第二章 古い記憶
翌朝、慎一は早起きして朝食の準備をした。山路亭の朝食は、地元の卵と味噌を使った素朴なものだが、心を込めて作っている。雅子が食堂に現れたのは八時頃だった。
「よく眠れましたか?」
「はい、おかげさまで」雅子は微笑んだが、その表情にはまだ疲れが残っていた。「とても静かで、久しぶりにぐっすりと」
朝食を取りながら、慎一は昨夜考えていたことを雅子に話した。
「田村さん、もう少し詳しく息子さんのことを聞かせていただけませんか?もしかしたら、何か手がかりが見つかるかもしれません」
「ありがとうございます」雅子は箸を置いた。「大輔は大学を卒業した後、東京で就職したんです。最初は普通に働いていたんですが、だんだん仕事に疑問を感じるようになって……」
「どんな仕事を?」
「IT関係の会社でした。でも、大輔はもともと芸術に興味があって。大学でも美術を専攻していたんです」
慎一は頷いた。都会での生活に疲れ、自分の道を見つけるために旅に出る若者は珍しくない。しかし、十年間も音信不通というのは尋常ではなかった。
「家を出る前、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「そうですね……」雅子は思い出すように天井を見上げた。「最後に会った時、『本当の自分を見つけたい』と言っていました。それと、『死んでいるような人生はもう嫌だ』とも」
その言葉に、慎一の胸が締め付けられた。自分も似たような想いを抱えながら、この山路亭で日々を過ごしているからだ。父が失踪してから、慎一は旅館を守ることだけを考えて生きてきた。しかし、それが本当に自分の望む人生なのかどうか、確信を持てずにいた。
朝食後、慎一は雅子と一緒に湯ノ里温泉の街を歩いた。もしかしたら、誰か大輔という青年を覚えている人がいるかもしれない。しかし、商店街の店主たちに聞いても、十年前の若い男性のことを覚えている人はいなかった。
「申し訳ありません」老舗の土産物店の主人が首を振った。「十年前というと、うちの店もまだ客が多かった頃でしてね。毎日大勢の人が来ていたから、個人を覚えているのは難しいです」
失望した様子の雅子を見て、慎一は別のアプローチを考えた。
「田村さん、息子さんは芸術に興味があったとおっしゃいましたね。もしかしたら、この辺りの風景に惹かれて来られたのかもしれません」
湯ノ里温泉は、確かに絵になる風景が多い。古い温泉街の情緒ある建物、山々に囲まれた自然、静寂に包まれた環境。都会の喧騒に疲れた芸術家が、制作活動のために訪れることもある。
「そうかもしれませんね」雅子の表情が少し明るくなった。「大輔は昔から、静かな場所で絵を描くのが好きでした」
二人は温泉街を一回りした後、山路亭に戻った。昼食の時間になり、慎一は簡単な蕎麦を用意した。地元で取れる山菜を添えた、素朴だが味わい深い一品だった。
「美味しいですね」雅子が蕎麦をすすりながら言った。「こういう料理を食べていると、心が落ち着きます」
「ありがとうございます。祖父の代からの味を守っているんです」
「お祖父様も料理人だったんですか?」
「はい。山路亭を始めたのは祖父でした。私で三代目になります」
慎一は山路家の歴史を簡単に説明した。戦後間もない頃、祖父が湯ノ里温泉に旅館を開業し、父の康雄が二代目として継いだ。そして十年前に康雄が失踪してから、慎一が一人で旅館を切り盛りしている。
「お父様も……行方不明になられたんですか?」
「はい」慎一の声が少し沈んだ。「ある朝起きたら、いなくなっていました。何の前触れもなく」
雅子の表情が変わった。自分と同じように、家族を失った人の痛みを理解したのだろう。
「警察には届けを出されたんですよね?」
「もちろんです。でも、手がかりは何も見つかりませんでした。まるで、この世から消えてしまったかのように」
