悔恨①

帝都の東端、シャール湾に面する岬の先には、こじんまりとした屋敷が建つ。

 とある貴族が所有するその屋敷には、ごく少人数の使用人を除くと、彼の奥方、妹、そして伯祖父の三人が住んでいる。

 屋敷の玄関口で、白い口髭を蓄えた老人が身支度をしている。つばの広い帽子を被り、年季の入った灰色の外套を羽織った隙のない立ち姿。腰には彼の代名詞と言える、黒い鞘に包まれた長刀。齢を重ねても、鋭い眼光は一向に衰えを見せない。

 老人が玄関の扉に手をかけるのと時を同じくして、階段を駆け降りる音が聞こえてきた。

「あら、ランダルト様。もうお出かけですか?」

 鳶色の髪をたなびかせて現れたのは、不在の夫に代わって屋敷の主人を務めているサイアだった。

「今日はどちらへ行かれるんでしたっけ?」

「公爵家へ」

「公爵家?」

「エリアス閣下……公爵の御令孫から招集がかかったのだよ」

「まあ。一体どんな御用事でしょうね」

「さて、見当もつかんがね。それよりリーンの様子はどうかな?」

 ランダルトが尋ねると、サイアはぱっと目を輝かせる。

「今日はだいぶ元気ですよ。エイブラムから手紙が来ましたからね。ああ、でも」

「でも?」

「今は少しすねています。エイブラムが、ガルプ伯の御令嬢はリーンとよく似ているなんて書いてくるものだから」

 サイアの言葉に、ランダルトは口髭の下に淡い笑みを浮かべる。

「なるほど、それは気にしそうだな。調査の進捗については何と?」

「少し光明が見えてきたらしいです。伯や御令嬢にも協力頂いていて……それから、先日は魔王陛下からも手紙を頂いたんですって」

「魔王?」

「エイブラムの研究に興味をお持ちだとかで、ひょっとしたら陛下からも援助を頂けるかもしれないと」

「それは何よりだな」

「ええ。この調子で順調に研究を進めていければ、きっと……」

「ああ。エイブラムならきっとやり遂げるだろう」

 帝国一の剣士と謳われ、かつては騎士団長の位にも就いていたランダルトだが、現在では公職を退き静かな余生を送っている。

 以前は帝都の中心街で暮らしていたが、研究のために王国へ向かうことになったエイブラムから、自身が不在の間留守を預かってくれないかと頼まれ、帝都の外れの岬に移り住むことになった。

 屋敷の周囲には若草が生い茂り、なだらかな坂を下っていくと遠くに中心街が見える。天を突く威容を誇る大聖堂を囲むように、色も形も様々な建築群が全方位に広がっている。港には何隻もの帆船が停泊しており、ひょっとしたらその中には遥か北の都を目指す船もあるかもしれない。

 ……魔王、か。

 ランダルトは先程サイアと交わした会話を反芻する。

 ……彼女の治める都も、今ではだいぶ様変わりしているのだろうな。

 ランダルトの思考は遠い記憶の彼方へ、五十年前の夏、帝国の使節団として王都へ向かった日々へと遡っていく。


 ランダルトは子爵家の長男として生まれたが、父が跡継ぎとして選んだのは彼の弟だった。

 後々の家の発展を見れば、父の選択が正しかったのは明らかだ。弟は頭脳明晰で、時流を巧みに読む聡さも持ち合わせていた。対してランダルトは、幼い頃から剣以外にこれといった才を示さなかった。弟が家を継ぎ、ランダルトが帝都の騎士団に籍を置くことになったのは誰の目にも自然な成り行きだった。

 ランダルトは騎士団ですぐに頭角を現し、二十歳を過ぎた頃には並ぶ者のない剣の使い手として名を馳せるようになっていた。

 彼は騎士として過ごす日々に充足感を覚えていた。もとより難しいことを考えるのは得意ではなかったし、ただ剣を振り、それが主君や周囲の人々の役に立っているのならそれで十分だった。

