第三章 老婆ミツの話
翌日の朝、慎一が庭の手入れをしていると、杖をついた老婆が山路亭の前に現れた。それは近所に住む古老のミツだった。八十歳を超えているが、頭ははっきりしており、この辺りの古い話を最もよく知っている人物だった。
「慎一、お客さんが来ているんだってね」ミツが声をかけた。
「はい。東京からいらっしゃった方です」慎一は作業の手を止めて答えた。
「そうかい。久しぶりじゃないか」ミツは山路亭を見上げながら言った。「この旅館も、お前の祖父さんの時代は毎日満室だったのにねえ」
慎一は苦笑いした。確かに、祖父の時代の山路亭は湯ノ里温泉でも指折りの人気旅館だった。しかし、時代の流れと共に客足は遠のき、今では月に数組の客がいれば良い方だった。
「ミツばあさん、ちょっとお聞きしたいことがあるんです」
「何だい?」
「十年前のことなんですが、この辺りで若い男性を見かけませんでしたか?二十代の、芸術に興味がありそうな」
ミツの表情が変わった。しわだらけの顔に、何かを思い出したような影がさした。
「十年前……あの時のことかい」
「あの時?」
「慎一、お前も覚えているだろう。お前の父ちゃんが消えた頃のことさ」
慎一の心臓が跳ね上がった。やはり、父の失踪と何か関係があるのだろうか。
「詳しく聞かせてください」
ミツは辺りを見回してから、声を潜めた。
「実は、康雄さんが消える少し前、変な若い男がこの辺りをうろついていたんだよ」
「変な?」
「いや、悪い意味じゃないよ。ただ、何だか様子がおかしかった。毎日のように山道を歩き回って、時々一人で何かブツブツ言っていたりしてね」
慎一は息を呑んだ。それは田村大輔のことかもしれない。
「その男性の特徴は覚えていますか?」
「背はそこそこ、痩せ型で、いつもリュックサックを背負っていた。それと、スケッチブックみたいなものを持っていたね」
スケッチブック——それは芸術に興味がある人の特徴だった。
「その人と父は……康雄は何か関わりがあったんでしょうか?」
ミツは首を振った。
「それが分からないんだよ。ただ、康雄さんも最後の頃は様子がおかしかった。何かを心配しているような、責任を感じているような顔をしていてね」
「責任?」
「うん。まるで、誰かを守らなければならないような、そんな表情だった」
慎一は困惑した。父が誰を守ろうとしていたのか、まったく見当がつかなかった。
「ミツばあさん、その若い男性はその後どうなったんですか?」
「それが……」ミツの表情が曇った。「康雄さんと同じ頃に、ぱったりと姿を見なくなった。まるで、二人して消えてしまったみたいに」
その時、山路亭の玄関から雅子が現れた。朝食の時間だった。慎一は慌ててミツに挨拶をして、雅子を迎えに行った。
「どちらさまですか?」雅子がミツを見て尋ねた。
「近所に住むミツばあさんです。この辺りの古いことをよくご存知で」
ミツは雅子をじっと見詰めた。そして、何かに気づいたような表情を見せた。
「あんた……もしかして、あの時の若い男の関係者かい?」
雅子の顔が緊張した。
「もしかして、息子をご存知ですか?田村大輔という」
「名前は知らないけれど……」ミツは頷いた。「確かに、そんな若い男がいた。十年前の秋のことだ」
雅子の目に涙が浮かんだ。ついに息子の手がかりを見つけたのだった。
朝食の後、慎一と雅子、そしてミツは山路亭の座敷に集まった。ミツは十年前の出来事について、知っていることを詳しく話してくれた。
「あの若い男は、一週間ぐらいこの辺りにいたと思う」ミツが記憶を辿りながら話した。「毎日、山の中を歩き回って、何かを探しているようだった」
「何かを探して?」雅子が身を乗り出した。
「うん。それと、時々山路亭の周りもうろついていた」
慎一は驚いた。田村大輔が山路亭の近くにいたとは知らなかった。
「父は気づいていたんでしょうか?」
「康雄さんも見かけていたと思うよ。というのも、ある日、二人が話しているのを見たことがあるから」
「話していた?」雅子の声が震えた。
「うん。裏山の、あの古い祠の近くでね。二人とも深刻な顔をしていた」
慎一は昨日自分が金属片を見つけた場所を思い出した。あの祠の近くで、父と田村大輔が会っていたのだろうか。
「どんな話をしていたかは分からないんですか?」
「遠くからだったから、詳しくは聞こえなかった。でも、何かを決断するような、そんな雰囲気だったね」
ミツの話を聞いて、雅子は涙を流していた。十年ぶりに息子の行動について具体的な情報を得たのだった。
「息子は……大輔は、その後どうなったんでしょうか?」
「それが分からないんだよ」ミツは首を振った。「康雄さんが消えた日の晩、あの若い男も見なくなった。まるで、一緒にどこかに行ってしまったみたいに」
慎一は胸の奥に暗い予感を感じた。父と田村大輔の間に何があったのか、そして二人はなぜ同じ時期に姿を消したのか。
「ミツばあさん、山路家について、何か特別なことをご存知ありませんか?」慎一が尋ねた。
ミツは慎一をじっと見つめた。
「慎一、お前もそろそろ知る時が来たのかもしれないね」
