7.卒業制作 前編

 実を言ってしまえば、5月の終わりに早川先輩が春教室に来た時、先輩とは「初めまして」ではなかった。その数日前にも一悶着あった。でも、2人ともその事には触れなかった。その話題を持ち出すのは無粋だ、というのが一つ。(同じような理由ではあるが)もう一つは本心を曝け出してしまえば負けたような気がする、ということである。

 だから互いの本音をぶつけるなんてことは避けた。同時に腹を探るような真似をするのも控えた。でも聞きたいことは山のようにあって(先輩風に言えば白妙の富士の如くあって)、僕はどうしようもなかった。ただ一言、そう、ただ一言……いや、三言!

 「山の根本、すなわちの根は扇状地とか広がってて緩やかなイメージがあるじゃないですか。それに対してって上流付近のことを指しますよね。よって礼奈先輩は無事に上流階級になったという解釈を僕がしても差し支えないということですよね。」と言えば良かった。そして、「そうだね。三角州や扇状地……正確には戦場の地から上流へと川を登ったんだね。まるで鯉のように。次は天空にでも改名しようかな。」と言ってもらえれば少しは自分が楽になった。

 でも聞けない。いくら自分の心の凝りに効くとしても聞くなんて出来ない。

 もし菊の花をどこかで見かけたら、「菊ですね」なんて禁句だ。「9月ですね。」と返すべきだ。例え何月であろうと。そしたら「花札の暦は旧暦だったりするのかな?」と返してくるだろうから。

 四葉のクローバーを見つけたら先輩は幸せになるだろうか。双六でゾロ目が出たら先輩は幸せになるだろうか。

 盃を交わしたら本音を話すことになるなら僕らはそんな真似はしない。婉曲表現こそが2人の架け橋だった。及び八ツ橋だった。

(#1〜9)



7月 第2木曜日


「こんにちは。」

「こんにちは。」

「突然なんですけど」

「はい。」

「私まだ返してない本ありますよね。」

「ありますね。……ってこのやり取りは前にしましたよ。」

「返します。」

「少しは“自省”して欲しいんですけどね……え?」

「すぐに返せなくてすみませんでした。ご迷惑をおかけしました。」

「いやいや! 突然すぎますって! 何があったんですか!?」

「こちらでよろしいですか?」

 彼女の手には『タ・エイス・ヘアウトン』が握られていた。その視線は驚くほど真っ直ぐで、いつものように捻くれてなんかいなくて、何故か寂しくなった。

「どうしてですか? なんでいきなり。」

「身勝手な理由でずっとお借りしてしまっていて、それが非常に申し訳なくて、でもどうにもできなくて。だからいっそ、思い切ってみようかなって。」

「待って下さい! 待って下さいよ! ココ思い切るとこじゃないですよね!?」

 これ以上ないほどに動揺していた。図書委員としては黙って受け取るのが筋であり、模範解答であろうがそれが出来なかった。

 一方でこれを受け取ることが彼女にとってある種の区切りになるのかもしれないと思った。“あれ”と『自省録』は深く関わっていて、“あの時”春教室での出会いが互いの分岐点となったのは言うまでもない。もし自省録をせば、本が元あった場所にれば、トロッコ問題のレバーの様にこれからの行く末をえられるかもしれない。僕らの道草はゼロに帰すかもしれない。

 でも。でも。先輩は忘れてしまったのか? 彼女にとって『自省録』はある種の救いではなかったのか? それは十中八九、間違いないはずだ。そう信じたかった。


「お願いです。受け取ってください。」

「……」

「あの、その……」

「……」

「受け取ってくれないんですね。」

「……」

「それってつまり……」


 三寒四温が通り過ぎ、4月が終わって、GWが終わって、授業と委員会が本格化してきたときだ。そうだ。あの時だ。

『七転び八起きと言いますか……。それを経て結局人は』

『そうだね。四面楚歌を乗り越えて人は』

『成長しますから。』

『成長するからね』


「返さないでください!!」

春に似た色の何かが五臓六腑に沁み渡る。

少なくとも、数字では、つまりカラーコードでは、正確に表せる色彩ではないだろう。

(#0~9)

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