石に捧げる花
朝吹
推し。いつから「推し」という言葉が使われるようになったのだろう。限定的な呼称が気がつけば市民権を得た「オタク」と同じように、「推し」はすっかり定着した感がある。
「ファン」は巨大な集合体の一員であるが、それと比較して「推し」には、もう一歩踏み込んだ、前向きな強い気持ちがこもっている。
たとえ世界の誰ひとりとしてそれを知らなくとも、わたしの推しはこれなのだ。
極めて個人的な嗜好の宣言だ。しかしそこには不思議なほどに広々とした開放感がある。かえるの卵のように密集している「ファン」とは異なり、舞い上がるような気持ちが翼となって、力強く対象に向かって直線に飛んでいる。
振り返ってわたし自身の「推し」は何かと問われると、その都度いろんな推しがあった。実にあった。浮気性なのだ。
もしわたしが男に生まれていたら、間違いなく浮気男であっただろう。それも軽い気持ちではない。それなりに真剣に、あれもいい、これもいいと順繰りに愛人を巡り、カエサルばりに「元気にしてた?」と挨拶したことだろう。しかし博愛ではなく、そこにはちゃんとわたし自身の嗜好によって振り分けられた、「謎の好み」が発生していただろうとおもわれる。
謎の好み。
ときけば、それはさぞかしマニアックな、誰も知らないようなものばかりを、「我だけがこれを理解できるのだ」そんな優越感込みで高尚に愛好するのだろうとおもわれそうだが、これが本当に謎なのだ。
どちらかといえばB級推しではあるが、推しという言葉がなかった頃から、わたしは時代のアイドルや、ベストセラー、誰もがその名を知る大スターにも、「いいねえ」と云ってきた。にわか上等。
一方で、その実在を疑われそうな、まさに誰も知らないような、俳優や小説や音楽も、熱狂的に好きだった。
誰も知らないといったって、せいぜいが同学年の級友のあいだの範疇で、いちど世に出たかぎりはそれは誰かが知っているのであるが、まあそこそこ、一般的には「誰それ」と問い返されそうなものも、多々混じっていた。
有名無名とわず、自分の好みに忠実。若いうちからそうだった。
しかも、ひどい雑食だ。
飲めればいいのさとスーパーで買ってきた箱入りの紅茶で満足していることもあれば、「たったこれっぽっちでこの値段」とぼやきながらも、何やらありがたそうな名のついた茶葉を奮発して買うこともある。この世には愛好するものを一点に絞って深く狭くそれ一筋というご立派な方々も大勢いるというのに、わたしはそうではなかった。だから男に生まれていたら、さぞや大変なことになっていた自覚がおおいにある。この性質が恋愛に向かっていたら、とりかえしがつかないことになっていたはずなのだ。
推しの話をするのだった。
もはや笑い話となっている一例がある。以前にもなにかで書いたことがあるが、その昔、横浜のふるぼけた古本屋の片隅で、有線から流れてきた曲に雷に打たれるようにして心をもっていかれたことがある。
十二歳だった。
わたしはその時、大学生とおぼしき店番の店員に、
「今の曲はなんですか」
勇気を振り絞って訊いたのだ。
実はそれは今さら口に出すのも恥ずかしいほどの誰もが知るバンドだったのだが、生まれたての赤子が何も知らぬように、わたしは知らなかった。
メジャーなものだったことなんか、後から知った。だが、それが何だというのだろう。
いま、訊かなきゃ。
ここで訊かなきゃ誰の曲なのか、二度と分からなくなる。
今の曲はなんですか。
本を読みながら古本屋の店番をしていた文学青年は、レジの前に立った少女の質問に全く表情を変えぬまま、
今のは、ジミ・ヘンドリックス
ぼそりと応えた。
それだけでは憶えられぬだろうと彼が紙に走り書きして渡してくれた、その呪文のような名が書かれた紙片を握り締め、キリコの絵画のような夕暮れの坂道を帰ったあの春。
頭蓋骨のなかに残ったあの音。
あの薄暗い、横浜の片隅にあった縦に細長い小さな古本屋に流れ出し、十二歳のわたしをその場に釘付けにして、地面に吸い込まれそうなほどの衝撃を与えたもの。たとえジミヘンがメジャーではなく、誰も知らない、シングルカットのレコードをいちまい世に残しただけの日蔭の存在であったとしても、心に刻まれたものに何の違いがあるだろう。
「推し」とは、要は好きであるということだが、嵩じると、人はおもいもよらぬ行動力をみせるものである。その後、「誰ですかそれ」の為に英国のど田舎のライブハウスに駈けこんだこともあれば、どうしても手にしたい海外インディーズバンドの記念グッズの為に、危険を承知で掲示板に「謝礼はする」と書き込み、同じ推しを分かち合う他県の親切な紳士の手を経て、無事に入手したこともある。
ばかじゃねーの。
多少の分別もついた今ならばそれらの若気のいたりを冷や汗をもって回顧するのだが、まあこのくらいは誰でもやることだ。
それは実に楽しい日々なのだ。
誰もが傾倒する大衆的なものから、ロシアの映像保管室で発見されて細々と好事家の間で語り継がれ、真冬の道を自転車をかっとばして駈けつけた場末のおんぼろ映画館で明け方まで繰り返し観ていた傷みの酷い映画まで、推しのことで頭と心をいっぱいにしているあいだは、他の些細なことなど、どうでもよかった。だってわたしには推しがある。推しのために生きている。推しさえあればこうして胸を弾ませて、明日も生きていけるのだから。
