なかったことにできなくて

Akira Clementi

第1話

 その日の放課後はどこもかしこも華やいだ雰囲気で、まだ外は雪が残っているというのに教室ではたくさんの花が咲いていた。あたしたちの胸につけられた造花のサクラと、ひとり一輪ずつプレゼントされた色とりどりのチューリップだ。


 卒業式が終わったのだ。


 卒業文集の最後のページにあるメッセージ欄に言葉を綴り合う同級生たちから離れて、あたしは香織と手を繋いで廊下を歩いていた。


「ねえ亜矢ちゃん、相談があるの」


 深刻な顔で、香織はそう言ってきた。誰にも聞かれたくない話だから、教室からあたしを連れ出したんだろう。幼稚園の頃から幾度も繋いできた香織の華奢な手が、小さく震えている。


 うちの高校は、校舎の中心に螺旋階段がある。それは屋上に続いているが、屋上は解放されていない。つまり螺旋階段は、行き止まりだ。香織はそこに、あたしを連れて来た。


 肩が触れ合うくらいの狭い最上段に、二人並んで腰をおろす。香織が何を言いたいのか、あたしにはなんとなく分かっていた。


 まるで小動物のように小刻みに震えながら、繋いだ手にぎゅっと力を込めて、香織が口を開く。


「あのね、亜矢ちゃん。亜矢ちゃんは、圭太くんのこと、どう思ってる?」


 あたしの予想していたとおりだ。


「どうって……別に、圭太は圭太だよ」


 あたしと、香織と、圭太。幼稚園の頃から高校まで、この小さな町でずっと一緒の幼馴染だ。


 小学校の帰りは、いつも香織を中心にして三人手を繋いでいた。あの頃は皆手の大きさなんてそんなに変わらなくて、何をするにも一緒だった。


 中学校になると少し距離感が変わって圭太は手を繋がなくなったけれど、あたしは相変わらず香織とよく手を繋いでいた。中学校からバレーボールを始めたあたしの手と違って、吹奏楽部でフルートを吹いていた香織の手は握ったら壊れてしまいそうなほど繊細で柔らかな感触だった。


 圭太は中学校からバスケ部に入った。三人とも部活は高校でも続けていたから、あたしと圭太は放課後の体育館でよく顔を合わせた。成長期の圭太はどんどん背が伸びたが、あたしも負けていなかった。


 あたしは小学校の頃から背が高い方で、その成長は高校になってもまだ続いていた。今ではあたしと圭太の背は、ほんの五センチしか変わらない。三人で並ぶときは相変わらず香織が真ん中だったから、背の高いあたしと圭太が両脇に立つ様はまるで香織のボディガードみたいだった。


 それくらいずっと一緒に過ごしてきた幼馴染だから、香織のことも、圭太のことも、よく知っていた。


「あの、あのね、亜矢ちゃん」


 浅い呼吸を続けながら、香織が言葉を紡ぐ。


「私、圭太くんに、告白しようと思うの」


「うん。いいんじゃない?」


 香織が圭太を好きだってこと、ずっと前から知ってたよ。だって香織は、圭太をよく見ていたから。いつからか圭太に送る視線に憧れが混ざって、圭太と顔を合わせるたびに少しだけ頬を染める姿に、とっくに気づいていたよ。


「圭太はもう呼び出したの?」


 あたしの問いに、香織がふるふると首を横に振る。肩のあたりで切り揃えた髪が、さらさらと揺れた。


「じゃああたしが呼び出す。香織はここにいなよ」


 そう言って、あたしは香織の手を離して階段を下りた。三年のクラス棟に向かい、圭太を探す。彼はクラスに入ってすぐの席で、友人たちと何事かを話してめちゃくちゃ笑っていた。


 ちょうどいい場所にいたものだ。あたしは入口から、圭太の肩を叩いた。


「お、亜矢じゃん。どうした?」


「ちょっと来て」


「んー?」


 まだ友人と話したそうな圭太だったが、素直にあたしについて来てくれた。背後から指笛が聞こえる。多分、あたしと圭太の関係を誤解しているんだ。部活の休憩中にも雑談を交わすことがあるあたしと圭太は、付き合っているんじゃないかって噂が流れていた。


「香織がちょっと話があるんだって。聞いてやってよ」


 そう言って、あたしは圭太に屋上へ続く螺旋階段を上らせた。とんとんと軽快な足音が遠のいていき、上からぼそぼそと話し声が聞こえてくる。何を話しているかは分からない。でもこの告白の結末は知っている。


『香織って、好きなやついる?』


 数日前に、圭太があたしにメッセージアプリでそんな質問をしてきていたから。


 話し声に、小さな笑い声が混ざり出す。


 おめでとう、これであんたたち二人は両思いだ。


 螺旋階段の上から漂ってくる楽しそうな雰囲気に心の中で拍手をすると、あたしはそっとその場を離れた。


 その後はクラスに戻って、同級生の卒業文集にメッセージを書きまくった。やがて同級生たちがひとり、またひとりと名残惜しそうにクラスを出ていく。


 あたしも帰ろうと昇降口に向かったところで、部活の後輩たちに捕まった。泣きじゃくる後輩をなぐさめ、ブレザーのボタンやネクタイをせがまれたから取り合いにならないように抽選でプレゼントして、記念撮影をして、大きな花束を貰って学び舎を後にする。


 雪深いこの田舎町は、三月でもまだブーツが必要なくらい雪が残っている。


 校舎にいたときはあんなに賑やかだったのに、帰り道は無人で車の一台すら通らなかった。


 もう歩くことなんてないんだろうなと思いながら、通い慣れた川沿いの道を歩き続けて――気がつけば、あたしは全力で走っていた。家の方向に行くはずの小さな橋も無視して、ひたすらに走る。


 走って、走って、視界がどんどん滲んでいって。


 路傍に転がっていた固い雪の塊に躓いて、あたしは転んだ。そのまま白い土手を転がり落ちて、雪まみれになる。後輩たちに貰った大きな花束も、先生からひとりひとり手渡されたチューリップも、あたしと一緒に転がり落ちたせいでくしゃくしゃになってしまった。


 四つん這いのまま、あたしは叫び続けていた。


 あたしだって好きだったのに。


 ずっと好きだったのに。


 幼稚園の頃から、ずっと、ずっと、香織が好きだったのに。


『おなじおくつだね』


 そう言って、初めて会った香織はあたしに向かってくしゃっと笑った。くせ毛のツインテールがふわふわしていて、まるでお人形さんみたいだった。


 香織の笑顔はずっと変わることがなくて、小さな手はいつも温かくて、そんな彼女の隣にいられることが、あたしの幸せだった。


 あたしの一方的なこの恋心が実を結ぶものだったら、どんなによかっただろう。多分あたしが想いを伝えても、香織はあたしを幼馴染として好きだと言ってくれる。そしてあのくしゃっとした笑顔を見せてくれるはずだ。


 でも、そんな香織への恋も、今日で終わりだ。


 あたしの心の中に深く根付いてしまったきみへのこの想いが、枯れ果ててくれたらいいのに。お願いだから、もう二度と芽生えないで。種すら残さず、消え去って。


 ひとりぼっちの河川敷で、あたしは叫び続けていた。

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