厨房係の憂鬱③
翌朝、リックは仕事中もずっと考えを巡らせ続けていた。
「おや、昨日はなんだか放心したような顔だったけど、今日はまた様子が違うね」
「あ、シュミットさん。すみません、少し悩んでいまして」
「悩み? 私で良ければ聞くけど、どんな悩みだい」
世話好きのシュミットが柔和な表情で尋ねると、リックは神妙な面持ちでこう尋ねた。
「素人でも簡単に作れる料理はないでしょうか」
リックの口から飛び出した意外な言葉にシュミットは目を丸くするが、すぐに質問を吟味するようにくねくねと首をもたげさせる。
「……茹で卵とか?」
「それはもうやってしまったんです」
「やってしまった?」
「あ、いえ……つまり、検証はしたけど、やはり難しいという結論に至ったんです」
リックのしどろもどろの答えをシュミットは深く追及せず、再び首をくねらせる。
「なるほど、じゃあ氷菓子はどうだい? 果実を凍らせるだけなら火も使わなくていいしね」
「すみません、それももうやっ……検証してしまっていて。あとこれは直感なんですが、火を使う料理のほうがいい気がするんです。なんとなく、そのほうが料理をしている実感が湧くと言いますか……」
「ふうん、火を使う……甘いもの? それともしょっぱいもの?」
「どちらもお好きだとは思うんですが、どちらかといえば甘いものでしょうか」
「ふんふん。わかった、私のほうでもちょっと考えてみるよ」
「ありがとうございます」
ところで、とシュミットは何気ない調子で切り出す。
「砂糖がほんのちょっぴり減っているような気がしたんだけど、気のせいかな?」
シュミットの言葉はあくまで穏やかだったが、リックは視線をあちこちに彷徨わせ、だらだらと汗を掻き、最後には消え入るような声で「……補充しておきます」と呟いた。
「おや、助かるよ。だけど砂糖は高価だし、他にも必要なものがあるなら、ちゃんと請求したほうがいいかもね」
「……はい」
シュミットが去った後、リックはへなへなとその場に頽れた。
その夜、リックは少し早めに厨房へ向かい、授業の準備を始めた。
約束の時間を少し過ぎた頃、バタバタという忙しない足音が聞こえてきた。
「ごめんなさい! じい様方に捕まって遅くなっちゃった!」
余程急いできたのか政務用の紫色のローブのままの魔王に、リックは落ち着いた笑みを向ける。
「大丈夫ですよ。汚れてしまいますから、まずは着替えてきてください」
「ええ、ごめんなさい……これが、今日作るものの材料?」
調理台の上には、大量のいちごに砂糖の袋、それにレモンが置かれている。
「はい。今日はこれでジャムを作ります」
「ジャム!」
魔王の瞳が爛と輝く。そして疾風のごとき勢いで戸口を飛び出していったと思うと、瞬く間にエプロン姿で厨房へと舞い戻ってくる。
「さあ、やりましょう!」
「はい。ではまず、鍋にいちごと砂糖を入れてください」
「はーい!」
砂糖を袋から鍋に流しこもうとする魔王に、リックは陶器のカップをすっと差し出す。
「調味料は分量をきっちり量って入れます。今回の場合は、このカップ一杯分ぐらいで良いでしょう」
「なるほど……きちんと分量を量る、と」
「次に、レモンの汁を加えます」
「いちごジャムで、どうしてレモン?」
「レモンを入れることで、ジャムにとろみがつくんですよ。というわけで、レモンを切って頂きたいのですが……魔王様、ナイフの扱いに自信はありますか?」
「短剣の扱いなら、子どもの頃に散々仕込まれたわ!」
「なるほど……あ、そんなに勢いをつける必要はないです。まな板に刺さってしまいますよ」
下ごしらえを終えたら、あとはいちごから水分が出てくるまで、ひたすらに待つ。
「どのくらい待てばいいの?」
「そうですね……日付が変わる少し前ぐらいには丁度良い具合になっているかと」
「そんなに待つの⁉」
「料理は時間がかかるものなんですよ。ここは僕が見ていますので、一旦部屋に戻って頂いても構いませんが……」
「ううん、あたしも残る。あたしの料理なんだから、ちゃんと見ていてあげないとね」
「わかりました。では、一緒に待ちましょう」
