南の客人①
「お目覚めですか」
セーラが声をかけると、先ほどまで健やかな寝息を立てていた主は、まだ眠たげな瞳をわずかに開けて頷く。額にかかった栗色の髪がはらりと揺れる。セーラが初夏に切ってさしあげた前髪は、また目元にかかるくらいまで伸びてきている。
「今、どのあたり……?」
「もうじき、今日泊まらせて頂くお屋敷に着くそうですよ」
「そうなんだ、ありがとう。窓、開けてもいい?」
主が寝ぼけた声で言うと、セーラの向かいに座る老騎士が窓を上げてくれる。すると途端に、夏の草の香りが馬車に吹きこんでくる。
主はおずおずと、しかし頬を仄かに紅潮させながら、外の世界を覗きこむ。真夏の草原。町へと続く石畳の道。遥か遠くに見える山々。自分たちはあの山の麓を迂回して、帝都からはるばるこの地までやってきたのだ。
「これが王国……」
主は呟き、次第に赤く染まっていく山の淵を身じろぎもせずに眺めている。セーラはそんな主の横顔を、いつも通り口元を引き締めた表情でじっと見守っていた。
「それでは! アンシル皇女殿下の王国ご到着を祝して、乾杯!」
獣人の領主が恰幅の良い身体に相応しい大音声で宴の始まりを告げると、あちこちで唱和する声が上がった。
「殿下! お目にかかれて光栄です!」
「殿下! こちらの焼き菓子などいかがでしょうか! 我が町自慢の逸品です!」
「お前たち、殿下は長旅でお疲れなんだ! 行儀良く順番に並べ!」
集まってきた人だかりで、小さな皇女はすっぽりと覆い隠されてしまう。彼女のすぐ脇に控えていたセーラも、人の波に流されて主と分たれてしまった。
「……あ、はい、どうも……こちらこそご丁寧に……あら、美味しい……」
人だかりの向こうから聞こえてくるか細い声に、セーラは眉を寄せる。
「大丈夫でしょうか……」
「なに、問題はないでしょう」
壁際に影のように佇みながら、老騎士が言う。
「些か強引ですが、敵意は感じません。おそらく純粋に、殿下の来訪を歓迎されているものかと」
「そうですね……ランダルト様がそうおっしゃられるのなら、きっとその通りなのだと思います」
騎士ランダルトといえば、帝都でもその名を知らぬ者はいない。騎士団長の座を引いた今でも、その腕は衰えを知らず、帝都一の剣士の名を欲しいままにしている。それでいて、セーラのような一介の侍女に対しても丁寧な物腰を崩さない。あまり男性に好意を持つことがないセーラも、彼のことは信頼していた。
「たしかに、歓迎してくれてはいるみたいですね。幸いなことに」
「意外ですかな」
「あ……いえ、そういうわけでは」
セーラは一旦口を噤んでから、再び話し始める。
「正直に言えば、少々意外です。もう少し邪険に扱われるか、そうでなければ徹頭徹尾無関心かと」
ランダルトは頷く。
「セーラ殿は生まれも育ちも帝都でしたか」
「はい」
「それだと、そういう認識になるのも無理はありませんな。私も、初めて聞いたときは意外に思ったのですが、この辺りの民は戦時中から帝国と交流を持っていたそうです」
「戦時中から?」
「王国の全ての領主が戦争に参加していたわけではないのです。終戦間際の頃ですと、表向きに魔王への支持を表明していた領主は全体の三割ほど、実際に戦争に参加していたのはその半分程度だったそうです。この辺りは古くから国境を跨いだ交易が盛んでしたので、敵対感情も薄いのでしょう」
「そうだったんですね。全然知りませんでした。……あら」
人波の隙間を縫うように、もみくちゃにされた様子の主がふらふらと現れる。
「もうよろしいのですか。まだまだ皆さん、アンシル様とお話しされたがっているようですけど」
「……ちょっと休憩させてもらうことにしたの」
アンシルはよろめき倒れるように、手近の椅子に座りこむ。セーラは苦笑を浮かべつつ、主のグラスに果実水を注ぐ。
「お酒、勧められちゃったわ。こっちの人って、子どもでもお酒飲むのかしら」