さて、そんな「推し」であるが、前述のように浮気性のためにいろんな推しがあった上に、興味のない他人の推しの話など、夢のはなしと同じようにひどく退屈なものであろうから、ここで語る気にはどうもなれない。
推しとは自分が好きなものを人にすすめることだというのは分かるし、誰よりも熱量をもって語る自信はある。あるのだが、好きな家電メーカーや筆記具や歴史上の人物について気狂いじみた熱弁をふるったところで、推しを語るというのは、読め読めと押し付けられたものを人が忌避するのと同じ心理で、受け手にはうざったい。共に盛り上がってサイリウムを振るファンとは違い、あまり誰かと「推し」をきゃあきゃあと共有したいとはおもわない。
わたしはただ、時折、ひどく個人的な嗜好であるところのその魅力をぽろりと洩らすだけでよい。「推し」という語には対象のそれそのものと、推している側の人間の双方を包括しているが、推したるもの、我を出さず、黒子に徹して推しを愛でていればよいのだ。
とはいえ、それでは片手落ちであろうから、何かはまな板にのせなければならない。音楽つながりで今おもいついたのは、Samantha Fishである。
サマンサ・フィッシュは、海外バンドのお姉ちゃんである。もう若くもないし、特別に美人でも、格別に巧くもないのだが、肉付きのいい身体をした彼女のことがわたしは好きだ。 過去にボツにしたエッセイのテキストにも、その一行目に、
『サマンサ・フィッシュはいい女。サマンサの「悪魔を憐れむ歌」のカバーは最高。』
意気揚々と書いたことがある。
巨大なスタジオで一流のプロを集めて売れ筋を磨き上げたヒットチャート上位の、洗練されたナンバーなんかよりも彼女のライブのほうが好きだ。がつがつと、時にはやる気ゼロでだるそうに、砂を吸い込んだような低い声で、「あんたたち、あたしの歌をきくの~?」とでも云いたそうにシャウトする。
酒場で「頼むよ」と小銭を積まれて、仕方なくビール瓶をおいてダルそうに立ち上がり、しょーがねえな、客なんかしらんわ、とでも云いたげに、曲の中に沈み込んでいく歌いっぷり。どこまでも俺と行こうぜサマンサ。
「ファン」ならば見返りを求め、ファンが求める理想や期待や誠実さの供給を対象に要求するだろう。熱愛報道が出ようものなら、裏切られたと騒ぎ立ててファンを辞めていく。南の島の夜の浜辺で積み上がったファンレターをいちまいも読むことなく焚火にして燃やしていた女性アーティストがいたが、外野からぶつけられる想いは、活動者にとっては重いのだ。
「推し」にはそれはない。どうぞお好きに。
あなたが勝手にやってくれるのがいちばんいい。わたしは酒場の隅から勝手に「いいねえ」と呟いているだけの存在。
他人の夢のはなしは退屈だ。だから推しの話もつまらない。人に押し付けるほどの悪手はない。
もし興味をもってもらえるとすれば、語り手に何らかの定評があるか、あるいは「推しの推しだ」というので、奇特な人から関心を寄せてくれるくらいのものだろう。それですら当人に響かなければ、
だからあまり長々と語るつもりはないのだが、あれは確かに「推し」だったと云えるわたしのもう一つの昔話でも添えよう。それは録画していた白黒映画の中の俳優だった。
なんて素敵な、独特の雰囲気をもった人だろう。
吸い込まれるようにして当時十代のわたしは彼に魅了されてしまった。その時点で、俳優はすでに故人だった。
それからわたしは、神田や、全国の古書店に問い合わせ、映画の公開年から割り出した古ぼけた映画雑誌を取り寄せては、自室の本棚の片隅に専用の場所をつくり、まるで神棚のようにしてそこにその映画俳優のものを熱心に集めはじめた。
故人なので、もう新しいものは出てこない。わたしの「好き」はその最初から、完全なる後追いだった。
せっかくお小遣いを投入して取り寄せてみても、あてが外れてわずかな広告しか載っていないことも多かった。変色した古雑誌の中に一行だけ遺された、その俳優の名。
わたしのはじめての推し。映画俳優もジミヘンも、さいわいにして最初から故人だった。そのはじまりから、期待をかける余地のない一方的な片想い。
目に留まった石に花を捧げる。
「いいねえ」
墓標に対して過剰な期待をかけることがないように、有機物であれ無機物であれ、あちらから手を振り返して欲しい、期待してやったのだから期待に応えるのが当然だろう、存在を知って欲しい、この気持ちを伝えたい、とは、わたしは微塵もおもわない。わたしという不純物をそこに混ぜ込みたいとは望まない。
夜空の星座を見上げるようにしてわたしが勝手に好きなものを推す。
すっきりと、ただそれだけ。
夭折したその俳優の年齢をわたしはとうの昔に追い越した。せっかく集めた古い映画雑誌であるが、転居を繰り返すうちに再入手可能なものから手放していった。若い姿のままに白黒映画のなかで時を止めた彼。下町生まれだったが、所作の隅々に天性の気品があった。笑う時にもその向こうに、もういちまい、何かの感情が隠れているような眼をしていた。
女が通り過ぎた少し後から、伏し目がちにそちらを見送る。その様子にも、抱え込んだ野蛮と臆病さがあって、とくによかった。
[了]
石に捧げる花 朝吹 @asabuki
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