第31話 幸せな新婚生活と不穏な影
朝日が窓から差し込む。
いや、正確には二つの太陽の光だった。東から昇る本来の太陽と、天空に浮かぶ第二の太陽——俺が一年前に創り出した、浄化の光を放つもう一つの光源。
その柔らかな光が、隣で眠るエリーゼの髪を黄金色に染めている。
「ん……」
小さく身じろぎをする彼女の寝顔を、俺はそっと見つめた。結婚してから一週間。まだ夢のような日々が続いている。
最弱職と呼ばれた【掃除士】の俺が、第三王女と結婚するなんて——一年前の自分に言っても、絶対に信じないだろう。
「……翔太?」
薄く目を開けたエリーゼが、寝ぼけ眼で俺を見上げる。その無防備な表情に、胸が温かくなった。
「おはよう、エリーゼ」
「おはよう……もう朝?」
「うん。そろそろ起きないと」
エリーゼが伸びをすると、シーツがさらりと音を立てた。窓から入る風が、部屋の中に朝の匂いを運んでくる。パン屋から漂う焼きたての香ばしい香り、花壇の花の甘い匂い、そして第二の太陽がもたらす、清浄な空気の感触。
「今日も、一緒に掃除する?」
エリーゼの提案に、俺は笑顔で頷いた。
王族の身分を捨てて一般市民として暮らすことを選んだ彼女は、今では俺と一緒に日々の掃除を楽しんでいる。最初は箒の持ち方もぎこちなかったのに、今ではすっかり手慣れたものだ。
「掃除って、こんなに楽しかったかしら」
リビングの床を拭きながら、エリーゼが微笑む。朝の光を受けて、汗が真珠のように輝いている。
「君と一緒だからだよ」
「もう、そんなこと言って」
頬を赤らめる彼女の姿に、俺の顔も自然とほころんだ。
二人で窓を磨き、棚の埃を払い、床を丁寧に拭いていく。ただの日常的な掃除なのに、なぜかとても幸せな時間だった。エリーゼの動きに合わせて俺も体を動かし、時折手が触れ合うと、お互いに照れ笑いを浮かべる。
「あ、ここに汚れが」
エリーゼが指差した壁の隅に、確かに小さな染みがあった。
「よく気づいたね」
「翔太に教わったから」
彼女の成長を感じて、俺は嬉しくなった。掃除は単なる作業じゃない。空間を大切にし、そこで過ごす時間を豊かにする行為なのだ。それをエリーゼも理解してくれている。
朝食の準備も二人でする。エリーゼが野菜を切る音、鍋から立ち上る湯気、焼けるベーコンの香ばしい匂い。すべてが幸せの証のように感じられた。
「少し焦げちゃった」
フライパンを覗き込むエリーゼが申し訳なさそうにする。
「大丈夫、これくらいがちょうどいい」
実際、少し焦げ目のついたベーコンは香ばしくて美味しかった。エリーゼの料理の腕前は、日に日に上達している。王女時代は料理なんてしたことがなかったはずなのに、今では立派な主婦だ。
「美味しい?」
「うん、最高だよ」
向かい合って朝食を食べる。外では鳥のさえずりが聞こえ、第二の太陽の光が食卓を優しく照らしている。こんな平凡で、でも特別な時間が、俺たちの新婚生活だった。
◆
朝食を終えて、俺たちは浄化士ギルドへと向かった。
一年前、たった数人で始まったギルドは、今では五百人を超える大組織になっている。建物も王都の中心部に立派な本部を構え、各地に支部を持つまでに成長した。
「翔太さん! エリーゼ様!」
ギルドの扉を開けると、受付のアンナが満面の笑みで迎えてくれた。
「おはよう、アンナ」
「お二人とも、新婚生活はいかがですか?」
アンナの問いかけに、エリーゼと顔を見合わせて照れ笑いを浮かべる。
「とても幸せよ」
エリーゼの答えに、アンナが嬉しそうに手を叩いた。
訓練場に向かうと、懐かしい面々が汗を流していた。
「おっ、新婚さんのお出ましだ!」
リクが剣の素振りを止めて、にやにやと笑う。レベル45の真勇者となった今でも、日々の鍛錬を欠かさない。
「新婚さんは違うなぁ。なんか、二人とも輝いてるぜ」
「そ、そんなことないよ」
俺が否定しても、リクのからかうような笑みは消えない。
「エリーゼ様、なんだか一層お美しくなられました」
ミーナが魔法書から顔を上げて微笑んだ。レベル50の大魔導師として、今では王立魔法学院の最年少講師も務めている。
「ミーナったら、お世辞が上手ね」
「本当のことですよ。幸せオーラが溢れてます」
カールも訓練を中断して近づいてきた。聖騎士団の副団長という重責を担いながら、浄化士ギルドの幹部としても活動している。
「翔太、幸せそうで何よりだ。結婚式、本当に良かったな」
