幼なじみと帰る場所〜照れ屋な年下男子は人生の設計図を描く
山田あとり
第1話 利用された私は恋人を捨てる
カチカチ、カチカチ。
一日中パソコンに向き合いマウスをクリックしていると、腕がつりそうだと思うことがある。モニターの見つめすぎで目もシパシパしてきた。
開発部の一角。
作業着姿の私・
明日の開発完了会議にかけるのは、
啓介は私と同期で――まあつまり、彼氏だったりする。最近はあまりデートの時間も取れないのだけど。
付き合い始めた頃は、啓介も優しかった。
仕事がうまくいかなくても「由依は頑張ってるよ」と励ましてもらうと乗り切れた。クールな啓介が私にだけは笑顔を見せてくれるのも自尊心をくすぐった。でも最近は、そんなこともない。
「悪いけど、完成資料まとめといて」
今日もそう言い捨てて、啓介は自分の机に戻ってしまった。ちょっと待ってと言う隙もない。すぐ電話を耳に当てるのが拒絶のように思えて息が詰まった。
その電話の相手は本当に取引先? 嫌な想像ばかりしてしまう。
私はため息を押し殺し、パソコンのモニターに向き直った。
仕事自体は嫌いじゃない。でも啓介が当然のように私に作業を押しつけるたび、胸の奥がじくじく痛んだ。
前はこんなじゃなかったのにな。
チームが違っても、遅くまで残業する私を待っていてくれたし。特許申請が通った時は二人だけで祝杯もあげた。なのに。
もう啓介から便利に使われているだけのような気がする。私は自分のことをせせら笑った。
集中していた私は、ふと我に返って背伸びした。肩がバキバキいう。
こういう仕草をすると啓介は「トシかよ」と嫌な顔をする。見られていないか確認したら、啓介は離席しているようだった。
(私も少しリフレッシュしよう)
マイカップを手に廊下に出た。休憩室の給湯器でお気に入りのハーブティーを淹れるつもりだ。
力を抜いて、さっさと資料を仕上げなきゃ――と思った私は足を止めた。
視線の先、自販機コーナーに啓介がいた。総務部の女性と並んで笑っている。
長い髪を揺らすその人は、確か私より四年ぐらい下の入社だった。社内で評判の美人。きれいなスーツ姿は、開発部の私のよれた作業着とは違う。
(どうして?)
二人の距離が近い。私が知っている啓介の営業スマイルとは少し違って見えた。
私に気づいたのか、啓介はちらりとこちらを見た。次の瞬間、相手の女が唇の端をにっこり吊り上げる。やさしげに、媚びる声色。
「ふぅん、女らしさ捨てるとか信じられないですねえ。かわいそう」
胸の奥で何かがぷつりと音を立てた。
(それ私のこと言ってるの? なんの当てつけ?)
私は何も言わず、後ろを通り抜けた。心が冷える。歩きながら私は決意した。
――もうこんなの、やめる。
終業時刻を過ぎ、部員が三々五々減っていく。残業は減らすよう言われているのだ。
啓介に頼まれた明日の資料を優先したせいで、私の仕事はまだ残っていた。だけどもう帰ろう――ちょうど啓介も席を立ったし。
「……啓介、ちょっといい?」
廊下で呼び止めると、彼は面倒くさそうに振り返った。でも足をとめてもくれない。
「何?」
「別れよう」
ひと言で私は告げた。彼はやっと私に向き直る。
「は?」
「だから、別れよう。もう無理」
「おまえ何を言って――」
「仕事を押しつけられるのも、ないがしろにされるのも耐えられない。言われてた明日のファイルはそっちに送ってあるから」
自分でも驚くほど声が静かだった。感情を抑え込むほど、かえって言葉は鋭くなる。
啓介が何かを言いかけたが、私はもう振り返らずロッカーに向かった。
でも更衣室で作業着を脱ぐ手はふるえていた。
屈辱と迷いとで押しつぶされそう。これでよかったのだろうか。
(私が女らしくないって? よけいなお世話よ。図面引いて実験する人間が作業着で何が悪いの)
そう自分を鼓舞する。
シャツブラウスとフレアスカートに着替えた。シンプルだけど女性には見える格好。でも――総務のあの子が言ったのは違う意味だろう。
(男を支えて? アシスタントに徹して? いつもニコニコしていろってことでしょ。馬鹿じゃないの、私は私だわ!)