「どうでしょう。よその国では、それほど飲酒の戒めが厳しくないとは聞いたことがありますけど……」
「昔の記憶ですが、年若い者でも酒を嗜んでいたような覚えはあります」
ランダルトは遠い昔にも王国を訪れたことがあるのだという。
「といっても殿下のお年ですと、流石にまだ早いとは思いますが」
「そうよね。でもちょっと、飲みたかったかも。王国のお酒を飲めば、お兄様への良い土産話になっただろうし」
「ああ、ヘイワード様はお酒がお好きですものね」
「うん。お兄様、わたしがお酒に興味があるのを知ってて、わざわざそんな話ばっかりするのよ。ほんと、性格が悪いんだから」
主の口調に棘はない。聡明で洒落者な兄を心から慕っているのだ。
兄だけでなく、彼女は姉たちにもよく懐いており、年上の皇女たちもまた末の妹を可愛がっている。彼らとアンシルでは母親が違うのだが、生来持ち合わせている性格の良さによるものか、主は腹違いの兄姉たちとも良好な関係を築いている。
……まあ、ヘイワード様たちがアンシル様を気にかけてくださるのは、それだけが理由でもないのだろうけど。
セーラが物思いに浸っていると、ふたつの対照的な人影がこちらに近づいてきた。丸々と太った巨大な犬のような獣人は、この館の主人である。そしてその横に並ぶのは、小柄で痩せぎすの、なんだか抜け目のなさそうな笑みを浮かべた老人だった。最初は魔族かと思ったが、角が生えていないところを見ると帝国人らしい。
主人は人の好さそうな笑顔を浮かべながら、ぺこりと頭を下げる。
「大勢で押しかけてしまって、申し訳ありません。行儀良くしろと言い含めてあったのですが、なにぶん行儀のぎょの字も知らぬやつらでして……」
「いえ。こんなに歓迎してもらえて、とても光栄です。あの、そちらの方は?」
待ちかねたように、老人はずいと一歩前に出る。
「ああ、この者は……おい、紹介してやるから勝手に出しゃばるな。いつもの調子で無礼な口を聞かれちゃかなわん」
「ふん、帝国流の礼節ならお前より余程心得ておるさ。……お初にお目にかかります。まさかこのような辺境の町で、皇女殿下にお会いする栄誉を拝することができるとはゆめゆめ思わず、恐悦至極に存じます……」
「え、ええと、あなたは?」
「おお、申し遅れました。私はタンディル家のパーンと申す者です。この地にて代々、帝国と王国の仲を取り持つ役目を仰せつかっております」
「帝国と王国の仲を?」
「仰せつかったというより、こいつの先祖が勝手に始めたことですがね。なんでも戦時中に、ある日突然帝国人がこの町に現れて、商売をさせてほしいとのたまわったとかで」
「え、戦時中にですか?」
「当時は戦争が特に激しさを増していた時期ですから、当然即刻捕らえられたんですが、持ち前の舌先三寸で切り抜けたらしく、こうして今日まで子孫がしぶとく生きながらえておるのですよ」
「舌先三寸とはなんだね。人徳だよ、人徳。戦の最中、王国の友と手を繋ぐべく命を省みずに歩み寄ってみせた姿勢に、君たちの先祖も胸を打たれたのさ」
パーンが言うと、主人は大仰に肩をすくめてみせる。
「ただまあ、それが交易の端緒になったのは間違いないようですがね。それに帝国との交易で暮らしが潤った結果、サリファ伯は帝国との停戦を決断なさった。そういう意味では、たしかにこの男の先祖は我らの英雄ではあります」
「そうそう。なんせそれまでは、徒歩で二日もかからぬ距離なのにお互い門戸を閉ざしていたわけですからな」
得意げに言うパーンを、アンシルは澄んだ瞳で見つめる。
「どうしてパーン様のご先祖様は門を叩こうと思ったのでしょう」
「なに、簡単なことですよ。隣人の家の扉は叩いてみたいものでしょう? 噂じゃ化け物が住んでるというけれど、果たして本当にそうなのか。ご先祖様はきっと、それを確かめてみたかったのでしょうな」
