第3話 旧友からの連絡

翌朝の文久大学キャンパスは、どんよりとした曇り空の下、寒風が吹き抜けていた。

石畳の中庭を抜け、尚子は慣れた足取りで経済学部棟の階段を上る。

構内に入り、研究棟の重たい木製のドアを押し開けると、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。


 「おはようございます、教授」


助手の若い女性が丁寧に頭を下げる。

尚子は小さく頷きながら、研究室の扉を開けた。


部屋には書籍が天井まで積み重なり、白いデスクの上にはプリントアウトされた論文、政府資料、経済指標グラフなどが整然と並んでいた。

壁にはハーバードやMITで撮影された写真が額に収まって飾られており、その中に、笑顔の尚子ともう一人、ブロンドの女性が並んで写っていた。


マリア・ヴァンダービルト。

尚子がMITの研究員を務めていた時代に、偶然食堂で隣り合ってから不思議と話が弾み、親交を深めた数少ない外国人の友人である。


――あと、数時間で定頼が帰ってくる。


尚子は、デスクに置いたスマートフォンに格納してある息子の写真を眺めながら、思わず頬を緩めた。

日頃の多忙さに呑まれがちな彼女にとって、息子と過ごす時間はほんの数少ない“私的な幸せ”だった。


その時、デスク横の内線電話が鳴った。

受話器を取ると、少し懐かしい声がスピーカー越しに弾んだ。


「尚子? ヴァンダービルトよ。お久しぶり!」


思わず顔が綻ぶ。声の主はやはり、マリアだった。


「マリア。まさか、日本に戻っていたの?」


「ええ、例のプロジェクトでしばらく滞在しているの。ちょうど今、面白いものを仕上げたところでね。もし良ければ、あなたの記憶を少し貸してもらえないかしら?」


 唐突な提案に、尚子は眉をひそめた。


「私の、記憶?」


「説明するより、見てもらった方が早いわ。少しだけでいいの。今日、お時間ある?」


尚子は一瞬迷った。

だが、息子に会える喜びに気分は高揚しており、研究に集中できるほどではなかった。

今日は仕事が手につかないと割り切るべき日だと、自分に言い聞かせる。


「……いいわ。そっちに向かうわね」


「大歓迎よ。楽しみにしてるわ!」


通話が切れると、尚子はため息まじりに笑った。

相変わらず、マリアはマリアだ。

奔放で突拍子もないが、その天才性は誰もが認めるところだった。


バッグを手に取り、研究室を出ようとしたとき、机の端に置かれた家族写真が視界に入った。

そこには、晴れ着姿の尚子と定征、そしてまだ十代前半だった定頼の姿がある。

尚子は一瞬それを見つめた後、静かに扉を閉めた。


その扉の向こうで、何かが大きく動き始めていることに、まだ気づいていなかった。

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