「何をですか?」
「山路家の……いや、山路亭の本当の役割を」
慎一と雅子は同時にミツを見た。
「本当の役割?」
ミツは深いため息をついた。
「山路家は昔から、この土地で特別な役割を担ってきたんだよ。それは、迷い人を導く『案内人』としての役割だ」
「案内人?」
「うん。人生に迷った人、大切なものを失った人、自分の道を見つけられない人……そういう人たちが、なぜか山路亭にやってくる。そして、山路家の人間が彼らを正しい道に導くんだ」
慎一は言葉を失った。確かに、これまでも様々な事情を抱えた客が山路亭を訪れ、何かを見つけて去っていくことが多かった。しかし、それが山路家の特別な役割だとは思ってもみなかった。
「でも、それだけじゃない」ミツは続けた。「山路家の案内人は、時として生者と死者の間を取り持つこともあるんだ」
慎一の血の気が引いた。
「死者?」
「この世に未練を残したまま亡くなった人の想いを、生きている人に伝える。それが山路家に代々受け継がれてきた、本当の役割なんだよ」
雅子の顔が真っ青になった。まさか、息子が死んでいるということなのだろうか。
「でも……」慎一が震え声で言った。「僕にはそんな能力はありません」
「あるよ」ミツは断言した。「お前も薄々気づいているはずだ。山路亭に来る客の多くが、何か特別な理由を抱えている。そして、お前と話しているうちに、彼らが本当に求めているものが見えてくる」
確かに、慎一にはそんな経験があった。しかし、それが超自然的な能力だとは考えたことがなかった。
「慎一」ミツの声が厳しくなった。「お前の父ちゃんは、その能力の重さに耐えきれなくなったんだと思う」
「どういうことですか?」
「十年前、あの若い男……田村大輔と康雄さんの間に何があったかは分からない。でも、きっと康雄さんは何かを背負い込んでしまったんだろう」
ミツは立ち上がった。
「これ以上は、お前自身で真実を見つけるしかない。山路家の案内人として、お前がやるべきことがあるはずだ」
そう言い残して、ミツは山路亭を後にした。
座敷に残された慎一と雅子は、しばらく無言だった。二人とも、ミツの話に衝撃を受けていた。
「山路さん」雅子がようやく口を開いた。「もしかして、大輔は……」
「まだ分かりません」慎一は慎重に答えた。「ただ、確実に言えるのは、息子さんと私の父の間に何らかの接点があったということです」
雅子は頷いた。そして、決意を込めた表情で慎一を見つめた。
「私、真実を知りたいんです。どんな真実でも」
慎一は雅子の強い意志を感じ取った。そして、自分もまた父の失踪の真相を知りたいと心から思った。
「分かりました。一緒に調べてみましょう」
その午後、慎一は雅子を連れて裏山の祠へ向かった。昨日見つけた金属片のことも話し、現場を詳しく調べることにした。
祠に着くと、慎一は改めて周囲を見回した。そして、昨日は気づかなかった別の痕跡を発見した。古い木の幹に、何かでひっかいたような跡があった。よく見ると、それは文字のようだった。
「これは……」雅子が驚いた声を上げた。「『助けて』と書いてある」
確かに、木の幹には「助けて」という文字が刻まれていた。それも、かなり深く、必死に彫ったような跡だった。
「これは大輔の字です」雅子の声が震えた。「間違いありません」
慎一は金属片を取り出した。
「実は昨日、これを見つけたんです」
雅子はその金属片を見て、さらに顔を青くした。
「これは……大輔のキーホルダーです。高校の時に私があげたものです」
ついに確証を得た。田村大輔は確実にこの場所に来ていた。そして、何らかの危険に遭遇していた。
「『助けて』ということは、誰かに脅されていたということでしょうか?」雅子が震え声で尋ねた。
慎一は首を振った。
「分かりません。でも、父も同じ時期に消えているということは……」
その時、二人の足元で何かがキラリと光った。慎一がかがんで拾い上げると、それは古いライターだった。表面に「K.Y」という文字が刻まれている。
「K.Y……」慎一の心臓が高鳴った。「康雄……父の名前だ」
雅子も息を呑んだ。ついに、山路康雄と田村大輔が同じ場所にいたという物的証拠が見つかったのだった。
「でも、なぜ二人はここで会ったんでしょうか?」雅子が呟いた。
慎一は祠を見上げた。この祠は「道祖神」として、旅の安全を祈る場所だった。しかし、地元の古い言い伝えでは、もう一つの役割があった。それは、この世とあの世を繋ぐ場所として信じられていることだった。
「雅子さん」慎一は決意を固めた表情で振り返った。「今夜、ここで待ってみませんか?」
「どういうことですか?」
「もしミツばあさんの話が本当なら、そして山路家に本当に特別な能力があるなら、ここで何かが分かるかもしれません」
雅子は一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。
「分かりました。私も一緒に行きます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます