第3話  燃え上がる火種

冬の空気は、敗北の痛みすらも凍らせるかのようだった。

雪に膝を沈め、レオンは浅い息を吐く。剣は遠くに転がり、胸にはゼルヴィオの一太刀の衝撃がまだ残っている。

「長旅、お疲れさまでした――レイハルト殿下」


鼓動が跳ねる。

身分を隠しているはずなのに、迷いなく名を呼ばれたことへの驚きと、“殿下”という響きが、この異国で急に現実感を取り戻させる。


「……おれのことを知っているのか」


少女は微笑み、名を告げる。

「私は、リリシア王国第一王女、イリス・グラシュヴァイン。あなたの事情も承知しております」


ただの礼儀や好意ではない。彼女は、自分を知っていて近づいてきた――しかし、その事実が、不思議と嫌ではなかった。


「お強いのですね。」

「そんなことはないさ。君の兄上に、あっさり倒されてしまった」

「いいえ。ルークスの剣を三度も受け止められる者は、この国にもほとんどおりません」


彼女の声音は自慢げで、ルークスのことを心から誇らしげにしているようだった。しかし、レオンにとっては、その悪意の感じられない一言が小さな棘のように胸に刺さる。

――嫉妬。

なぜ自分は、初めて会った少女が他の男を褒めるだけで、こうも心を乱されるのか。


イリスが言葉を継ごうとした、その瞬間――


「イリス」


低く鋭い声が、雪を切り裂いた。

その響きが、まるで自分と彼女の間に引かれた見えない線を、容赦なく叩き切る。


振り返ったイリスの紅玉の瞳が、兄を映した瞬間、わずかに陰った。

ゼルヴィオ・グラシュヴァイン――第一王子。

その存在が近づくたび、周囲の空気が冷え、胸の奥で温まりかけた何かが急速に凍っていく。


「行け。……お前の婚約者が待っている」


一瞬、意味を理解できず、次いで心臓を鷲掴みにされたような感覚が襲う。

足元の雪が、先ほどよりもずっと冷たく感じられた。


イリスは小さく息を吐き、レオンに一礼して雪の奥へと去っていく。

白いマントが雪煙に溶けるまで、彼はただ見送るしかなかった。


ゼルヴィオは妹の姿が消えるのを見届けると、冷たい眼差しをレオンに向けた。


そして、レオンに一言も声をかけることなく立ち去っていく。


お前など歯牙にかける必要もない、まるでそう言っているかのようなゼルヴィオの態度は、氷刃のように胸に突き刺さる。

雪煙を巻き上げながら去る背を見送りつつ、レオンは無意識にハンカチを握りしめていた。


――婚約者。その言葉が耳の奥で反響し続ける。



夜。

学生寮で食事を終えた後、あつらえられた自室で、レオンは、日中に起きた出来事を反芻する。


訓練場の冷気は、まだ胸の奥から抜けていなかった。

自室の静けさが、余計に昼間の出来事を鮮やかに蘇らせる。


机の上には、あの時受け取ったハンカチが置かれていた。

雪で濡れたはずなのに、今も微かな温もりが残っている気がする。

指先で布をなぞると、柔らかな感触の端に、銀糸の刺繍が触れた。


――双つの紅玉と、その上に交差する銀の翼。


「……王家の紋章」


かつて外交の場で見せられた図案が脳裏に浮かぶ。

それは、この国で最も高貴な者だけが纏う印。


彼女が、ここリリシアの第一王女と自己紹介したことを思い出す。


紅玉の瞳と微笑み、そして「婚約者」という言葉が同時に押し寄せる。

胸の奥に重くのしかかるものと、理由の分からない熱が混ざり合い、呼吸が浅くなった。


あの声。あの視線。

あの雪の白に映えた姿が、目を閉じても消えない。


「…… イリス・グラシュヴァイン」


呟いた瞬間、自分の中にひとつの決意が芽生えた。

それはまだ形を持たないが、確かに温かく、そして危うい火種だった。


窓の外では、雪が降り続いている。

白い夜に包まれたその火種は、まだ小さい。

だが、やがて吹雪をも焼き尽くす炎になることを、この時のレオンはまだ知らなかった。



翌朝。

レオンとカイにとっては、初登校となる。新たな気持ちに身を引き締めながら、学生寮の玄関ドアを開けると、外は一面の雪に覆われ、玄関から広がる石畳は冷たい氷で作ったかのように凍っていた。


吐く息が白く散り、朝靄の中を学生たちが列を作って学院に向かって歩いていく。


ひそひそとした声が耳に届いた。

「昨日の訓練場、見たか?」

「人間の転校生が、ゼルヴィオ殿下に一太刀で叩き伏せられたって……」

「そもそも第一王女の婚約者のルークス様に絡んでいったらしいぜ。」

「そのあと、第一王女に介抱されてたって……俺なら恥ずかしくて外を歩けないよ」


声が途切れると、鋭い視線だけが刺さる。

敵意と好奇、そして侮蔑が入り混じった色。

誰も直接言葉にはしないが、レオンが学院で“異物”と見られていることは明白だった。


人間から魔族と呼ばれ、蔑まれてきたことへの憎悪の全てがレオンに向いているような気になる。そして、リリシアとアストリアとの関係の悪化が、レオンへの視線をさらに冷たくする。


(……いいさ。今に見ていろ)


屈辱を押し殺しながら、歩みを止めない。

胸の奥に小さく燃える火種――イリスの紅い瞳が、冷たい視線の中でも消えずに灯っていた。


レオンは懐にしまったハンカチの感触を確かめながら、訓練場へ向かっていた。

――温もりはまだ残っている。いや、消せなかったのかもしれない。



その時、ざわめきが耳に届く。

学生たちの視線が一斉に、階段の上へと向けられていた。


そこに、イリスがいた。

白いマントを肩にかけ、朝日に紅玉の瞳を輝かせて。

その周囲には、護衛の魔族騎士たちが控えている。


一瞬、視線が交わった。

雪の冷たさも、周囲のざわめきも消える。

ただ、その紅い瞳が自分を見ているという事実だけが鮮烈に刻まれた。


――が、その瞬間、鋭い影が横から割り込む。

ゼルヴィオ。

昨日と変わらぬ冷たい眼差しが、無言のまま「近づくな」と告げていた。


イリスはわずかに視線を伏せ、護衛に促されるまま去っていく。

白いマントが雪煙に溶けるまで、レオンは動けなかった。


胸の奥で、昨夜の火種が再び小さく燃え始める。

火種は、ぶすぶすと燻っているようだったが、確実に熱くなっていた。


(……次は、侮られはしない)


屈辱も、冷たい視線も、王女の婚約者という壁さえも――越えてみせる。

そう心に誓った瞬間、冬の朝の冷気が、炎のように熱を帯びて感じられた。

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