第2話 敗北と雪の少女
冬の空気は、剣戟の音すらも凍らせるかのようだった。
訓練場に足を踏み入れた瞬間、レイハルト――いや、“レオン”は、周囲の視線を一斉に集めた。
人間の若者が、魔族の本拠地の只中に立つ。それだけで十分に異質だ。
「レオン様、本当にやめましょう」
背後からカイが押し殺した声で忠告する。
「こんな所で問題を起こしたら……」
「ただの挨拶だ。心配するな」
レオンは肩越しに笑い、歩みを止めなかった。胸の奥底で密かに高鳴る鼓動を押し殺しながら。
寒風が頬を刺す中、銀白の髪が翻った。
訓練場の片隅で剣を振る男――ルークス・フェルゼイン。
その剣筋は重く、流れるように美しい。だが一瞬、その剣先で魔力が黒い靄のように揺らめき、冷たい針のように意識を刺す。剣を持つ手に冷気が走り、平衡感覚がわずかに狂った。
(……厄介だな。だが、面白い)
「おい、お前がルークスか?」
声をかけても、ルークスは反応しない。剣を振り続ける。
「聞こえなかったか? それとも……人間の言葉は分からないか」
ざわつく訓練場。
「おい。今、人間が……ルークスを挑発したぞ」
「死ぬぞ、あれは」
ルークスの紅い瞳が、初めてレオンを捉えた。
剣を振る手が止まり、空気が一変する。
その視線には、獲物を値踏みするような冷たさと、魔族特有の得体の知れない魔力が宿っていた。
「……もう一度、言ってみろ」
低く響く声。周囲の空気が一気に張り詰める。
カイが慌てて前に出た。
「レオン様、引きましょう! ここは……」
「引く理由がない」
レオンはゆっくりと剣の柄に手をかける。――本気は出さない。ただ、侮られるのも御免だ。
次の瞬間、剣が交わった。
最初の一合。
甲高い金属音が冬空を裂き、雪が爆ぜる。
腕に痺れが走る。重い――それだけではない。
意志ごと呑み込もうとする冷たい魔力が、剣を握る感覚を奪っていく。
二合目。
ルークスが踏み込み、刃が頬をかすめた。
赤い線が肌に走り、冷気が血を凍らせる。
三合目。
互いの剣がぶつかり、火花と雪が同時に舞った。
観客の息が詰まり、誰も声を発さない。
(……ただの強化魔法じゃない。精神に作用する魔法か)
「口だけかと思えば……少しはやるじゃないか」
白い息と共に低い声が響く。挑発に、レオンの口元がわずかに吊り上がった。
雪を踏みしめ、一気に踏み込む。砂をすくい上げ、目潰しを狙う。
奇襲が成功し、ルークスが目を細めた瞬間、刃がその喉元に迫る――。
(いける……!)
刃が首筋を捉えかけた、その時――
「そこまでだ」
凛とした声が冬空を裂いた。
訓練場全体が一瞬で静まり返る。
低く、深い響きを帯びた声。振り向けば、漆黒の髪を後ろで束ねた長身の男が立っていた。紅い瞳が冷たく光る。ゼルヴィオ・グラシュヴァイン――リリシア王国の第一王子にして、王太子。
その声に、訓練場の魔族たちは一斉に姿勢を正した。
彼の剣には微かな魔力の輝きが宿る。
「……こざかしい人間め」
ルークスは視線を下げ、剣を収めると、ゼルヴィオに軽く頷いた。
「やりすぎるな、ルークス」
低く告げる声に、ルークスはわずかに口元を歪める。
「お前は、自分の立場というものがよく分かっていないらしい」
次の瞬間、ゼルヴィオの鮮烈な一振りが襲う。
見えなかった――いや、見えた時にはもう遅かった。
衝撃が全身を突き抜け、剣が弾き飛ばされる。
膝が雪と泥に沈み、呼吸が荒くなる。
(……速い……! 何が……)
理由すら掴めぬまま、敗北感が胸を満たした。
「お前たち、こんなところで何をしている。我らが学ぶことができる時間は限られている。くだらないことに気を取られず、時間を惜しんで勉学に励め」
ゼルヴィオの言葉に、周囲の魔族たちは何も言わず武器を収め、足早にその場を去った。
ゼルヴィオは、レオンの方には目も向けずに立ち去っていく。
話す価値もない、と言わんばかりの態度。
残されたのは、泥に膝をつき、荒い息を吐くレオンだけ。雪混じりの泥が制服を汚し、冷たさと屈辱に震える。
その時――
「大丈夫ですか」
柔らかな声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、雪の中に一人の少女が立っていた。淡い銀色の髪が雪に溶け、紅玉のような瞳がまっすぐに見つめる。
その手には、小さなハンカチ。微かな魔力の輝きと、学院の紋章に似た、どこか禁断の魔術を思わせる印が刻まれている。
「……これを」
差し出されたハンカチを受け取った瞬間、胸の奥が熱くなった。理由は分からない。ただ、その笑顔には魔法のような引力があった。
雪が静かに降り続く中、レイハルトは敗北の痛みを噛み締めながらも、その少女から目を離せなかった。
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