厨房係の憂鬱②
「それで先生、今日は何を作るのかしら?」
「先生はよしてください。今日は……茹で卵を作ります」
「茹で卵? すごいっ!」
魔王はぱちぱちと手を打ち合わせる。リックは調理台に置かれた笊を手に取る。笊の上には、黄金鳥の卵よりひと回りほど小さい卵が四つ並んでいる。
「豆鴉の卵?」
「はい。黄金鳥の卵より火が通りやすいですが、それゆえもたもたしているとあっという間に固茹でになってしまいます。魔王様がお好きな半熟に仕上げるためには、手際良く作業することが重要です」
「頑張るわっ」
「では、まず僕が手本を見せます」
リックは炉の上に吊るされた鍋に水を注ぎ、魔術で熾した火で薪に着火する。そして卵に小さなひびをつけてから鍋に落とし、それほど経たぬうちに引き上げる。余熱で固まらぬよう水で冷ませば―。
「どうぞ、お召し上がりください」
「わーい、いただきまーす。あ、塩、塩。……うん、美味しい!」
「お褒めに与り、光栄です。では、次は魔王様の番です」
「よーし、行くぞ!」
魔王は炉に手をかざし、紫色の炎を熾す。途端に、鍋の湯が激しく泡を吹き始める。
「えーと、卵にひびを入れておくんだよね。よいしょっと……あら?」
調理台の角にぶつけられた卵から、どろりと黄身が溢れだす。魔王はわたわたとそれを手で受け止めようとするが、そんなことをしているうちに鍋はさらに激しく泡を吐き始める。
「魔王様。この調子だと、湯が全て蒸発してしまいます」
「……あらら?」
「また鍋が溶けてしまうので、一旦火を……」
魔王はしゅんと項垂れて、炎を消失させる。
「……ねえ、リック」
「何でしょうか」
「茹で卵って、作るの難しいほう?」
「狙った茹で具合で作るためには、それなりの修練が必要かと」
「つまり茹で具合を気にしなければ誰だって作れるってこと?」
「誰だってとは申しませんが……材料と最低限の調理環境が整っていれば、それほど難度の高い料理ではないかなと……」
魔王はその場に蹲り、顔を手のひらで覆う。
「やっぱりあたし、才能ないんだ」
「い、いえ、そんなことは。まだ始めて二日目ですし」
「昨日だって何ひとつ上手に作れなかったし、挙句の果てに鍋をひとつ駄目にしちゃったし……」
「道具を駄目にしてしまうのは、習いたてのときにはありがちのことですし」
「でもリックは、鍋を駄目にしたことなんてないでしょう?」
「それはまあ、そうですが……」
リックはどこか影のある笑みを浮かべる。
「僕にはそもそも、鍋を駄目にできるような炎を熾す力がありませんので」
リックは手のひらを上に向け、炎の球を出現させる。球は徐々に大きくなっていき、人の頭ぐらいの大きさになる。
「これが僕に生みだせる一番大きな炎です。何の変哲もないただの火ですから、薪を使ったって同じものは作れます。僕の魔術師としての力量なんて、せいぜいこの程度なんです」
才のある者なら、習い始めて一年足らずでこれより大きな火球を作りだすことができるようになるだろう。しかしリックは何年も修行を重ねて、ようやくこれなのだ。
「師からも、お前の魔術は戦いには向かないと言われました。僕だってそんなことはわかっていましたけど、認めることができなかった。だから師匠の元から逃げるようにして、ここまでやってきたんです」
魔王の膝元で修行を積めば、自身の魔術もまだまだ伸びるかもしれない。そんな儚い、半ば空想じみた期待に縋ってリックは魔王の城の門を叩いた。しかし、彼に与えられた仕事は厨房の火の世話係だった。
「結局それが僕の限界なのだと、今は理解しています。一角獣に拒絶されて、ようやく踏ん切りがつきました。そう考えれば、昨夜の馬鹿な行いにも多少は意味があったのかもしれません」
「そう、あれには大いなる意味があったわ」
魔王はすくりと立ち上がる。リックの目線より少しだけ高い位置から、満ちた月のように朗らかな笑みが彼を見下ろす。
「おかげでこうして今、リックとお喋りできてるんだもの」
魔王はそう言って、自身の頬を両手でぱしりと叩く。
「さあ、続けましょ。次は何を作るの?」
リックはしばし目をぱちくりとさせていたが、やがておずおずと言う。
「では……次は、火を使わないデザートでも」
「デザート? いいじゃない! 氷の魔術なら任せて!」
「あ、いえ……氷石を用意してきましたので、そちらを使いましょう」
リックは凍らせた蒲萄と冷やした砂糖水をガラスの杯に盛りつけ、魔王に差し出す。
「うひゃ、冷たっ!」
魔王は目をきつく瞑ったまま、凍った果実を口の中で転がす。
「あ、ちょっと溶けてきた。ああ、果実の甘みが舌の上でじわじわと広がってく……」
リックは魔王の弛緩しきった顔を見て、満足げに微笑む。
「まだ材料は残っていますが、ご自分でもお作りになられますか?」
