第2話 古書を食べる客人

古書を食べる客人


■ 謎のもぐもぐ音


キクミ-カフェの店内は、夕暮れ色に染まっていた。

閉店まであと十五分、客足も途絶え、静かな時間が流れている。

カウンターの上では、私が入れた珈琲の香りが、ほのかに漂っている。


――そのとき。

入口の扉が、きぃ、と小さく鳴って開いた。


入ってきたのは、背の高い人物であった。全身を深いフードのローブに包み、顔はよく見えない。

ゆっくりとカウンター席に腰を下ろすと、低い声で言った。


「……珈琲を、一杯」


私は小さくうなずき、香り高い一杯を丁寧に差し出した。

客はしばらく香りを嗅ぎ、静かに口をつける。


一口飲むたび、カップの中で液面がわずかに揺れる音がする。

その静けさを破ったのは――


もぐ、もぐ。


……おや?

私は耳を澄ました。確かに、何かを咀嚼する音である。

しかし、テーブルには珈琲しか置いていないはず。


客はゆっくりカバンから、分厚い本を取り出した。

そして――そのまま角をかじった。


「お、お客様……! そ、それは……」

「うむ、この紙質は上等だ」


満足げにうなずきながら、客は本のページを一枚ずつ、音を立てて食べていく。

驚く私をよそに、彼は真剣そのものであった。


やがて本の半分を平らげ、ようやく私の視線に気づいたのか、少し首をかしげた。


「……食べてはいけなかったか?」

「え、ええと……それはお客様のご持参のものでございますか?」

「そうだ。今日は古地図を持ってきた。味わい深い。紙の繊維に、海風の塩気がほんのり残っている」


まるでワインのソムリエのような口ぶりである。

私は思わず、くすりと笑ってしまった。


「……では、召し上がっても差し支えはございません。ただ……珈琲と合わせて召し上がる方は、初めて拝見いたしました」

「ふむ。湿らせると香りが立ち、噛み心地がまろやかになる」


妙に納得のいく説明であった。

彼は本を食べ終えると、静かに立ち上がった。


「明日も来る。次は“店主のお任せ”を頼みたい」


そう言い残し、フードの客は夜の通りへと消えていった。


残されたのは、珈琲の香りと……ほんの少しの古紙の匂い。

私はカウンターの奥で、小さくつぶやいた。


「……明日は、何をお出ししましょうかね」


---


■ 食べられるメニュー表


翌日、キクミ-カフェの開店準備が整ったころ、昨日の客が再び現れた。

フードは相変わらず深くかぶられており、顔は見えない。

だが、カウンターに座る仕草、そしてその静かな息づかいから、昨日と同じ人物であることは一目でわかった。


「今日は“店主のお任せ”を頼む」

「かしこまりました」


私は少し考え、奥の棚からある物を取り出した。

それは――この日のために夜なべして作った、特製の“食べられるメニュー表”である。


羊皮紙風のクレープ生地に、カカオインクで丁寧にメニューを書き込んだ。

香りづけにシナモンを加えたため、ほんのり甘い匂いが漂う。


「本日は、こちらからお選びいただけます」

「……おお」


客はゆっくりとメニュー表を手に取り、まず香りを嗅ぐ。

次に、端をほんの少しかじった。


もぐ、もぐ。

その顔は――いや、顔は見えないが、雰囲気はまるで目を細めているかのように柔らかい。


「……紙の香ばしさに、甘みが重なる。すばらしい」

「ありがとうございます」


しばし食感を楽しんだあと、客は残った半分のメニュー表を返してきた。

「では、これを」

指さしたのは“ホットミルクとシナモンブレッド”の欄であった。


私は注文を受け、カウンターの奥で準備を始める。

ふと視線を戻すと、客はまたカバンから何かを取り出し――今度は薄い古書をぱらぱらとめくっている。

どうやら今日は持参の“おやつ”もあるらしい。


「おや、今日は二品でございますか」

「うむ。メニュー表は前菜、持参の本はメイン、そして君のパンがデザートだ」


前菜と呼ばれたメニュー表は、もう跡形もない。

私は笑いをこらえながら、温かなホットミルクと焼きたてのシナモンブレッドを差し出した。


「……ふむ。紙も良いが、小麦もまた乙なものだな」


その日、彼は珍しく長居し、ゆっくりと珈琲をおかわりした。

帰り際、こう言い残した。


「明日は、特別な本を持ってくる。君にも見せたい」


そう告げると、フードの客はふたたび夜の街へ消えていった。


私は――明日の“特別な本”とやらに、少し胸が高鳴っていた。


---


■ 特別な本の正体


翌日の午後、カフェの扉がカランと鳴った。

入ってきたのは、もちろんあのフードの客である。

だが今日は、いつもの肩掛けカバンが膨らんでおり、その中身がやけに気になる。


「お待たせした。これが、君に見せたかった特別な本だ」

そう言って差し出された包みを、私はそっと受け取った。


……軽い。

表紙の感触はふかふかで、紙というよりは布のよう。

包みを開けてみると――中から出てきたのは、古書に見せかけたスポンジケーキであった。


「これは……本型のケーキでございますか」

「うむ。前に食べた“紙”の味を再現したくて、自分で焼いてみた」


ページ部分はクレープ生地が何層にも重なり、インクに見えるのはチョコレートソースで描かれた細かな文字。

背表紙はビスケット生地、カバーには抹茶パウダーがふりかけられている。


「……しかし、なぜわざわざ私に」

「君は紙を出してくれる数少ない店主だ。礼をしたかった。それと――一緒に食べたかった」


その言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


二人でケーキを切り分けると、甘い香りが店内いっぱいに広がる。

一口食べるたび、スポンジの柔らかさとクレープのもちもち感が心地よく、まるで物語を一ページずつ味わっているようであった。


「これは……紙の味の中で、一番やさしい味でございますね」

「君のシナモンブレッドに影響されたんだ」


食後、客は残った一切れを丁寧に包み、こう言った。

「明日は別の店に行くが、また必ず来る。本を食べたくなったら、真っ先に君の顔を思い出す」


そうして彼は、フードの奥で小さく笑いながら、夕暮れの街へ消えていった。


カウンターに残ったのは、甘い香りと、一枚の食べられない本のしおり――いや、食べられるかもしれない、砂糖細工のしおりであった。

私はそれをそっと棚に飾り、今日もカフェの灯をともした。

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異世界キクミ-カフェへようこそ〜転生バリスタは眠らない〜 @Kikumi144

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