第九章 新たな展開

健太が東京に戻って一週間後、山路亭に新しい客が訪れた。六十代後半と思われる男性で、どこか品のある雰囲気があった。


「松本と申します。一泊させていただけるでしょうか?」


慎一は丁寧に男性を迎え入れた。松本という男性は、チェックインの際に少し変わったことを言った。


「実は、こちらに来るのは初めてではないんです。ずっと昔、一度だけ訪れたことがあります」


「そうでしたか。いつ頃のことでしょう?」


「もう四十年以上前のことです。当時はまだ若い頃で……」


松本の表情に懐かしそうな影がさした。


「その頃とは、だいぶ様子が変わったでしょうね」


「ええ。でも、山路亭の雰囲気はあの頃のままですね」松本が微笑みながら言った。「あの時お世話になったのは、お祖父様でしょうか?」


「はい、祖父の代です」慎一が答えた。「どのような用事でいらしたんですか?」


松本の表情が少し曇った。


「実は……妻を亡くしたばかりで、一人旅をしていたんです。どこをどう歩いたのか、気がついたらこの温泉街にいました」


慎一は頷いた。人生の重要な転機に、なぜか山路亭を訪れる人は多い。


「お祖父様は、とても親切にしてくださいました。私の話を丁寧に聞いてくれて……」松本は遠い目をした。「そして、不思議なことを言われたんです」


「不思議なこと?」


「『奥様はまだ側にいらっしゃる』と。最初は慰めの言葉だと思ったのですが……」


松本は言葉を詰まらせた。


「その夜、確かに妻の声を聞いたんです。『一人で生きていくのよ』と、妻らしい優しい声で」


慎一の心臓が高鳴った。祖父も案内人としての能力を持っていたのだ。


「それで、人生が変わったんです」松本が続けた。「妻の死を受け入れることができて、前向きに生きていけるようになりました」


慎一は深く感動した。山路家の案内人としての役割が、代々受け継がれてきたのだということを実感した。


松本を部屋に案内した後、慎一は一人で考えた。祖父の時代から、山路亭は人々の人生の節目を支える場所だったのだ。そして今、その役割が自分に託されている。


夕食の時間になり、松本が食堂に現れた。


「美味しそうな料理ですね」松本が席に着きながら言った。


「地元の食材を使った、祖父の代からの味です」


「そうですか……懐かしいですね」


松本は料理を口にしながら、しみじみと呟いた。


「山路さん、実は私、今回ここに来たのにも理由があるんです」


「どのような?」


「私は今、認知症を患っているんです」松本の声が小さくなった。「まだ初期段階ですが、だんだん記憶が曖昧になってきています」


慎一は言葉を失った。


「だから、はっきりと覚えているうちに、もう一度この場所を訪れたかったんです」


「お一人で大丈夫だったんですか?」


「息子には内緒で来ました」松本が苦笑いした。「心配をかけたくなくて」


慎一は松本の気持ちが痛いほど分かった。自分の記憶を失っていく恐怖と、最後に大切な場所を訪れたいという想い。


「松本さん、今回も何か特別なことをお求めですか?」


松本は首を振った。


「いえ、もう十分です。妻の死を乗り越えて、長い人生を歩んできました。今度は、自分が忘れ去られていくことを受け入れる番です」


その言葉の重さに、慎一は胸が締め付けられた。


「でも」松本が続けた。「もし可能なら、最後にもう一度、妻の声を聞きたいと思っています」


慎一は迷った。松本の願いを叶えてあげたいが、案内人としての能力を意図的に使えるかどうか分からない。


「分かりません」慎一は正直に答えた。「そのような現象は、自然に起こるものなので……」


「もちろんです」松本が微笑んだ。「無理を言って申し訳ありません」


その夜、松本が温泉に入っている間、慎一は祖父の遺品を調べてみた。古いアルバムの中に、松本と思われる若い男性の写真があった。確かに四十年前、祖父と一緒に写っている。


写真の裏には、祖父の字で「松本様 奥様との再会」と書かれていた。やはり、祖父も案内人として松本を導いたのだった。


深夜になって、慎一は裏山の祠を訪れてみた。もしかしたら、何かの手がかりが得られるかもしれない。


祠に着くと、不思議なことに松本の姿があった。老人は一人で祠の前に座り込んでいる。


「松本さん?」慎一が声をかけた。


松本は振り返った。その表情は穏やかだった。


「山路さん、来てくださったんですね」


「こんな夜中に、危険ではありませんか?」


「大丈夫です。昔と同じように、この場所に導かれたような気がして」


慎一は松本の隣に座った。


「何か感じられますか?」


松本は微笑んだ。


「ええ。妻がそばにいます。『お疲れ様でした』と言ってくれています」


慎一には声は聞こえなかったが、松本の表情を見ていると、確かに何かが起きているのが分かった。


「良かったですね」


「ありがとうございます」松本が涙を流していた。「これで安心して、記憶を手放していけます」


二人は静かに祠の前に座り続けた。松本にとって、これが最後の大切な思い出になるのだろう。

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