「ありがとう、カール。君たちが祝福してくれて、本当に嬉しかった」
思い出すのは一週間前の結婚式。大聖堂での荘厳な式典、仲間たちからの心のこもった祝福、そして……。
「そういえば、システムから『愛の浄化王』なんて称号もらったんだって?」
リクが興味深そうに聞いてくる。
「う、うん……まあ」
結婚の瞬間、確かにシステムウィンドウが現れて、新たな称号を授けてくれた。『真なる浄化王』に加えて『愛の浄化王』。なんだか恥ずかしい称号だが、エリーゼとの絆の証だと思うと誇らしくもある。
「で、何か新しい力でも目覚めたのか?」
ミーナが学者らしい好奇心で尋ねる。
「まだよくわからないけど……何か、違う感覚はあるんだ」
正直なところ、自分でも把握しきれていない。ただ、エリーゼと一緒にいる時、今までとは違う温かい力を感じることがある。
ギルドマスターのアルテミスも姿を現した。レベル75という高レベルを維持しながら、五百人の組織を見事に統率している。
「翔太、エリーゼ様、ようこそ。みんな二人に会いたがっていたよ」
「アルテミス、ギルドは順調?」
「ああ、おかげさまでね。第二の太陽の恩恵で、瘴気の発生は激減している。でも、浄化士の仕事がなくなったわけじゃない」
確かに、日常的な汚れや、小規模な瘴気の発生は続いている。浄化士たちは今も、世界を清潔に保つために働いている。
「翔太はレベル100になっても、現場で掃除してるんだってな」
グスタフ老が杖をついて近づいてきた。引退すると言いながら、結局まだ現役で活動している。
「掃除が好きだから」
「いい心がけじゃ。力を得ても初心を忘れん。それが真の強さじゃよ」
老人の言葉に、俺は深く頷いた。
最弱職と呼ばれた【掃除士】。でも今では、この職業を心から誇りに思っている。世界を美しく保ち、人々の生活を守る。それが俺たちの使命だ。
◆
午後、新居に戻った俺たちは、大掃除をすることにした。
結婚祝いでもらった家具を配置換えしたり、窓を磨いたり、床を念入りに拭いたり。二人で協力しながら、家中をピカピカにしていく。
「この棚、もう少し右かしら?」
「いや、左の方がバランスいいんじゃない?」
他愛ない会話を交わしながら、作業を進める。エリーゼの額に汗が浮かび、髪が少し乱れている。でも、その姿がとても愛おしい。
「ちょっと重いね、一緒に持とう」
大きな本棚を動かそうと、二人で両側から手をかけた。その時——。
俺たちの手が、偶然触れ合った。
瞬間、不思議な感覚が全身を駆け巡った。温かく、優しく、そして力強い何かが、二人の間で共鳴している。
「えっ……?」
エリーゼも同じものを感じたらしく、驚いた表情で俺を見る。
次の瞬間、部屋全体が淡い光に包まれた。
それは第二の太陽の光とも、聖浄化の輝きとも違う、もっと柔らかで温かい光だった。まるで春の陽だまりのような、見ているだけで幸せになれる光。
「これは……」
光は部屋中に広がり、壁に、床に、天井に、家具に染み込んでいく。そして——。
みるみるうちに、すべての汚れが消えていった。
埃一つない、完璧に清潔な空間。いや、それ以上だ。空気そのものが浄化され、深呼吸すると体の奥底から力が湧いてくるような、不思議な清涼感に満ちている。
「すごい……」
エリーゼが息を呑む。彼女の手が、まだ俺の手に重なっている。
「今、不思議な感覚が……」
「うん、俺も感じた」
心が繋がっているような、二人で一つになっているような感覚。それは一瞬のことだったけれど、確かに感じた。
『新スキル習得:調和浄化』
突然、システムウィンドウが現れた。
『パートナースキル:調和浄化
効果:愛する者と心を通わせることで、通常の3倍の浄化力を発揮
条件:お互いを深く信頼し、触れ合っている時
消費MP:通常の半分
特殊効果:浄化と同時に、空間に幸福のオーラを付与』
「パートナースキル……?」
聞いたことのない種類のスキルだった。しかも、条件が「愛する者と心を通わせる」だなんて。
「これが、愛の力なのかな」
俺の呟きに、エリーゼが頬を赤く染める。
「恥ずかしいけど……でも、素敵ね」
確かに恥ずかしい。でも、二人だけの特別な力だと思うと、胸が熱くなった。
腰の聖剣エクスカリバーが、微かに震えている。まるで、この新しい力を祝福しているかのように。
「もう一度、試してみる?」
エリーゼの提案に、俺は頷いた。
