消された「プーア」さん
本歌取安
第1話 不動の椅子
ミエン人民共和国大統領官邸。
その最奥にある閣議室の壁には、建国の父・メー初代大統領の威厳ある肖像画が、誰の視線をも見下ろすように掲げられていた。
その隣には、現在の国家元首であるリュー大統領が掲げたスローガン──「ミエン・ドリーム」──が金文字で掲げられている。
“我らが夢は、かつての栄光を超えて、未来を我らのものとする”
その文言は重く、しかし確かに、世界の覇権を争うこの国の現在地を象徴していた。
閣議室の中央には楕円形の長い机。
上質な木材が磨き上げられ、そこに並ぶ椅子には閣僚たちが腰を下ろしている。
官房長官、首相、司法長官、内務長官、財務長官、商務長官などといった閣僚達──そして、
机の最奥に座り、閣僚の報告に耳を傾けているのはリュー大統領その人であった。
―リュー・ジェン大統領―
メー初代大統領の「社会大改革」という既存文化の破壊、エリート層の大粛清が行われた時代、官僚だった父と共に寒村に追いやられ、貧乏な少年時代を過ごしたものの、政権与党の党員となってからは、高い政治力を駆使し並み居るライバルたちを押しのけ、栄誉を欲しいままにしている。
憲法で通常2期10年までとされていた大統領の任期を、自らの政治力を駆使して改正し、現在3期目を務めていた。
司法長官が資料を手元に置き、声を低くして報告を始める。
「汚職撲滅キャンペーンの進捗についてですが……国家検察庁の報告によりますと、過去3ヶ月で計57名の高官が拘束され、うち41名は有罪判決が確定済み。現在、「証拠」に基づいた更なる捜査が……」
「ふむ、それは喜ばしいことです」
リューは静かに口を開いた。
声は穏やかで、どこか芝居がかっているほど丁寧だった。
まるで、どんな命令も殺気すら帯びさせずに通す、完璧な機械音声のように。
「これからも、関係機関との連携を怠らぬようお願い致しますね。腐敗は、下水と同じ。見えないところで、必ず悪臭を放つのですから」
閣僚たちの背筋が一斉に伸びた。
それは忠誠心からか、それとも恐怖からか──誰にも分からない。
官房長官が議題の残りを確認し、「他には……特にございません」と告げると、リューは微笑みをたたえたまま席を立った。
「では、皆さん。これにて本日の閣議は終了といたしましょう。ご苦労さまでした」
彼の退席にあわせて、全員が起立する。ドアが閉まるまで、誰も席に戻ろうとしなかった。
──だが、それはあくまで“閣議”の終わりであって、“政治”の終わりではない。
リューが退出したのを確認すると、関係閣僚会議を引き続き行うため、首相、司法長官、内務長官、財務長官、商務長官の五人がそのまま残り、低く声を潜めて椅子に腰を下ろした。
「……またひとつ派閥が消えたな」
司法長官がぼそりと呟く。
「閣下の『キャンペーン』により、この前もコー前大統領派が軒並み拘束された。反対派は壊滅状態だ」
財務長官の声は震えていた。
だが、それは怒りではなかった。
怯えと、警戒。まるで地雷原のど真ん中に自ら立っているかのような沈黙。
「閣下は、最近内務省の職員に対しても、直々に世論工作の指示をなさっている」
内務長官が苦々しい顔で続けた。
「閣下はご自身でもスマートフォンや通信機器の扱いに長けている。我々も、それ相応に知識を身につけておかねば、いつ「こう」なるか分からんぞ」
手を首元に水平にして右にスライドさせながら言った。
「クビ」を暗喩した冗談だったが、誰も笑わなかった。
「……我々も、身辺には細心の注意を払おう。私の前任のようにならないように、な。「李下に冠を正さず」だ」
最後に口を開いたのは首相だった。
彼の目はテーブルの木目ではなく、どこか空の一点をそこにリューの疑心を買い、粛清されたリン前首相がいるかのように睨みつけていた。
「気づかぬうちに、“敵”になっていた、などということがないように」
会議室に、時計の秒針だけが響いた。
外では蝉が鳴いていた。
だが、この部屋には、それすらも届かない。
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