その時、雅子が何かを思い出したような表情を見せた。
「山路さん、お父様が失踪されたのは、いつ頃のことですか?」
「十年前の秋でした。確か、十月の終わり頃だったと思います」
雅子の顔が青ざめた。それは、息子の大輔が家を出た時期とほぼ同じだった。
「もしかして……」雅子の声が震えた。「何か関係があるのでしょうか」
慎一も同じことを考えていた。二つの失踪事件が同時期に起こったということは、単なる偶然ではないかもしれない。しかし、父の康雄と田村大輔という青年にどんな接点があったのか、まったく見当がつかなかった。
午後になって、慎一は一人で裏山を歩いてみることにした。山路亭の裏手には、古い山道が続いている。子供の頃、よく父と一緒に散歩した道だった。もしかしたら、何か手がかりが見つかるかもしれない。
山道を歩いていると、古い石の祠が見えてきた。地元の人たちが「道祖神」と呼んでいる小さな祠で、旅の安全を祈る場所として親しまれている。慎一は祠の前で立ち止まった。
ここで父と最後に話をしたのは、いつだったろうか。確か、失踪する数日前のことだった。康雄は何かを思い詰めたような表情をしていた。そして、「慎一、もし俺に何かあったら、山路亭を頼む」と言った。当時は何気ない言葉だと思っていたが、今思えば何かの予兆だったのかもしれない。
祠の周りを見回していると、古い木の根元に何かが落ちているのに気づいた。慎一は近づいて、それを拾い上げた。小さな金属片だった。錆びてはいるが、何かのアクセサリーの一部のようだった。
「これは……」
その金属片を見ていると、なぜか胸騒ぎがした。まるで、重要な手がかりを見つけたような気がした。慎一はそれをポケットに入れて、山路亭に戻った。
夕方、雅子が再び温泉に入っている間、慎一は見つけた金属片を詳しく調べてみた。よく見ると、それは車のキーホルダーの一部のようだった。そして、かすかに文字が刻まれているのが見える。
「T・D」
慎一の心臓が激しく鼓動した。T・D——田村大輔のイニシャルではないだろうか。
しかし、それが本当に田村大輔のものだとしたら、なぜ山路亭の裏山にあったのか。そして、十年前に失踪した父の康雄と、どんな関係があるのか。
慎一は複雑な気持ちで、夕食の準備を始めた。雅子にこの発見を話すべきかどうか迷ったが、まだ確証がない以上、無用な期待を抱かせるのは良くないと判断した。
夕食の時間になり、雅子が食堂に現れた。
「今日は色々とありがとうございました」雅子が席に着きながら言った。「明日、もう少し広い範囲を探してみようと思います」
「そうですね。隣の町にも聞いてみましょう」
慎一は普段通りに答えたが、心の中では見つけた金属片のことばかり考えていた。もしそれが本当に田村大輔のものだとしたら、この旅館に重大な秘密が隠されているかもしれない。
その夜、雅子が部屋に戻った後、慎一は父の遺品を調べてみることにした。康雄の部屋は、失踪した時のままにしてある。警察の捜査が終わった後、慎一は何も動かしていなかった。
部屋に入ると、懐かしい父の匂いがかすかに残っていた。慎一は机の引き出しを開けて、書類や写真を一つずつ確認した。しかし、田村大輔という名前は見つからなかった。
ただ、一つ気になるものがあった。康雄が使っていた手帳の、失踪する直前のページに、「T」という文字だけが記されていた。それも、他の文字と違って、震えるような字で書かれている。
慎一は手帳を握りしめた。父に何が起こったのか、そして田村大輔という青年との間に何があったのか。真実を知りたいという気持ちが、日に日に強くなっていく。
しかし、その答えを見つけるためには、まだ多くの謎を解く必要があった。そして慎一には、なぜか自分がその謎の中心にいるような気がしてならなかった。
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