魔王は次の一粒を賞味するべく、大口を開けた状態でぴたりと停止する。
「そ、そうだったね。あんまり美味しいから、すっかり当初の目的を忘れちゃってた。ごめんなさい」
魔王は立ち上がりかけたが、その視線は依然として眼前のグラスに向けられたままである。
「やっぱりこれ、食べ終わってからでもいいかしら?」
「もちろんです。どうぞ、最後までお召し上がりになってください」
魔王は再び腰かけ、至福の表情で凍った果実を口に放りこむ。
「あー、冷たいけど美味しい……いや、冷たいから美味しいのかな……? なんにせよ美味しい……ほれにしても、リックっへさあ……」
「ま、魔王様。食べるのと喋るのは別々にされたほうが……」
「あ、ごめんごめん。サジャにもよく注意されるんだよねえ、それ。でさ、リックって何でも作れるよね。火の世話が仕事だから、てっきり火を使わない料理は専門外なのかなと」
「いや、これは果実と氷石と砂糖があれば誰でも作れますので……」
「だけどあたしがやったら、果実をかちこちに凍らせすぎたり、砂糖水を変に濃くしちゃったりしそうじゃない? ちゃんとどれぐらいの塩梅が一番美味しくなるのかわかってるのが、うらやましいなって思うの」
うらやましい、という言葉にリックは虚を突かれた顔をするが、すぐに表情を戻すと淡々と言う。
「以前から、炊事は僕の持ち回りでしたから」
「以前?」
「師匠の下で修行をしていた頃のことです。僕と師匠と兄弟子の三人で、あちこちを旅していたんですよ」
魔王はぱっと目を輝かせる。
「へえ、それって帝国を旅してたの? それともこっちにも来てくれてたり?」
「こちらは国境沿いに立ち寄ったぐらいですね。そのうち王都に向かおうという話もあったのですが、実現する前に師の元を離れてしまったので」
「でもそうしたら、いずれお師匠さまもリックを訪ねてくれるかもしれないね」
魔王の言葉にリックは目を瞬かせる。師匠と再び会うことなど、これまで考えたこともなかった。あるいは、あえて考えないようにしていたのか。
動揺するリックの傍らで、魔王は調理台の下の足をうきうきと揺らす。
「いいわねー。あたしも王様の仕事なんかほっぽりだして旅に出かけたい。そんで、もしそのときが来たらリックを料理人として連れていこうっと」
どこまでが本気かわからぬ発言にリックは苦笑する。
「僕より優れた料理人なら、王都に何人もいらっしゃるでしょう? それに……」
呟きかけて、リックはふと思い直したように口を噤む。
「それに?」
「いえ、お気になさらず」
「そんな言い方されたら、かえって気になるじゃない。ほら、怒ったりしないから言ってみて」
リックは俯いて口を閉ざしていたが、やがて静かな、毅然とした声で言う。
「僕は料理人ではなく、魔術師として魔王様に仕えたいと考えていますので」
魔王はリックを興味深げな目で見る。
「それはつまり、魔術で戦う兵士として、という意味?」
「はい。主君を、そして民を魔術の力で守り、助ける。それが僕の理想とする魔術師です」
「どうしてそういう風に思うようになったのか訊いてもいい?」
「……僕は、帝国中央部の山間の村の生まれです」
麓まで降りるのに半日以上かかる高地で、山に生息する獣の毛皮や植物を低地の村に売り、生計を立てていた。
「村の暮らしは豊かではありませんでしたが、平和でそれなりに満ち足りてはいました。しかし、あるとき魔物がどこからかやってきて、村の者を次々と襲い、殺していきました」
「……うん」
「僕の両親は狩人だったので、僕を納屋に残して魔物を退治しに行きました。そしていくらか時間が経った頃、納屋の戸を叩く音がしたのですが、そこに立っていたのは両親ではなく見慣れない老人でした」
「その方がリックのお師匠様?」
「はい」
「それじゃあお師匠様は、リックの命の恩人なのね」
「ええ。僕は師のような弱き者を守る魔術師になりたいと願い、修行を続けてきました」
「だけどお師匠様本人から、それは無理だって言われちゃった?」
「はい」
「そっか。それは、つらいね」
魔王は穏やかな声で言うと、溶けかけた果実の最後のひと粒を口に放りこむ。
「ごちそうさま。とっても美味しかったです。もし、あたしの駄目生徒ぶりに辟易してなかったら、明日も付き合ってくれると嬉しいな」
リックの返事を待たず、魔王はふわりと立ち上がる。そして戸口に向かって歩きだしてから、ふと思い出したようにくるりと振り返る。
「鍋はちゃんと弁償するから! サジャがぴっかぴかの新品を買ってくるから!」
魔王が去った後、リックは狐か何かに化かされたような、どこか宙に浮いた心持ちで洗いものを片づけていった。
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