第10話 追いかけてきた影

松平家の屋敷は深い夜に包まれていた。


豪奢な照明が点く広間で、息子と談笑を交わしながらの夕食は和やかに過ぎていった。


夫も交えた家族団らんの時間は、尚子にとってかけがえのないものだった。


しかし、和やかだった会話の雰囲気が少し変わった時があった。

定頼の大学での専攻-政治学-の話になったときだ。


大学で受講したマイケル・サンデル教授の講義に感銘を受けたという話になり、目を輝かせるように定頼が言った。


「サンデル教授の問いかけはすごく考えさせられた。僕はたまたま運が良くてここにいるんだ、ということが実感できたよ」


そのように言う息子に昼間のシミュレーションが頭の中をよぎり、得体のしれない焦燥感に駆られた尚子は、内心の動揺を隠すように諭すような口調で言った。


「運じゃなくて、あなたがハーバードにいるのは、きちんと努力してきたからよ。お父さん、お母さんが何も言わなくてもお勉強に部下に頑張っていたじゃない。その結果よ。学生なのだから一人の教授に心酔するんじゃなくて、もっと色々な人の本を読むといいわ。例えばハイエクとかミルの本とかね」


それに対し自分の心酔する教授の持論にケチをつけられたと思ったのか、定頼は少しむっとした表情で反論しようとしたとき、雰囲気を察した定征が二人をなだめに回った。


「まあ、まあ定頼も尚子も堅い話はそこまでにしよう。全く二人とも真面目だからつい熱くなるな。それよりも私はお前の彼女がどんなお嬢さんか気になるぞ」


それからはまた、家族の和やかな歓談に戻っていった。



「明日の予定、もう一度確認しようか」

寝室に戻ってきた定征がスケジュール表を手に取り尚子に声をかけた。


「ええ、定頼も久しぶりの帰国だから、きっと喜ぶわ」

尚子は微笑みながら頷いた。


二人で予定を話あった後、定征と尚子はそれぞれベッドに横たわった。


今日のシミュレーションで気疲れしたこと、息子のために色々と支度をしたこともあり、やがて疲れが訪れ、いつしか彼女は眠りに落ちていた。



夢の中で、尚子は再びあの量子コンピューターのディスプレイの前に立っていた。

画面には、彼女自身の人生がドラマのように展開している。


過去の映像がフラッシュバックし、幼い頃の自分、学生時代の努力、そして討論番組での激しいやり取り――まるで現実そのものだった。


だが、次第に映像は歪みはじめた。


やがて尚子はシミレーションされた違う世界の「尚子」になっていた。


「尚子」は討論番組を終えた後、「教授」の後付けて自宅の場所を突き止めた。


そして、翌日にガソリンスタンドで灯油を購入。

風の強い日の夜に「教授」の家に向かった。


闇夜でみる「教授」の家は、まるで自分たちの生き血を啜って大きくなった怪物のように見え、世のため人のため打倒すべきものに思えた。


気付かれないように侵入した「尚子」は、庭の枯れ葉や木造家屋でも古くなった壁を目がけて灯油をばらまき、そこに火を放つ。

     

ゆらゆらと燃え上がる炎

盛大に燃える屋敷と庭

焦げ臭い煙

   

ようやく気が付いたのか家の中から上がる悲鳴。


闇夜に天も焦がさんばかりに燃える屋敷と、「教授」の悲鳴が「尚子」には心地よいドラマのように感じて思わず笑みがこぼれてしまった。


その後は呆けたように炎をながめていたら、急に意識が遠のいたようになっ

た…….。



跳ね起きた尚子は息を荒げていた。


昼間のシミュレーションの結果とも異なる壮絶な結末だった。


昼間の結末は「教授」一人が殺されただけだったが、夢の結末では家族まで巻き込まれていた。


―マリアの誘いを受けるべきではなかったな。


そう後悔した時だった。

外からの強風に何かが爆ぜるような音が混じっている。


続いてかすかに焦げ臭い匂いがした。


窓の傍まで歩いていくと、庭の枯葉に火が回ったためか、屋敷の周囲は火に巻かれていた。


そして、火の中に一人の女性が立っていた。

髪は長く、顔はどこか見覚えのある――いや、間違いなく“自分”の顔だった。


その女はゆっくりと顔を上げ、薄く微笑んだ。


尚子は悲鳴を上げ、夫を起こすと逃げようと廊下に出たが、既に火が回っており、もうもうとした煙があたり一面に充満していた。


冷静さを欠いていた尚子は煙を大量に吸ってしまい、そのまま意識を失っていく。


-私は、間違ってなかったはずでは?


その言葉を最後に完全に意識は闇に沈んでいった。

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