第9話 忍び寄る影

夜の大学キャンパスは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


研究棟を出てから、尚子は一言も言葉を発していない。

風の音、電灯の点滅、草木の擦れる音――それらが妙に耳についた。


彼女の中では、まだあの“シミュレーションの尚子”が生々しく息づいていた。


――咲良という名の娘。

――あの番組の中で、自分自身にペンを突き立てた女。

――そして、その女の顔が、自分と「まったく同じ」だったこと。


「違う、違う……」

歩きながら、小さく呟く。

誰に聞かせるでもなく、ただ否定するように。


坂道を下り、駅前のロータリーを抜け、地下鉄の階段を降りる頃には、尚子の顔から表情が消えていた。


電車に揺られている間、車内の窓に映る自分の顔を何度も見てしまった。

“あの女”の顔と、似ている。似ていない。どちらとも言えない。


自宅の最寄駅に着いたのは、夜の8時過ぎ。

改札を抜け、家へ向かう道――ここまで来れば見慣れた住宅街のはずなのに、今日の夜道はなぜかよそよそしく感じた。


住宅の並ぶ一本道を歩いていると、ふと背後に気配を感じた。


誰か、いる?


尚子は足を止め、ゆっくりと振り返った。

だが、そこには誰もいなかった。

街灯が照らすアスファルトと、並ぶ電柱、点滅する信号だけ。


「……気のせい、よね」


それでも尚子は、無意識にバッグの持ち手を握り直していた。

足取りを早め、さらに先へ進む。

もうすぐ家が見えるはずだ。


――ふと、再び気配。今度は、より近く。

「……っ!」


尚子は背中に粟立つような感覚を覚え、半ば駆けるようにして曲がり角を曲がった。


ようやく門柱の見えた我が家の前に辿り着いた時、ようやく呼吸が整い始めた。


門を開け、玄関の扉に手をかけたとき、ふと視界の端に何かが映った。


――電柱の影。

そこに、何かが「立っていた」


全身黒い影。

シルエットしか見えない。

顔は見えなかった。

ただ、髪が長く、静かにこちらを見ているように感じた。


尚子は一瞬、心臓が止まったような感覚に襲われた。


しかし次の瞬間、クリスマス休暇を過ごすために帰国した息子の声が玄関の向こうから響いた。


「母さん? 帰った?」


ハッとして、尚子は振り返らず、慌てて玄関を開けた。

「ええ、ただいま」


ドアを閉めたその瞬間、すべての物音が外界から遮断された。

家の中の明かりが、やっと“安全”という感覚を与えてくれる。


だが、背筋に残る冷たい汗は、しばらく引かなかった。

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