして——


遠くから、不気味な音が聞こえてきた。


泣き声のような、笑い声のような。人のものとも、獣のものともつかない。ただ、聞いているだけで心が冷えていく。


「起こすか?」


リクが聞いた。


「いや、朝まで待とう」


カールは首を振った。


「皆、休息が必要だ」


しかし、テントの中で、翔太とエリーゼは起きていた。二人も、あの音を聞いていた。


手を繋いだまま、互いの温もりを確かめ合う。


「大丈夫」


翔太が囁いた。


「一緒だから」


「うん」


エリーゼも小声で答えた。


「一緒なら、大丈夫」


聖剣エクスカリバーが、鞘の中で激しく震えていた。警告なのか、それとも共鳴なのか。


北の空を、黒い雲が覆い始めていた。


明日は、さらに深い闇へと進むことになる。でも、十五人の仲間と共になら、きっと——


希望の光は、まだ消えていない。


「明日も、頑張ろうね」


「うん。みんなで、世界を守ろう」


二人の囁き声が、静かな夜に溶けていった。


朝は、もうすぐそこまで来ている。


新たな試練と共に。

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