今度は意識して、お互いの手を重ねる。温もりを感じ、相手を想い、心を通わせる。
また、あの温かい光が生まれた。
部屋の隅々まで光が行き渡り、窓の外にまで溢れ出していく。通りを歩いていた人々が立ち止まり、不思議そうに、でも幸せそうな表情で光を見上げている。
「なんて優しい光だ……」
「心が温かくなる……」
人々の呟きが聞こえてくる。
調和浄化。それは単に汚れを取り除くだけでなく、その場所に幸せをもたらす力なのかもしれない。
◆
夕暮れ時、ギルドから緊急の連絡が入った。
アルテミスからの召集。声の調子から、ただ事ではないことが伝わってくる。
「すぐ行こう」
エリーゼと共に、急いでギルドへ向かった。
会議室には、すでに主要メンバーが集まっていた。リク、ミーナ、カール、そしてアルテミス。みんな深刻な表情をしている。
「何があったの?」
俺の問いに、アルテミスが重い口を開いた。
「北方調査隊から、唯一の生存者が帰還した」
北方調査隊。一週間前、国境付近の異変を調査するために派遣された精鋭部隊だ。
「唯一って……他のメンバーは?」
「全滅だ」
カールの言葉に、室内の空気が凍りついた。
「生存者は瀕死の状態で発見された。なんとか手当てをして、ようやく意識を取り戻したところだ」
アルテミスが扉に向かって声をかける。
「入ってくれ」
扉が開き、包帯だらけの騎士が、従者に支えられながら入ってきた。顔は青白く、目は虚ろで、体中が小刻みに震えている。
「ご苦労だった。報告を聞かせてもらえるか」
アルテミスの優しい声に、騎士はゆっくりと顔を上げた。
「黒い……霧が……」
か細い声が、掠れるように響く。
「すべてを……飲み込んだ……」
「黒い霧?」
「瘴気とは……違う……もっと……恐ろしい何か……」
騎士の目に、恐怖の色が浮かぶ。思い出したくない記憶を、必死に言葉にしようとしている。
「第二の太陽の光も……効かない……」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
第二の太陽は、俺が創り出した究極の浄化装置だ。その光が効かないなんて。
「それは……『無』だった……」
騎士の瞳が、まるで深淵を覗き込んだかのように暗い。
「存在そのものを……否定する……すべてを……無に還す……」
がくりと項垂れた騎士を、従者が慌てて支える。
「もう十分だ。ゆっくり休んでくれ」
アルテミスの言葉に、騎士は力なく頷いて退室していった。
重い沈黙が、会議室を支配する。
「『無』か……」
ミーナが思案深げに呟く。
「瘴気は負の感情が実体化したものでした。でも、『無』となると……」
「存在の否定、か」
カールが腕を組む。
「聖騎士団にも報告が入っている。北の国境付近で、三つの村が一夜にして消滅したと」
「消滅?」
「文字通りだ。建物も、人も、土地さえも。まるで最初から何もなかったかのように」
背筋が寒くなる話だった。
「これは、新たな脅威の始まりかもしれない」
アルテミスの言葉に、全員が頷く。
世界の平和は、まだ完全ではなかったのだ。
◆
「実は、もう一つ気がかりなことがある」
ミーナが、手にした資料を広げた。
「生存者の騎士ですが、通常の治療が効きません」
「どういうこと?」
「体に外傷はないんです。でも、生命力が徐々に失われている。まるで、存在そのものが薄れていくような……」
ミーナの説明に、みんなの表情がさらに曇る。
「私は、これを『虚無病』と名付けました」
「虚無病……」
「黒い霧に触れた者が罹る、原因不明の病です。第二の太陽の光を浴びせても、私の回復魔法を使っても、翔太さんの浄化を試しても、効果がありませんでした」
俺の浄化も効かない。その事実に、愕然とした。
「でも、一つだけ気づいたことがあります」
ミーナが俺とエリーゼを見る。
「先ほど、あなたたちの新しい力……調和浄化の光を、偶然遠くから見ました。その時、騎士の容態が少しだけ、本当に少しだけですが、改善したんです」
「調和浄化が?」
「はい。もしかしたら、愛の力が鍵になるかもしれません」
エリーゼと目を合わせる。昼間発動した、あの温かい力。
「試してみる価値はあるね」
エリーゼが決意を込めて頷く。
医務室に移動し、虚無病の騎士の前に立つ。顔色は土気色で、呼吸も浅い。
「お願い、エリーゼ」
「ええ」
二人で手を繋ぎ、騎士に手をかざす。お互いを想い、心を通わせ、愛の力を込めて——。