「ええ。その間、リックの話を聞かせてよ。お師匠様の話とか、旅の話とか」
「師匠の話ですか……」
リックは躊躇いがちにぽつぽつと、尊敬する師のことを語り始めた。魔王はあまり口を挟むことなく、うんうんと頷きながらそれに耳を傾けた。そうするうちに夜は一層更けていき、用意しておいた水時計の水もいつのまにか全て底に沈んでいた。
「そろそろかしら?」
「ええ、もういいでしょう。後は火を点けてひたすら煮込むだけです。というわけで、火の用意をお願いします」
魔王の瞳が点になる。
「そ、そんなご無体な。また可哀想な鍋が増えちゃってもいいの?」
「魔術を使う必要はないですよ。道具は用意してあります」
リックは床に置かれた小枝や薪、火打ち石などの道具一式を指し示す。
「魔術がなければ、種火はこういう道具で起こすしかありません」
「なるほど……」
魔王はうーむと唸り、それから頷く。
「わかった。先生がそうおっしゃるなら、やりましょう! 火打ち石なんて全然使ったことないけど、頑張る!」
「その意気です」
しばらく火打金と火打石を叩き合わせ続けた末に、魔王はなんとか小さな種火を生みだすことに成功した。
「あー疲れた……」
「お疲れ様です。では、まずは細い小枝に火を移してください。火が安定してきたら、徐々に太い枝も投入していきましょう」
「はーい、一旦火が付いちゃえばこっちのもんでしょ」
魔王は意気揚々と薪をくべていく。最初はちろちろと頼りなく揺らめいていた炎も、段々とその勢いを増していき、やがて火の上に吊るされた鍋からグツグツと音がし始める。
「ほら、どんなもんよっ」
「お見事です。ただ、火が少々強すぎるかもしれませんね」
「えっ! このままじゃ鍋溶けちゃう?」
「鍋は溶けないと思いますが、中身が煮詰まり過ぎるかもしれません」
「煮詰まり過ぎるとどうなるの?」
「やたらめったら固いジャムが出来上がります」
「その最悪の結末を回避するためには、どうしたらいいのかしら」
「火自体を調節する手もありますが、鍋を火から離したほうが手っ取り早いですね。ほら、ここで鍋を吊るす鎖の長さを調節できるようになってるんです」
「はー……工夫されてるのねえ」
火加減が安定してしまえば、後は煮えるのを待つばかりになる。
「ああ、いい匂い……嗅いでるだけで口の中が甘くなっていく……」
うっとりと呟く魔王の横顔を、リックはちらりと窺う。
「どうでしたか、魔王様」
「え?」
「ここ三日間で初めて、最初から最後までご自身の手で料理をして頂きましたが、いかがでしたか」
リックの問いかけに、魔王は苦笑を浮かべる。
「そうねえ……料理って結構大変かも。だけどそれがわかっただけでも大きな収穫じゃないかしら」
「収穫ですか」
魔王は大きく頷き、すぐ横に座るリックを見る。菫色の瞳を、リックは少し緊張した面持ちで受け止める。
「知ってるかもしれないけど、リックが来るまで魔術師がここの厨房で働くことなんてなかったのよ。何でだと思う?」
「他にもっと相応しい仕事があったからでは?」
「まあ、ある意味ではそうね。少なくとも、彼らはそう信じていたんでしょうし」
魔王は穏やかな表情のまま、こう続ける。
「厨房で働いてくれないかって頼んだ途端、皆辞めちゃうのよ。そんなの魔術師のする仕事じゃない、自分を厨房で働く下働きなんかと一緒にするなってね」
リックは一瞬虚を突かれたような表情になり、それから顔を赤らめて黙りこんでしまう。
魔王はそれを見て、ふっと笑む。
「別にリックを責めたいわけじゃなくてね。ようは、それくらい当然の認識ってこと。あたしだって全然人のことは言えないしね」
魔王は手のひらを開き、そこに紫色の炎を生じさせる。
「あたしの一族はね、お父様もそのまたお父様も、たくさんの命を焼き尽くすことだけを考えて生きてきた。これはそのための武器。あらゆる命を灰になるまで燃やし尽くすための炎」
紫色の炎は、魔王の菫色の瞳を妖しく照らす。それは美しく、同時にどこか不穏な眺めだった。
