第7話 白く塗られた日常
黒塗りの公用車がゆっくりとカーブを曲がり、官邸の中庭を抜けて正門を出る。
フロントガラス越しに、朝の首都ユンシェンの街並みが現れた。
車内では、リュー大統領が無言で窓の外を眺めていた。
隣では秘書官が、淡々と今日の記者会見の段取りと、出席する報道各社の顔ぶれを読み上げている。
「本日参加予定の外信記者は、フィッチ、フラワー、バゲットの三か国から七名。
国内主要紙はすべて参加予定です。テレビ局は──」
「……うむ」
リューは短く相槌を打ったが、意識はすでに秘書の言葉を追ってはいなかった。
視線の先、車窓から見える商店街の光景に、彼の表情がわずかに緩んだ。
かつてそこにあった“プーア”の姿が、ことごとく白く塗りつぶされていたのだ。
青いTシャツの虎が描かれていた看板には、新しい塗料が無造作に塗られ、子ども向け玩具店のショーウィンドウには、代わりにミエン産伝統人形が並べられていた。
──よろしい。
まるで肌の垢をこすり落とした後のような、さっぱりとした満足感。
リューの頬がわずかに持ち上がり、彼は静かにスマホを取り出した。
「センドゥを見てみましょうか……」
画面を開く。
スクロール。
投稿一覧には、あれほど氾濫していた“プーア”の姿が、完全に消えていた。
「……ふふ」
静かな笑いが、車内にこだました。
代わりに目に入ったのは、困惑と恐れに満ちた人々の投稿だった。
「え、いきなり“***”が消えてるんだけど……」
「まさか、これって検閲? 嘘でしょ……」
「こわ……私、昨日あれ投稿してた……。削除したほうがいいかな……」
その様子に、リューの目元がさらに細くなる。
人々は怯えている。
そして、彼の言葉一つで世界が動いている。
この支配感こそ、最高指導者たる者の手応えであった。
車が国際会議センター前に到着し、スーツを着た警護官たちが素早く周囲を確認する。
ゆっくりとドアが開けられ、リューは一歩、外の空気へと踏み出した。
秘書官の指示で記者団が整列し、司会役の大統領府広報官が待機していた。
リューは軽く頷きながら歩を進め、控室前の廊下でふと足を止める。
──見えた気がした。
会見場の一角、右端の席のあたりで、何か黄色い影が動いたように思えたのだ。
ゆっくりと視線を向ける。
だが、そこには何もなかった。
ただ、白い椅子と、無表情な記者たちの顔だけがあった。
リューは表情を崩さず、静かに進んだ。
会見が始まる。
「ミエン人民共和国、リュー大統領閣下にご登壇いただきます」
拍手。フラッシュ。
大統領は壇上に立ち、マイクの前に腰を落ち着ける。
最初の数問は国内の経済政策に関するものだった。
平坦なやり取りのあと、手が上がる。
──フィッチの外信記者。
金髪の女性が、フィッチ語なまりの入ったミエン語で、丁寧に質問を始める。
リューは、質問の内容を聞きながらふと、彼女の手元に目をやった。
──そこにあった。
彼女のペンケースに、小さなプリントが貼られていた。
青いTシャツを着た、痩せた虎。
プーア。
リューの目が、わずかに揺れた。
だが次の瞬間には、再び表情を整え、慇懃無礼な笑みで答える。
「ご質問ありがとうございます。たいへん、意義深いご指摘です。もちろん、我が国と他国との自由と安全の両立は、極めて慎重に考慮されております」
──ペンケースなど、取るに足らない。
そう自らに言い聞かせながら、彼の中には確かに芽生えつつあった。
**「まだ完全には終わっていない」**という感覚が。
壇上のライトの下で、リューの額に一筋、汗が光った。
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