第四章 夜の祠
その夜、慎一と雅子は懐中電灯を持って裏山へ向かった。十月の夜は冷え込みが厳しく、二人とも厚手のコートを着込んでいた。
祠に着いたのは午後十一時頃だった。月明かりに照らされた古い石の祠は、昼間とは全く違う雰囲気を醸し出していた。何かが潜んでいるような、神秘的で少し恐ろしい感じがした。
「ここで……息子に何があったんでしょうか」雅子が小さく呟いた。
慎一は懐中電灯で周囲を照らしながら答えた。
「まだ分かりません。でも、きっと何かの手がかりが見つかります」
二人は祠の前に座り込んだ。静寂に包まれた山の中で、時折動物の鳴き声や風で木々が揺れる音が聞こえるだけだった。
時間が過ぎていく。午前零時を回っても、特に変わったことは起こらなかった。雅子は不安そうな表情で慎一を見た。
「本当に何かが起こるんでしょうか?」
「分かりません」慎一は正直に答えた。「でも、ここに来れば何かが分かるような気がするんです」
その時だった。突然、祠の周りの空気が変わった。温度が下がったような気がして、二人とも身震いした。そして、どこからともなく、かすかな声が聞こえてきた。
「お母さん……」
雅子の顔が青ざめた。その声は、確かに息子の大輔の声だった。
「大輔?大輔なの?」雅子が立ち上がった。
声はより鮮明になった。
「お母さん、僕はここにいる。でも、帰れない」
「どうして?どうして帰れないの?」雅子の声が震えた。
「僕は……僕は死んでしまったんだ」
雅子は膝から崩れ落ちた。息子の死を確認する言葉を聞いてしまったのだった。慎一は雅子を支えながら、大輔の声に耳を澄ませた。
「十年前、僕はここで康雄さんに会った。康雄さんは僕を助けようとしてくれた。でも……」
「でも、何があったんだ?」慎一が声に向かって尋ねた。
「事故だった。僕は崖から落ちてしまった。康雄さんは僕を助けようとして……一緒に落ちてしまったんだ」
慎一の心臓が止まりそうになった。父も死んでいるということなのか。
「お父さんは……父はどうなったんですか?」
「康雄さんも……」大輔の声が途切れた。「ごめんなさい。僕のせいで」
雅子は泣き崩れていた。十年間探し続けた息子が、既にこの世にいないという現実を受け入れなければならなかった。
「大輔」雅子が涙声で呼びかけた。「なぜこんなことに……」
「僕は自分の人生に絶望していた。死のうと思って、この山に来たんだ。でも、康雄さんが『まだ死ぬときじゃない』と言って止めてくれた」
慎一は父の優しさを思い出した。康雄は困っている人を放っておけない性格だった。
「それで?」
「康雄さんは僕を山路亭に連れて行こうとしてくれた。でも、僕は自分が情けなくて、逃げ出してしまった。そして、暗い山道で足を滑らせて……」
「父は君を助けようとして?」
「はい。康雄さんは僕の手を掴もうとして、一緒に落ちてしまいました」
慎一は拳を握りしめた。父は人を助けようとして命を落としたのだった。それは父らしい最期だったが、やりきれない思いが込み上げてきた。
「僕たちの体は、深い谷底に……誰にも見つけられない場所に」大輔の声が小さくなった。
雅子は顔を上げた。
「大輔、お母さんは……お母さんはあなたを誇りに思う」
「お母さん……」
「あなたは康雄さんという優しい人に出会えて、最後は生きようと思えたのね。それだけで十分よ」
慎一は雅子の強さに感動した。息子の死を受け入れながらも、その最期を肯定しようとしている。
「康雄さん」今度は慎一が声をかけた。「父さん、聞こえますか?」
しばらくして、別の声が聞こえてきた。懐かしい父の声だった。
「慎一……」
「父さん」慎一の目に涙が溢れた。
「すまなかった。お前に何も告げずに逝ってしまって」
「いいんです。父さんは人を助けようとして……それが父さんらしい」
「山路亭を……頼む」
「はい。ずっと守り続けます」
「それと、慎一」康雄の声が優しくなった。「お前には案内人としての役割がある。迷った人を導き、時には死者の想いを伝える。それが山路家の使命だ」
慎一は頷いた。ミツの話していたことが、すべて真実だったのだ。
「でも、どうやって?」
「お前の心が教えてくれる。山路亭に来る人の中には、きっと死者からのメッセージを必要としている人もいる。お前がその橋渡しをするんだ」
雅子は静かに涙を流しながら、父子の会話を聞いていた。
「雅子さん」康雄の声が雅子に向けられた。「大輔のことは、私が責任を持って守ります」
「ありがとうございます」雅子が答えた。「息子をよろしくお願いします」
「大輔はいい子です。最後まで、お母さんのことを心配していました」
その言葉に、雅子は新たな涙を流した。
声はやがて小さくなり、そして聞こえなくなった。祠の周りの空気も、元の静寂に戻った。
慎一と雅子は、しばらく無言のまま座っていた。二人とも、今夜の体験を受け止めるのに時間が必要だった。
「慎一さん」雅子がようやく口を開いた。「ありがとうございました」
「僕の方こそ。父の最期を知ることができました」
「大輔は……息子は、良い人に出会えて幸せでした」
雅子の表情には、悲しみと同時に安堵の色があった。十年間の答えの出ない苦しみから、ようやく解放されたのだった。
二人は山路亭に戻った。玄関で別れる時、雅子が慎一に言った。
「明日、東京に帰ります。でも、この経験は一生忘れません」
「雅子さんも、僕にとって大切な出会いでした」
その夜、慎一は一人で山路亭の中を歩き回った。この古い旅館が、単なる宿泊施設ではなく、人と人、生者と死者を繋ぐ特別な場所だということを、ようやく理解した。
そして、自分がその継承者として、これからも多くの人を案内していかなければならないということも。
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