「たぶん、こういう炎が必要なときというのもあるのでしょうね。言葉が通じず、ただ燃やし尽くすしかないとき。それは、良いとか悪いとかではなくて、もうそういう風に決まってることなんだと思う」
魔王の声はあくまで穏やかだった。自身の身に宿る破壊の力を受け入れる、静かな意志がそこには在るように思えた。
「だけど、それが全てではないと思うの」
魔王は炎を消失させる。そして両の手を伸ばし、リックの手をぎゅっと握る。
「あたしの炎は燃やし尽くすことしかできないけど、リックの炎は違うでしょう? あなたの炎はもっと素敵なものを生みだすことができる」
「素敵なもの……」
リックは魔王の言葉を、頭の中で反芻する。
「あたしはね、リックみたいな魔術師がどんどん増えればいいと思ってるの。燃やし尽くす魔術師じゃなくて、素敵なものを生みだす魔術師。戦争が終わってもう百年も経つんだから、そろそろそういう人たちがたくさん出てきてもいい頃じゃない? ―そう思って、自分でもいっちょ挑戦してみようかなと思ったんだけど……やっぱりあたしの手はこういう繊細な仕事には向いてないみたい」
魔王は自身の手に目を落とし、あ、と呟いてから、ぱっとリックの手を放す。
「ごめんなさい、つい」
「魔王様」
「うん?」
「こういう仕事には向いてないとおっしゃいましたが、そんなことはないと思いますよ」
リックはグツグツと煮え立つ鍋を指差す。
「ほら、そろそろ出来上がりです」
薄切りのパンに、まだ熱いジャムをたっぷりと載せる。
「どうですか、初めて作った料理の味は」
リックが尋ねると、頬をパンで一杯にした魔王は、聞くなと言わんばかりにただ頷く。
「自分で作った料理というのは、人に作ってもらった料理とはまた違う美味しさがあると思います」
魔王は咀嚼しつつ、ただ頷く。そしてパンを載せた皿をひょいと手に取り、リックに差し出す。
「え。いや、僕は」
咀嚼を続けながら皿を差し出し続ける魔王の姿を見て、リックは表情を和らげる。
「そうですね。美味しい料理ができたら、周りの人にも味わってほしいですよね」
そう呟いた瞬間、とたとたと忙しない足音が聞こえてきた。
「衛兵の見回りかしら……?」
「そうですね……それならまだいいんですが」
衛兵ならば、この場は見逃してくれるだろう。しかし、もし厨房長のタニサだったら―彼女は自身の聖域をみだりに侵すものは、誰であれ容赦しない。
「様子を見てきます。魔王様はどこかに隠れていてください」
「ううん、あたしも行く」
「ですが……」
「元はと言えば、あたしが言いだしたことでしょ。大丈夫、説教を喰らうのは慣れてるもの。ダナモスでもタニサでも、どんと来いよ」
「わかりました。こうなれば一緒に叱られるとしましょう」
「ええ、同じ鍋のジャムを食べた仲だものね」
リックは魔王とともに、厨房の入り口に近づいていく。
「―あれ、リックじゃん。何してんの、こんな時間に」
戸口の影からひょっこりと姿を現したのは、寝間着姿のニコラだった。さらにその背後から、同じく寝間着姿のシファが顔を覗かせる。
リックは一気に脱力し、安堵と呆れの入り混じった声で言う。
「お前らこそ、こんな時間の厨房に何の用だよ」
「いやさ、今日あたしもシファも遅くまで仕事してて、夕飯食いっぱぐれちゃったんだよね。それでどこかで何か恵んでもらえないかなーと、あてもなく彷徨ってたんだけど……」
「そうしたら厨房からすごく良い匂いが漂ってきて、蜜に吸い寄せられる蜂のようにふらふらと……ねえ、この匂いってジャム?」
「ご名答!」
「うわっ、魔王様? なんだってこんなところに……」
「深夜の料理教室を受講してたの」
「料理教室?」
顔を見合わせるふたりに、魔王は手招きをする。
「まあとにかく、ちょっと食べてってよ。あたしの労作なの」
明くる日、リックはニコラと連れ立って厩舎へと向かっていた。
「しっかし、お前も大概妙なやつだよなあ。あたしが餌やりしてるとこなんか見て何が面白いんだか」
「……別に邪魔はしないよ」
「そんな心配はしてないけどさ」
リック自身、昨日なぜそんなことを言ってしまったのか、はっきりと答えることはできなかった。ただ、気がついたらふと、隣で魔王の労作を夢中で頬張るニコラに、一角獣に餌をやるところを見せてほしいと頼んでいたのだった。
