第3話 一難去って……

 ぷにゅん、とした、オンナノコの唇の感触。

 

 (え、ちょっと待ってマジ意味わかんないああっでも柔らかいそっかーキスってこんな感じなんだ……って、アタシ、キス初めてなんだけど! いやいや、そんなことよりさっきの言葉って何? あーでもこのいい匂いだしやーらけー)


 エリサの唇と、抱き留めた体のふにょんとした柔らかさ、それにほのかに香る甘い匂いにくらくらする。

 頭の中がぐるぐるしはじめて、頭から背骨を通って電撃が走る。

 さっきから心臓は爆発寸前だ。それに、へその下あたりがきゅんきゅんと疼きはじめている。


(これはやばい。おかしくなりそう)

 

 かろうじて残っていた理性で、ミーシャはエリサを抱き留めていた両手を緩める。

 そして、そっと口づけを終える。

 目を閉じていたエリサは陶然とした表情だったが、やがて我に帰ったようで、


「急にごめんなさい。びっくりしました?」


「き、急過ぎるよ。いったい、今の、何?」


「えっと、おまじないです。お友達になってくれるかどうかの」


「そ、それでキスまでする?」


「あの、だめだったですか……?」


 エリサは一瞬びくつき、おろおろした表情で見上げてきた。

 ミーシャは今にも泣きそうなエリサの顔を見て、


 (あー、女の子同士だから、これはノーカウント)


 と自分を納得させながら「ダメじゃないけど、ちょっとね」 と平静を装った。


「でも、おまじないでは、口づけをしなきゃいけないんです」


 そんなミーシャに、エリサが訳の分からない抗弁をする。


「しなきゃいけないって。別にアタシは、キスには、な、慣れてるけど。ふつーはみんな驚くよ」


「……わたしは、初めてでしたけど」


 かすかな独り言を、耳のいいミーシャはしっかり聞き取ってしまった。かわゆい。


「そんなことより。さっきの言葉って何?」


 なんだか変な空気になりそうだったので、話題を切り替えた。


「あの。あれは、古い言葉で『お友達になってくれますか』って意味です」


「そうなんだ。アタシそんな言葉、知らないけど、勝手にしゃべったよ?」


「『kompreneble』は、『はい』っていう意味なんです。おまじないだから、心の声が出たのかもしれません」


 そういいながら、エリサは手放していた錫杖を拾う。


(そういうもんなの? いやまあ、別に、この娘が嫌だってわけじゃないけど)


 そこでミーシャは考えるのをやめ、


「ま、それよりも。一刻も早く、この場から離れるよ。荷物はない?」


「はい、大丈夫です。でも、なんでですか?」


 「魔法の爆発。ゴブリンたちの声。そして、血の匂い。――クマが来る」


 「くまさん?」といって、エリサは首をこてんとかしげる。

 おおよそ、かわいい子熊あたりを想像したのだろう、とミーシャは推し量り、


「違うよ。ヨツデグマ。この森で一番凶暴な魔獣だよ。普段は出会うことはないけど、今の時期は――」


 そのとき、メキメキという音が森の奥から聞こえてきた。

 あたりに獣のにおいが漂い始め、否応なしに緊張が高まる。

 ガサガサと草木が、なぎ倒される音がする。

 

 「あ、いやな予感がする」

 

 「……はい。実はわたしも」


 ブ、ル、ブフォオオオオーッ!

 

 本能的に危険を感じさせる鳴き声とともに、とそれは突如、ぬぅ、と草むらから現れた。

 

 身の丈8尺(約2.5メートル)はゆうにある、灰黒色の黒い塊。

 分厚く粗い毛皮にその身を覆い、4本の丸太のような腕の先には、槍の穂のようなかぎ爪が生えている。

 あんなものでひと撫でされれば、首が飛ぶか、はらわたがあたり一面にぶちまけられるだろう。


(ヨ、ヨツデグマだーっ!)


 ミーシャは、叫びたい気持ちを必死で押し殺した。

 

「や、や。なんですか。目の色が真っ赤なんですけど! なんか怖い!」

 

「ああっ、やっぱりだ――今あいつ発情期なんだ! メス以外は手あたり次第、食い殺される」


 2人は、こちらに悠然と向かってくるヨツデグマを見ながら、声を殺して話す。

 ゴフゴフ、ブホブホ唸りながら、クマはのしのしと歩いてくる。

 

 ミーシャは、とっさにエリサを庇いながらも、じりじりと少しずつ後ずさりをはじめた。


 「クマは、いきなり走って逃げると追いかけてくる習性があるんだ」


 「えっと、どうしましょう。何とかしないと」


 ヨツデグマは、小声で話をする二人をよそに、地面に転がるゴブリンの死体をむさぼり始めた。

 

 「チャンスかも。こいつ、獲物を横取りに来たつもりみたいだ」

 

 「じゃあ、今のうちにお暇しましょうか」

 

 じわじわと後ろに下がりながら、ひそひそと2人で相談を交わす。


 ぐちゃぐちゃと生々しい音を立てながら、ヨツデグマは夢中になってゴブリンを食べる。

 繁殖期のこの猛獣にとって、肉を食べることと交尾をすること以外は、眼中にない。

 特に強い子孫を残そうと思えば、わずかでも新鮮な肉を、少しでも多く食べて力をつけなければならないのだ。


「だから今は、アタシたちを襲って食べるより、ゴブリンを食べたほうがいいってわけよ」


 ミーシャとエリサは、なおもじわじわと下がり続けた。

 2人の額には脂汗が浮かぶ。

 ともかく、この場を脱出しなければ、命が危ない。

 

 その時である。

 バキ。という乾いた小気味よい音が、2人と1匹の周囲に響いた。


 ――クマの獰猛な目が、2人を捉えた。

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