最後の案内人
千日 匠
第一章 山路亭の主人
湯気が立ち込める山間の温泉街、湯ノ里温泉。かつては多くの観光客で賑わった石畳の道も、今では人影もまばらで、シャッターを下ろした土産物店が目立っていた。そんな寂れた街の奥まった場所に、ひっそりと佇む三階建ての木造旅館がある。「山路亭」——看板の文字は色褪せているが、建物自体は丁寧に手入れされ、まだ営業していることが分かる。
山路慎一は玄関先でほうきを動かしながら、遠くから聞こえてくる車のエンジン音に耳を澄ませた。四十五歳になった今でも、客が来るかもしれないという期待を完全に捨て去ることはできない。しかし、その音は山路亭の前を素通りしていく。慎一は小さくため息をついて、再び落ち葉を掃き集めた。
「また今日も一人か」
呟きながら玄関に戻ろうとした時、今度は確実にこちらに向かってくる足音が聞こえた。慎一は振り返る。石畳を歩いてくるのは、五十代半ばと思われる女性だった。黒いコートを着込み、少し重そうなボストンバッグを提げている。その表情には、どこか切羽詰まったような影がさしていた。
「すみません」女性は山路亭の前で立ち止まると、慎一に声をかけた。「こちら、まだ営業していらっしゃいますか?」
「はい、営業しております」慎一は丁寧に頭を下げた。「お一人様でしょうか?」
「はい。今晩、泊めていただけるでしょうか」
「もちろんです。ようこそ山路亭へ」
慎一は女性を玄関へと案内した。靴を脱いで上がった女性は、改めて自己紹介をした。
「田村雅子と申します。東京から参りました」
「山路慎一です。この旅館の主人をしております。ゆっくりとお寛ぎください」
フロントで宿帳に記入してもらいながら、慎一は田村雅子という女性を観察した。整った顔立ちだが、目の下に隈があり、疲れている様子だった。東京から一人で湯ノ里温泉まで来るには、それなりの理由があるはずだ。しかし、慎一は余計な詮索はしない。それが山路亭の流儀だった。
「お部屋は二階の『椿の間』をご用意いたします。お食事はいかがなさいますか?」
「お願いします。それと……」雅子は一瞬言いよどんだ。「山路さんは、この土地にお詳しいですよね?」
「生まれも育ちもここですから。何かお探しものでも?」
「実は……」雅子の声が震えた。「息子を探しているんです」
慎一の手が一瞬止まった。彼女の話を聞く前に、なぜか胸の奥が騒いだ。まるで、この女性が山路亭に来ることが運命づけられていたかのような、不思議な感覚だった。
部屋に案内した後、慎一は一人でフロントに戻った。田村雅子という名前に覚えがあるような気がしたが、思い出せない。彼は古い宿帳を引っ張り出して、過去の宿泊者名簿を確認してみた。しかし、その名前は見つからなかった。
夕方になり、雅子が温泉から上がってくると、慎一は食堂で夕食の準備をしていた。山路亭の自慢は、地元の山菜と川魚を使った手作りの料理だった。客が一人でも、慎一は手を抜かない。
「美味しそうですね」雅子は席に着きながら言った。
「ありがとうございます。地元の食材ばかりですが」
「山路さん」雅子は箸を手に取りながら切り出した。「息子のことなんですが……」
慎一は雅子の向かいに座った。彼女の話を聞く態勢を整える。これまでも、山路亭には様々な事情を抱えた客が訪れてきた。そして不思議なことに、慎一は彼らの話を聞いているうちに、その人が本当に求めているものが見えてくることが多かった。地元の人たちは、それを慎一の特殊な能力だと噂していた。
「息子の名前は田村大輔と言います。今年で二十八歳になります」雅子は写真を取り出した。「十年前に家を出たきり、連絡が取れなくなってしまって」
写真に写っているのは、確かに青年の顔だった。しかし、それは十年前の写真だろう。今はもっと大人になっているはずだ。慎一は写真を見詰めながら、なぜか既視感のようなものを覚えた。
「最後に連絡があったのは十年前ですか?」
「はい。『自分の道を見つけに行く』と言って家を出ました。最初の一年ほどは時々電話がありましたが、その後ぷっつりと……」
雅子の声が詰まった。慎一は静かに彼女の話を聞き続けた。
「でも、なぜ湯ノ里温泉に?息子さんがここに来られたという情報でも?」
「それが……」雅子は困ったような表情を見せた。「変な話だと思われるかもしれませんが、夢に出てきたんです。大輔が、この温泉街にいるって」
慎一の背筋に、冷たいものが走った。夢で湯ノ里温泉の名前を聞いたという客は、これまでにも何人かいた。そして、そういう客の多くは、何か特別な理由を抱えていることが多かった。
「その夢では、息子さんは何と?」
「『山路亭に行けば分かる』って……。だから、こうして来させていただいたんです」
慎一は言葉を失った。山路亭の名前まで夢に出てきたということは、これはただの偶然ではないかもしれない。
「申し訳ございませんが」慎一は慎重に言葉を選んだ。「田村大輔さんという方に心当たりはありません。しかし、この辺りは狭い土地ですから、明日にでも近所に聞いてみましょう」
「ありがとうございます」雅子の目に涙が浮かんだ。「もう諦めかけていたんです。でも、あの夢があまりにもはっきりしていて……」
その夜、雅子が部屋に戻った後、慎一は一人で旅館の中を見回った。三十年前に祖父から引き継いだこの旅館で、彼は数多くの客を見送ってきた。そして、その中には確かに「特別な」客もいた。彼らは皆、人生の重要な節目に山路亭を訪れ、何かを見つけて去っていく。
慎一は二階の廊下を歩きながら、十年前のことを思い返そうとした。あの頃、父の康雄はまだ元気だった。しかし、その直後に康雄は忽然と姿を消してしまった。警察に捜索願いも出したが、手がかりは何も見つからなかった。まるで、この世から消えてしまったかのように。
「父さん、あなたはどこに行ったんだ」
慎一は小さく呟いた。十年間、その答えを探し続けているが、未だに見つからない。そして今、息子を探している女性が現れた。何かの因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
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