「それにしても昨日のジャムは本当美味かったなあ。あれ、リックが魔王様に教えてあげたんだろ?」
「そうだけど」
リックが淡々と答えると、ニコラは屈託のない笑みを浮かべる。
「火の前にじっと座ってるだけだと思ってたけど、しっかり料理もできたんだな。ちょっと見直したよ」
「そんなことでいちいち見直すな」
「いやあ、あたしは料理ってからきしだからさ。料理できるやつはそれだけですごく見えちゃうんだよね。そうだ、あたしもリックの料理教室にお邪魔させてもらおうかな」
「勘弁してくれ」
リックは目を逸らし、少し顔を赤らめながら言った。
辿りついた厩舎には、ひとり先客がいた。
「こんにちは、ベンディット伯」
「ああ、君か。そちらは?」
いかにも魔術師然とした、つばの広い帽子を被った老人だった。眼光は鋭いが、攻撃的な印象はない。深い叡智を湛えた賢者の眼差しといったところである。
「厨房で働いているリックです。なんか、あたしがこの子に餌をやってるところを見たいそうです。変なやつだけど悪いやつではないんで、気にしないでやってください」
「そうか。よろしく、リック。君は一角獣に興味があるのかね?」
「ええと、興味というか……」
「リックは魔術師なんですよ。だから、こういう珍しい生き物が気になるんじゃないかな」
なるほど、とベンディット伯は呟き、鷹のような眼をリックに向ける。
「君は炎の魔術が得意なようだな」
「え……」
「へえ。そういうの、見ただけでわかるもんなんですか。あ、厨房で働いてるって話から推理しました?」
ベンディット伯は目元をわずかに緩ませる。
「そういうわけではないよ。優れた魔術師は、ひと目見ればその資質がなんとなくわかる。すなわち、彼の魔術師としての力量がそれだけ卓越しているということだ」
「へえー、すごいじゃん」
リックは、ベンディット伯の言葉を信じられない思いで聞いていた。そして同時に、称賛の言葉にそれほど心を動かされていない自分がいることにも気がついた。これは一体どういうことだろう。むしろ先ほどのニコラの言葉のほうが―。
「んじゃ、餌やるか」
ニコラはまず桶の水を与え、それから細長い黒パンを一角獣の口元に差し出す。
「そ、そんなものも食べるのか?」
「なんでも食べるよ、こいつ。竜だって食うんだろ?」
「いや、それは……」
「ほら」
一角獣は黒パンをむしゃむしゃと、穏やかな顔つきで頬張っている。気高く、人に心を許すことがないはずの獣が、今は心から安らいだ雰囲気を纏っている。
「たいしたものだよ、彼女は」
伯の呟きが、リックの耳を捉える。
「ここまで短期間でこの子と仲良くなった者は、これまでいなかった」
「そうなのですか。ですが、一角獣は優れた魔術師にのみ心を開くと聞きましたが……」
「それは俗説に過ぎんよ」
「そ、そうなのですか。ですが、魔王様もあなたからそう伺ったと……」
「ああ、陛下はあれをそう受け取ったのか。最近魔術の修練を疎かにされているようだったから、そこを指摘したつもりだったのだがね」
「な、なるほど」
「私もこの子が何を基準としているのか、はっきりとはわからないのだが、おそらくはその鋭敏な感覚で魂の在りようを感じ取っているのだろう」
「魂の在りよう……」
「伸びやかな心。苦しみ、もがきながらも前へ進もうとする心。どういう形であれ、一角獣は未来を見据えている魂を好むらしい」
一角獣は、黒パンの最後のひと欠片を呑みこむ。
「もう一個あるけど、リックもやってみるか?」
「え」
返事をする間も与えず、ニコラはリックの手を取り、一角獣の元まで引き寄せる。
「ほら、簡単だって」
「だけど……」
「私がいれば、その子が危害を加えることはない。試しにやってみてはどうかね」
躊躇いつつも、リックはパンを受け取る。それをおずおずと差し出すと、一角獣は何の躊躇いもなく、ぱくぱくとそれを頬張り始める。
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