第1話 魔族の国、出会いの冬
寒い。
馬車の車輪が、凍てついた石畳を重々しく踏みしめていく。
雪は音もなく降り積もり、視界を無垢な白で覆っていた。
吐く息はすぐに凍り、空気そのものが刃となって頬を刺す。
南の帝国〈アストリア〉とは、まるで別世界だ。
陽光が降り注ぎ、果実の香りが漂う街路――それがアストリア帝国皇太子レイハルト•マルキディウスの“日常”だった。
今いるのは、北の魔族の王国〈リリシア〉。
同じ島国とは思えぬ極寒の地。死人のように青白い肌、尖った耳、血のように赤い瞳を持つ人々が作った王国だ。
アストリアの民は密かにこの国を「魔界」、そこに住む人々を「魔族」と呼び、蔑んできた。
(……よりによって、こんな所に)
この派遣は、父である皇帝セレノス・マルキディウスの決断だった。
理由はただ一つ。悪化する両国関係を、少しでも改善するため。
きっかけは、国境の大森林。
アストリアでの人口増加に伴う伐採と開墾が緩衝地帯を削り取り、リリシアは激怒。
瞬く間に関係は冷え込んだ。
そこで、セレノスは、戦を避けるための賭けに出た――皇太子を敵地に送るという大胆な手。
命の危険すらある任務を託されたということは、それだけ自分が信頼されている証だ。
ならばやってやる、とレイハルトは胸を張っていた。
……もっとも、そのやる気がしばしば空回りすることは、自覚していない。
「殿下、そろそろ到着です。マントをどうぞ」
隣に座る青年、カイ・エステルムが厚手の毛織の外套を差し出す。
アストリア騎士団長の息子で、剣の腕は随一。何より、幼い頃から仕える腹心だ。
「……“レオン”だ。ここではそう呼べと、何度言えば分かる」
「失礼しました……レオン……様」
わずかな間を置き、カイは苦笑した。
「やっぱり慣れませんね。……でも、油断は禁物です。通りという通りに紅い目が光ってます。どう見ても俺たちは歓迎されてません。」
「ふん……」とレイハルトは鼻を鳴らし窓の外に目を向ける。
雪をかぶった石畳は、淡く輝く魔力灯によって融かされている。
屋根からは温かな蒸気が立ちのぼり、街角には浮遊する光球。
鉄製の魔導滑車が荷を運び、露店では魔法で温められた果実が売られている。
「……すごいな。アストリアじゃ、夢物語ですよ」
カイが呟き、一瞬だけ視線を逸らす。
その目は、魔導滑車の動きに一瞬輝きを宿し――すぐに、騎士の硬い色へと戻った。
レイハルトは無意識に息を呑む。
アストリアでは、魔法は貴族の道楽に過ぎない。
だがここでは、人々の暮らしのすべてに魔法が息づいている。
この差は脅威であり、同時に――羨ましくもあった。
やがて、白銀の魔石をあしらった荘厳な門が見えてくる。
中央には、三本の剣を抱いた翼竜の紋章――〈リリシア王立国防学院〉。
将来の軍と政を担うエリートたちが集う場所。
今日からレイハルトとカイは、この学院で学ぶことになる。
門兵の魔族は直立不動で、紅い瞳を細め、二人を射抜くように見つめていた。
額の小さな角が雪を弾き、鈍く光る。
(歓迎されてないのは、明らかだな)
アストリアから遠く離れたこの地でーーアストリアの名を背負う自分に、怯む選択肢はない。
馬車が門をくぐると、魔石の光が中庭の雪を柔らかく照らした。
雪は魔力の影響か、微かに不自然な渦を描いている。
吐く息は白煙となってすぐに消える。
カイが肩にマントを掛けてくる。
「とにかく、目立たないように。問題は絶対に――」
「分かってる。それ、お前の口癖になってるな」
学院の敷地内は重厚な石造りの建物が並び、ステンドグラスには魔法陣が浮かんでいる。
その魔法陣が、一瞬だけ不自然に脈動し、レイハルトの胸に冷たいものを走らせた。
扉は音もなく開閉し、目に見えない暖気が肌を包む。
……同時に、遠くから低いうなり声のような魔力の響きが耳に届いた。
(これが……リリシアか)
感嘆の息を吐く間もなく、視線がある一点で止まった。
訓練場の片隅――寒風をものともせず剣を振るう男。
銀白の髪が雪と舞い、青白い肌に浮かぶ魔紋が淡く光る。
吐く息は白く、体からは湯気が立ち、剣筋は重く、しかし流れるように美しい。
一瞬、その剣先で魔力が黒い靄のように揺らめき、レイハルトの剣士としての直感を鋭く刺激した。
アストリアで幾多の強者を倒してきた彼でさえ、感じたことのない異質な気配だった。
さらに周囲を見れば、他の魔族たちは遠巻きに彼を見つめ、誰一人近づこうとしない。
足元の地面には、剣の軌跡が刻んだ浅い傷が幾筋も残っていた。
一瞬、ルークスの紅い瞳がレイハルトを捉え、剣を振る手を止める。
その視線には、獲物を値踏みするような冷たさと、魔族特有の得体の知れない魔力が宿っていた。
「ルークス・フェルゼイン。魔族でありながら、剣聖に最も近いと噂される男です」
カイの声を最後まで聞く前に、レイハルトの唇が吊り上がる。
(剣聖だと? ……面白い)
次の瞬間、雪を踏みしめる音と共に、レイハルトは訓練場へ向かって歩き出していた。
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