柔らかな光が生まれ、騎士を包み込んだ。
すると、わずかだが、騎士の顔に赤みが戻ってきた。呼吸も少し深くなる。
「効いてる……!」
ミーナが興奮した声を上げる。
でも、完全には治らない。虚無病の進行を遅らせることはできても、根本的な治療にはならないようだ。
「それでも、希望はある」
アルテミスが言った。
「翔太、エリーゼ様。お二人の力が、この新たな脅威に対抗する鍵かもしれない」
◆
夜、王城に呼ばれた俺たちは、国王陛下の前に立っていた。
「翔太殿、エリーゼ。話は聞いた」
国王陛下の表情は厳しい。
「北の脅威は、想像以上に深刻なようだ」
「はい、陛下」
「第二の太陽でも浄化できない『無』。そして虚無病。これは、世界の危機かもしれん」
王座から立ち上がった陛下が、俺たちに向き直る。
「翔太殿、そしてエリーゼ。頼みがある」
「なんなりと」
「北の調査に向かってほしい。いや、これは国王としての命令ではない。一人の父としての、願いだ」
陛下の目に、父親としての不安が滲んでいる。
「世界を、人々を、守ってほしい」
「もちろんです、お父様」
エリーゼが凛とした声で答える。
「私も行きます」
「エリーゼ……」
「翔太と一緒なら、どんな危険も恐れません」
彼女の決意に満ちた瞳を見て、俺も覚悟を決めた。
「危険な新婚旅行になりそうだ」
俺の冗談に、エリーゼがくすりと笑う。
「あなたとなら、地の果てまでも」
手を繋ぐと、温かい力が流れる。調和浄化の力。俺たち二人だけの、特別な絆の証。
聖剣エクスカリバーが、腰で激しく震えている。まるで、これから起こる戦いを予感しているかのように。
執務室の机の上に、古い書物が置かれていた。
「これは、王家に伝わる古文書だ」
陛下が、埃を被った本を開く。
「ここに、気になる一節がある」
指差されたページには、古代文字でこう書かれていた。
『200の壁を超えし者、真の力に目覚めん。愛と共にある時、世界の理をも変える力を得ん』
「200の壁……」
現在、俺のレベルは100。システムの限界値のはずだ。でも、この古文書が示唆するのは、さらなる成長の可能性。
「まだ、先があるということか」
グスタフ老が、いつの間にか部屋に入ってきていた。
「愛こそが、最強の力じゃ。お主たち二人なら、きっと世界を救える」
老人の言葉に、勇気が湧いてくる。
◆
翌朝、出発の準備を整えた俺たちは、ギルドの前に立っていた。
リク、ミーナ、カール、アルテミス。仲間たちが見送りに来てくれた。
「俺も行くぜ」
リクが名乗り出る。
「私も」
ミーナも手を挙げる。
「危険な任務だ。俺も同行する」
カールも加わる。
「みんな……」
「仲間だろ? 一人で行かせるわけないじゃん」
リクの言葉に、胸が熱くなる。
「でも、ギルドは?」
「私とグスタフ老で守る」
アルテミスが力強く言った。
「お前たちは、世界を守ってこい」
結局、五人パーティーで北へ向かうことになった。一年前の冒険を思い出す編成だ。
「それと、これを」
ミーナが小さな水晶を取り出した。
「通信水晶です。何かあったら、すぐに連絡してください」
ローラやマルコ、ソフィアたち、ギルドのメンバー全員が見送りに出てきた。
「隊長、お気をつけて!」
「必ず帰ってきてくださいね!」
「世界を頼みます!」
みんなの声援を受けて、俺たちは北へと歩き出した。
朝の光の中、第二の太陽が不安そうに瞬いている。まるで、これから起こる出来事を警告しているかのように。
でも、恐れはない。
エリーゼの手が、俺の手をしっかりと握っている。その温もりが、何よりも心強い。
「どこへでも、一緒に」
エリーゼの言葉に、俺は力強く頷いた。
「新しい冒険の始まりだね」
北の空には、薄っすらと黒い雲が見える。あれが、噂の黒い霧なのだろうか。
聖剣エクスカリバーが、鞘の中で唸るように震えている。
一年前、最弱職と呼ばれた【掃除士】として始まった冒険。
そして今、愛する人と共に、新たな脅威に立ち向かう。
レベル100を超えた先に、何が待っているのか。『無』とは何なのか。虚無病を完全に治す方法はあるのか。
答えは、これから見つけていくことになる。
「さあ、行こう」
五人で、力強く一歩を踏み出した。
新たな冒険が、今、始まった。
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