深夜二時のタクシー

leniemma

歌舞伎町から



「お客さんどちらまで?」

「新大久保まで」

「新大久保ね〜、はいよ」


 深夜二時、歌舞伎町。今日はラストのお客さんだな、そう思いバックミラーを覗いた。

 ゾクリ——黒髪からギョロリとした目が覗く。目が合った瞬間、背筋が凍った。

 青白い顔に、真っ黒で湿ったロングヘアを肌に貼り付け、生臭く冷たい、不気味な空気を漂わせている。

 車内は吐く息が白く濁るほど、温度が一気に低下した。


 ——どこかで嗅いだ覚えのある匂い。僕はむず痒くなった自分の首を、無意識に撫でた。


 長年の経験から、この世の者ではないと悟るのに時間はかからなかった。それでも仕事。割り切って接客するよりない。


「……お客さん、遅くまで大変だね」

「……ええ、まぁ。いつもこの時間になるのよ」


 予想より低く、くぐもった声で答える女性からは、どこか哀しみのようなものが伝わってくる。


「へぇ。大変なんだね」

「彼が……この時間まで、帰してくれないから」

「お勤めじゃなかったのか。結婚はしてるのかい?」

「結婚は、まだしてない」

「タイミングだからね」

「そうね。でも必要ないわ。もう少しだもの」

「もう少し?」


 ミラー越しに、にやりと上げた口角からは血が滲み、異常な程目が血走っているのが分かった。

 


「ふふふ。そうなの、もう少しでこっちに来るから。一緒になれるのよ」


 ああ、その男の事、連れていく気なのか。


「……その男は何か酷いことでもしたのかい?」


 女性は射るような視線でこちらを見る。


「……当たり前でしょ。何言ってんのよ、おじさん」


 ビリビリと電流のように空気が肌に刺さる。女性は今にも襲いかかってきそうな視線をこちらに向けている。


「そんなに敵意を出さないでくれよ。話だけでも、聞かせてくれないかい?」


 女性は苛立った感情を鎮めるように、目を閉じ、ふぅと息を吐いた。


「——私、歌舞伎町で働いてたの……彼もね。そこで偶然出会って、付き合ってから一年後に彼からプロポーズされたわ」

「ほう……」


 膝に置く女性の手が震え始める。


「その後……この世界から足を洗おうって、二人でオーナーを説得したわ。でも私、彼と付き合うまでオーナーと付き合ってて……興奮したオーナーに……」

「……殺されたのかい?」

「……そう。でもナナトは助けてくれなかった」

「ナナト君って言うんだ」

「そうよ、この世界で本名使うのよ。バカよね」


 女性はふっと鼻で笑った。


「不思議だな。そうなったら普通、そのオーナーってのを恨むのが筋じゃないか?」

「……」


 僕は首を傾げた。


「他にも何か理由があるのかい?」

「……違う……女がいるの。悔しい……好きだったのに……」

「違う女ねぇ……ああ、そうだ」


 僕はここで先日乗せたとある客の話を思い出した。


「……実はね、この前ペアのお客さんを乗せたんですけどね」

「……は?」


 女性の赤く染まった白目がミラーを睨む。


「——男性は酷くやつれていましてね。可愛いスズランの花束を持って、彼女の命日に花を手向けに行くって言うんですよ」


「スズラン……」


 女性の目がミラーから逸れ、気のせいか車内の空気が温かくなった。


「お連れの方は彼女じゃなかったみたいでね。男性に何回も告白はしているけど、振られてるらしくて。男性は亡くなった彼女が忘れられないんですって」


「そんなの私に関係ない——」


「……確か、スズって言ったかな。亡くなった彼女。男性は小さく揺れる花を見て、"その子が好きな花だった"って」


「……」


「この業界で働いていたのに、本名使うピュアな子だって、お客さんみたいに笑ってましたよ」



 新大久保までの数分間、女性は俯いたまま顔を上げる事はなかった。


「着きましたよ」

「……思ってたのに」

「はい?」


「私、ナナトが幸せならそれでいいと思ってたのに……いつから忘れてたんだろう……」


 顔を上げた彼女の目は、もう血走ってはいなかった。


「運転手さん……ありがとう」


 そう言うと、女性は夜空の闇に溶け、涙の跡だけが月の光にきらめいた。


「……やれやれ。次は幸せになって下さいよ」


 僕は溜め息をつき、バックミラーを覗く。

 むず痒い首にくっきりと付いた痕、青白く浮かぶ顔。 

 そこには十年前、首を吊った時のままの自分の顔が、恨めしそうに映っていた。



 僕は再びハンドルを握り直し、月明かりの下を走った。




 ———


 深夜二時、歌舞伎町。

 今日も街はまだまだ人で溢れている。

 束の間の休息を取り、ふぅと溜め息を吐いた。

 路地に停めた後、開けた窓に向かい耳を澄ます。ハンドルをリズム良く撫でながら、ミラー越しに行き交う人々を眺めた。


 ——人の声が尽きることのないこの街に、最近とある噂が広まっているらしい。




「ねぇ、知ってる?」

「え?なに?」

「最近噂になってるタクシーの話し」

「何それ?知らな〜い」

「なんかさ、夜中に歩いてると急にタクシーが止まって、声をかけられるんだって」

「そのタクシー、自殺したタクシー運転手らしくって〜、自分を騙した女を探すために客の顔を覗いてるってはなし〜」

「え、こわ〜」



キキ————、パタン。


「あ、タクシー」

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