 ある日、彼は騎士団長に呼び出された。執務室に向かうと、騎士団長は彼をさらに別の場所まで連れていった。窓もない、外界から隔絶された部屋。

 そこで待っていたのは、ひとりの男性貴族だった。髪にはだいぶ白いものが混じっているが、整った顔立ちはまだまだ若々しい。

「やあ、よく来てくれたね」

 ランダルトは以前、その男を式典で見かけたことがあった。通称、外務卿。外交に明るく、帝国の対外政策に大きな影響を与える立場にあるためにそう呼ばれている人物だった。

 外務卿はランダルトに腰かけるよう勧めると、早速本題を切り出した。

「八月の末に王国で行なわれる聖祭に、ウィザーヌ皇子が使節として向かわれることは知っているかな?」

「はい、存じ上げております」

「ならば話が早い。君には皇子の護衛として、使節団に加わってもらいたいのだ」

「かしこまりました」

 答えながら、ランダルトは釈然としない気持ちを抱く。皇子の護衛は大任だが、わざわざ伏せるような性質の話とは思えない。

 ランダルトの疑問を察したように、背後で騎士団長の声が上がる。

「お前にはもうひとつ任務が与えられる。お前にしか為し得ない、栄えある任務だ」

 外務卿は頷くと、懐から小さな包みを取り出し、封を解く。

「これは……」

 現れたのは、緋色の鞘に覆われた短剣だった。ひと目見ただけで尋常ではない力を秘めているとわかる、禍々しい気配を宿した一振り。

「任務遂行のため、君にこれを授けよう」

 外務卿は柔和な笑みで、ランダルトを見定める。

「君に、魔王の暗殺を頼みたい」


 灌木の茂る平原を、騎馬の一団が行く。

 ランダルトは馬上から、周囲の景色を見るともなく見ていた。昨日国境を越えたが、景色に特段目を惹くような変化は見られない。魔王の治める地は人には到底生きられぬ魔境と、祖父などは言っていたものだが。

「案外たいしたことなくて、拍子抜けしちゃいました?」

 ランダルトが振り向くと、そこには朗らかな笑顔を浮かべた少女がいた。見た目はほとんど帝国人と変わらず、犬か狼を思わせる三角形の耳だけが彼女が王国の者であることを示す証左だった。

「これまで案内した帝国の人たちも皆、今のランダルト様と同じ顔をしてました。あれ、思ったより普通だぞって」

「そんなに顔に出ていましたか」

「はい。それはもう、はっきりと」

「申し訳ありません」

 少女は軽やかな笑い声を立てる。

「謝ってもらうようなことじゃありませんよ。むしろ、ランダルト様のそういう顔が見れて良かったです。……あ、呼ばれてるので行きますね。では、また」

 馬を巧みに操って去っていく少女の後姿を、ランダルトはぼんやりと目で追った。

 ……あれが王国の民か。

 彼女は王都までの道先案内として派遣されてきた者で、名をソフィといった。

 ……たいした乗馬の腕前だ。王国の民は皆そうなのだろうか。

「いい子だね、彼女」

 柔らかな声音で話しかけてきたのは、ランダルトが護衛を任された貴人、ウィザーヌ第三皇子その人だった。

「ランダルトもそう思うだろう?」

「いえ。私はただ、乗馬がお上手だなと」

 ウィザーヌはくすくすと笑う。

「きみの場合は、ごまかしじゃなく本当にそう思ってそうだからなあ。まあ、そこがきみの良いところではあるんだろうけど」

「そうでしょうか」 

「ああ。素直で生真面目。私にはない美質だよ」

 帝都を発ってからそれなりの日数が経っていたが、ランダルトは未だにこの皇子の気性を掴みかねていた。

 色白で、淡い金髪を小さく束ねた容貌は、いかにも上流貴族の子息然としている。物腰も柔らかく、一見すると非の打ち所がない皇子なのであるが。

 ……聡い方なのは間違いないのだろう。

 しかしこの皇子の聡明さは、父や弟の聡明さとは少々性質の異なるもののように思える。どう異なるのだと問われると、ランダルトにも答えようがないのであったが。

「まあ、きみも王国へ来るのは初めてということだし、この機に色々見聞を深めてみるのも悪くないんじゃないかな。私の護衛はほどほどで構わないから」

「いえ、そういうわけには」

「大丈夫だって。私はこう見えて、そこそこ強いんだよ」

 それは存じておりますがそういう問題では、と言い終わる前に、ウィザーヌは愛馬を駆って優雅に去っていった。

 後を追おうとしたランダルトに、背後で息を潜めていた人物が耳打ちする。

「放っておけ。適当に物見遊山をしていてもらったほうが、こちらとしても都合が良い」

「しかし、万一のことがあっては」 

「案ずるな。皇位を継ぐこともなく、人当たりの良さだけが取り柄の皇子に何かあったところで誰も気にしない」

「……」

 その男は、外務卿がランダルトのお目付役として派遣した騎士だった。彼の他にも何人か、外務卿の手の者が旅に同行していた。

 彼らの役目は、ランダルトの任務遂行を見届けることだった。

「とにかく、お前は自分の任務のことだけを考えていろ。それ以外の些事にいちいち気を取られるな」

「……わかった」

 ランダルトは前方に向き直る。雑念を削ぎ落とすべく、何の変哲もない平原の一点を見据える。

 ……いつも通り、与えられた任務を遂行する。自分にできるのはそれだけだ。

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