私は足音荒く退勤した。
✻ ✻ ✻
翌日、私はリモート勤務に切り替えた。正直に「神崎啓介と別れた」と申告したのは、やりすぎだろうか。
でも部内で私たちの関係は公然のものだ。あることないこと言いふらされるより、こっちから言った方がいい。心配してくれる部長の反応は期待通りだった。
「今日の議題は神崎の案件だから……あっちには出社してもらわないと困るんだよなァ」
「わかってます。だから私は出社自粛させて下さい。頭を冷やしたいので」
「あっ、でも高梨さんに辞められるのは痛手なんだよー? できればウチの部にいてほしいから異動も……季節的にしづらいしな……キツいだろうけど配慮するから、なんとかお願いだよ。本当に体調不良とかならないように、とりあえずリモート多めにしてもいいんで」
「お気づかいすみません」
私は容赦なく部長の言葉に甘え、ひとまず週三のリモートを勝ち取った。
✻ ✻ ✻
数日実践してみたマイペース勤務はそれなりに快適だった。図面作成や資料整理は、パソコンがあれば自宅でも問題ない。
でも私は実家暮らしなのだ。急に家での仕事を増やした娘に、両親がアタフタした。
「なぁに由依……リストラなの?」
「そんなわけないだろう、うちの娘にかぎって」
ハハハ、とわざとらしく笑って父は出勤していく。青ざめる母はつくり笑いだった。
「お昼ごはん、何作ろうかしらねえ」
娘への思いやりはわかる。でも今はその優しさが息苦しかった。
(――だめ。このままじゃ落ち込むばかりだわ)
✻ ✻ ✻
午後五時ジャスト、退勤処理をして私は散歩に出た。ちょっとコンビニ、と母には告げた。
ぶらぶら歩くのが気持ちいい。
初夏を迎え、日が長くなってきていた。あたりに少しずつ黄昏の気配がただよい始めるこの時間が私は好きだ。
涼しい風と、空にかかる半月。心が凪いでいく。
バス通りに出ると、駅とは反対側へ。いちばん近いコンビニがそっちにある。
ところが途中――見覚えのある横顔を見つけ、私は立ちどまった。
通りに面した建物を見上げるその人は、ブルーグレーのワイシャツにスラックス。背が高く、手には大きな筒を抱えている。図面入れだとわかった。
「……
呼びかけると、彼はゆっくり振り返る。
目が合った瞬間、懐かしい少年のおもかげが重なった。
悠真くんとは小学校の登校班が一緒だった。とても真面目で恥ずかしがり屋という印象の男の子だ。でも下の子たちの面倒みはよかったっけ。
「……由依ちゃん?」
声は低くなったのに、昔のままの言い方で呼ばれ私の目がおよいだ。「ちゃん」って……二十八歳の女をつかまえてそれは。気づいた悠真くんもうろたえる。
「あ――おかしいよな。いや、だってどう呼べばいいんだよ」
そう言って笑った悠真くんの笑顔は、少年の頃よりずっと大人びていて――でもやっぱり少し照れくさそうだった。
悠真くんが見上げていた建物は自宅だった。私はこっちを通らなくて知らなかったけど、しばらく改築工事中だったんだとか。
建築事務所に勤める悠真くんは実家のリフォームを担当しているのだそう。
「カフェをやりたいって親に言われて」
「カフェ?」
「夢だったんだと。ここ表通りだけど駅から離れてるだろ。やっていけるかどうか……反対したんだけど聞きやしなくてさ」
「ふふ」
ご両親を心配する悠真くんは、昔のやさしい男の子のままだ。だけど、がっしりした肩や太くなった首は確かに大人の男性。私はなんだか落ち着かなくなる。
「なんで笑うんだよ」
「んー、なんかね」
「くそっ。いつまでも先輩だと思って」
やや不貞腐れる悠真くんがおもしろくて、私は声をあげて笑ってしまう。なのに、
(……啓介と別れてから、こんなふうに笑えたの初めてかも)
そんなことに気づいてしまい、私はいきなり笑顔を引っ込めた。うつむく私を悠真くんがのぞき込む。
「……由依ちゃん?」
「ううん……あのね、
「じゃあどう呼べば……由依、て呼び捨てるぞ?」
「あら、かまわないけど? 私も
たぶん脅しで言ったのだろう「由依」呼び。
余裕で受け入れ、さらに「悠真」と返してみたら悠真くん――もとい悠真は、薄暗いのにはっきりわかるほど顔を赤くした。
――沈み込んでいた私の気持ちが、少しだけ動いた気がした。
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