パーンはそう言うと、皺の刻まれた目元を細める。
「殿下。あなたのようなお若い方が王国を訪れてくださったことを大変嬉しく思います。是非この旅で見聞きしたことを、帝国の民にもお伝え下さい。なにせ多くの者は未だ、王国は化け物の住まう未開の地と思いこんでいるようですからね」
「……はい」
主の声は一見か細く、儚げだった。しかしその奥にある明瞭な意思が、セーラには感じ取れる気がした。
宴の後、よろよろと寝床に倒れこんだアンシルに、セーラは毛布を差し出す。
「流石にお疲れですか」
「うん、ちょっと」
「いらっしゃった皆さんとお話しされましたものね。今日はゆっくり体をお休め下さい」
「うん……おやすみ」
ほどなくして、健やかな寝息が聞こえてくる。セーラはまだまだあどけなさの残る主の寝顔を見下ろす。
きっと今日はだいぶ緊張したのだろう。なにせ彼女がこれほど注目を浴びる機会など滅多にあるものではない。帝国内の領主の元を訪れた際も、当然丁重な扱いはされた。しかし、それはあくまでも儀礼の範疇を出ず、今日のような熱を帯びた歓待とはまったく別種のものだった。
……人前に出るのも得意じゃありませんのに、今日は異国の地でよく頑張りましたね。
不敬とは思いつつ、セーラは労るように右の手のひらを、アンシルの栗色の髪に伸ばす。
その瞬間、扉を叩く音がして慌てて手を引っこめる。
「は、はい。どなたでしょう?」
「セーラ殿。もう殿下はお休みですか?」
扉越しの老騎士の声に、ほっと胸を撫で下ろす。
「はい。何かご用でしたか? もう寝入られてしまったのですけど……」
「いえ、それならかえって都合が良い。殿下にお聞かせする話でもございませんので」
「何かあったのですか?」
「目下、差し迫った問題が起こっているわけではないのですが」
言葉とは裏腹に、扉を開けて入ってきたランダルトの表情はいつも以上に硬い。
「少し気になる話を小耳に挟みまして。―近頃、人攫いが出ているそうです」
「人攫い、ですか」
予想外の言葉に、セーラは目をしばたたかせる。
「はい。身代金を要求してくるでもなく、攫われた者はそのまま行方知れず。そういった事件が、この頃頻発しているそうです」
「それは恐ろしいですけど……ランダルト様たちがいらっしゃれば、人攫いなど恐れるに足りないでしょう」
今回の王都行きの旅には、ランダルトを筆頭に帝都の騎士たち数名が同行している。人数は少ないが、ランダルト自らが選定した騎士たちは腕利き揃いである。
「はい、ただの荒くれ者ならばどうとでもなります。しかし、その人攫いはどうも魔術を用いるようなのです」
「魔術を………」
セーラは魔術には詳しくないが、相手に暗示をかけ、意のままに従わせるような魔術も世の中にはあるという。そんな輩がもし、帝国からやってきた皇女に目をつけたら。
「あくまでそういう話を聞いたというだけで、殿下が狙われると決まったわけではありませんし、護衛の中には多少魔術の心得がある者もおります。この話は頭の隅にでも留めておいて頂ければ結構ですので、どうかあまりお気になさらぬよう」
「そう、ですよね」
ランダルトが去った後、セーラは大きく息を吐いて椅子にへたりこむ。そして、横の寝床で寝息を立てている主の顔を覗きこむ。
「やれやれ、人攫いですって」
もし、アンシル様が人攫いに攫われてしまったら。自分は、一切を省みずに人攫いの根城に突撃してしまうかもしれない。もちろんそんなことは決して起こってほしくないし、勇猛な騎士様たちがついていてくれれば何も心配ないとは思うのだが。
……つい、嫌な想像をしちゃうな。私も長旅で疲れが溜まっているのかも。
セーラは立ち上がると、おやすみなさいませと呟き、机の上の灯りを吹き消す。
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