第2話 幸せな家庭
番組収録の帰り道、尚子はタクシーの後部座席に身を預けながら、車窓に流れる都会の光を眺めていた。
ガラスに映る自分の顔は、スタジオで話していたときよりもいくぶん柔らかい。
けれど、表情の奥にある緊張は解けていなかった。
「ご自宅に到着いたしました。3,500円です」
運転手の声に、尚子は軽く頷き、財布からブラックカードを取り出して支払いを終えた。
玄関前に歩いていくと照明が自動で灯る。石畳のアプローチを歩きながら、ふと、足取りが緩んだ。
「ただいま」
扉を開けると、館内の静寂を破って足音が響く。すぐに、優しい声が出迎えた。
「お帰りなさいませ、奥様」
迎えに出てきたのは、長年仕えている家政婦の今井だった。
控えめに微笑んで立つ彼女に、尚子はコートを預けながら問いかける。
「定頼から連絡は? ハーバードから、そろそろじゃなかったかしら」
「はい、つい先ほどメールが届いておりました。予定通り、来週の金曜に帰国とのことです」
「そう、ありがとう」
声にどこか、ほっとした響きが混じる。母としての顔が、ふと浮かび上がった。
屋敷の奥から、玄関へ向かって足音が近づく。
長身の紳士――夫の松平定征が、落ち着いた表情で尚子に近づいてきた。
背筋を伸ばし、襟元をきちんと整えたその姿には、旧家の血を引く男らしい風格がある。
「おかえり、尚子。番組、観ていたよ。相変わらず見事だった」
「ありがとう。でも、今夜はちょっと熱くなってしまったかもしれないわ」
尚子は小さく肩をすくめながら、夫とともにダイニングルームへ向かう。
食卓には既に料理が並べられていた。
洋食と和食が絶妙に混ざった、上品な献立。
二人はグラスを合わせると、静かに会話を交わしながら夕食を取った。
「定頼の帰国、楽しみだな」
「ええ。きっとまた、背が伸びてるわよ。あの子、すぐ顔が変わるもの」
「尚子も変わったさ。昔はもっと、こう…柔らかかった」
「そう? 世間に揉まれた結果かもしれないわね」
笑いながらそう言った尚子の表情に、どこか影が差す。
彼女の視線はグラスの中の赤ワインに落ちていた。けれど、定征はそれに気づいていないふりをしていた。
食後、尚子は寝室のデスクでスケジュール帳を開き、翌日の予定を確認する。
午後は大学での講義、その後は文部科学省との協議会。
隙間なく詰まった予定表を見て、尚子は一つ息を吐いた。
それでも、眠る前に最後の一杯のカモミールティーを手に取る頃には、いつもの冷静さが戻っていた。
夫と並んでベッドに入ると、尚子は淡く照らされた天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「来週、定頼が戻ってきたら……少し、家族の時間を取ろうかしら」
「いいね。君にも、休息は必要だ」
その言葉を聞きながら、尚子はそっと目を閉じた。
完璧に整えられた屋敷の中、夜の静けさが広がっていく。
外の世界がどれほど騒がしくとも、この場所だけは別世界のようだった――少なくとも、その夜までは。
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